転校生に連れられ促されて入り込んだ鏡の中は、先の見えない暗闇だった。
視力の落ちた右目を気にしているのだろう。左側にいた親友は繋いでいた手を一度離して右側に移動すると、寄り添うようにして手を繋ぎ直した。
「大丈夫?手を離さないでね」
そう言って、親友は繋いだ手に少しだけ力を込める。
それに頷きながらも、視線は何一つ見えない暗闇の先から逸らす事が出来ない。
「どうしたの?」
心配する親友に、大丈夫だと首を振って答える。
彼女が心配するような事はない。何かが見えている訳でもない。
ただ。何故だろう。
その暗闇を、懐かしいと感じた。
「篝里《かがり》。案内はいらなくなった。その時間も惜しいから、直接繋げるよ」
「分かった」
暗闇の中。男の人の声がする。
聞いた事のあるような。やはりどこか懐かしい気持ちに、そんなはずはないと否定する。
暗闇を怖がる気持ちと一緒。
脳が騙されているのだろう。
脳裏を過ぎた思いに、内心で首を傾げる。
何故そんな事を思ったのか分からなかった。
「二人、なんだな」
「ちょっと訳あり。あれと接触したらしい」
「そうか」
「そういう訳だから、さっさと明るくして話をしてくれない?」
彼女の言葉に、周囲が明るくなる。
「急げとは言ったけれども、焦るのはよくないな」
先ほどとはまた別の男の人の声。
木の格子の向こう側。鎖に繋がれた誰かが見定めるようにこちらを見ていた。
穏やかな、優しい。恐ろしい、視線。
視線が交わる。上手く見えない視界でも、向こう側の彼が驚いたように目を見開いたのが分かった。
「あれと接触したというのは本当かい」
「嘘をつく意味がない。それに否定して切ったのに、目を付けられている」
「俺はその子に聞いているんだけどね」
「声を持って行かれているのに、話せる訳がない」
「玲《れい》」
彼が彼女の名を呼ぶ。
冷たいその響きに、彼女は息を呑んで。
ごめん、と小さな謝罪。
それに頷いて、彼は再びこちらを見た。
「話さなくてもいいから、答えてほしい。あれを近くで見たのかい」
あれ、というのはクガネ様の事なのだろう。
小さく頷く。
「あれの声を聞いたかい」
もう一度頷く。
「あれに触れられたりはしたかい」
首を振る。
直ぐ横を通り過ぎただけで、触れられたりなどはされなかったはずだ。
そうか、と納得したような声が響き。
じゃら、と音を立てながら、彼は格子戸を指さした。
「開けてごらん。今なら開けられるはずだ」
格子戸を見る。鍵は掛かってはいない。
促されるようにして、足を踏み出し。
けれど繋いだ手が戸に近づく事を阻むように、引かれた。
親友を見る。
凪いだ眼に、警戒を乗せて。静かに彼を見ていた。
「危害は加えない。開けられるか否かを見定めるだけだよ」
「開ける事で入れ替わるのに?」
「その子ならば無効化するよ。問題はない」
彼の言葉に、それでも親友の手は離れない。
控えめに手を引く。視線を合わせて、大丈夫だと告げる。
開けられる。
今度こそ。
また脳裏に知らないはずの思いが過ぎる。
それを見ない振りしながら、親友の手をもう一度引けば、小さな嘆息と共に手が離された。
「気をつけて。無理はしないでね」
心配する言葉に笑って頷く。
親友に背を向けて、格子戸の側まで歩み寄り触れた。
「戸を開けて、中に入っておいで」
格子の上から三つ。右から二つ。
下から手を差し入れる。手のひらを押しつけるようにしてゆっくりと力を入れて押し開ける。
さほど抵抗なく開いた戸を潜れば、彼は満足げに笑った。
「上出来だ。記憶になくとも、見定める眼はしっかりしているね。いいよ、おいで。記憶を戻すのと一緒に、声と眼も戻しておこう」
手招かれ、促されるままに彼の元へ近づく。
どこか懐かしい歌。鎖に繋がれた手が、その指が額に触れて。
脳裏を過ぎるのは、小さい頃に繰り返し見た夢。
暗い廊下を黒い男の人に連れられて。その奥にある格子の鎖を、中の男の人に教えられながら一つずつ解いていく、そんな夢。
最後の鎖を解いて。朦朧とする意識の中で聞こえたのは、たしか。
「大きく、なったら。格子戸を」
「思い出したね。そうだ。君は戻って来て、この格子戸を開けられた。合格だよ。俺の後継者」
はっきりと見えるようになった彼の口元が、にんまりと歪んで。
「変態」
「さすがにそれは見ているだけで気持ち悪い」
両方の手を引かれ、視界から男の姿が消えた。
彼女と親友の背が視界を覆い、庇われているのだと知った。
「時間がないと言ったのは藤白《ふじしろ》だ。さっさと話す事を話して、あれを何とかしに行って。あといくつの篝里を作らせる気なの」
「酷いな。後継者なんて今まで現れた事がなかったんだから、喜んだっていいだろう」
彼の言葉を彼女は鼻で笑い。
彼の隣に立つと、くるりと振り返る。
「この鎖に繋がれているのが、君たちが探していた藤白。遠い昔、名前のない不安定な妖を名付けて飼い慣らした、すべての元凶だよ」
酷いな、と笑う彼を一切気にせずに、彼女は話を続ける。
「それで、その後ろにいる黒いのが篝里。あれが呪を求め続ける理由になった、藤白という存在のせいであれに消された被害者」
「あなたは?」
親友の問いに、彼女は心底嫌そうに顔を顰めた。
「藤白の魂の一部を持って生まれた、ただの人だよ。藤白という存在のせいで記憶を継いでるし術を使えるけれど、それだけ。本当に不本意だけど」
はぁ、と溜息を吐く。本当に嫌で仕方がないようだ。
「あれが封印されていた黄櫨《こうろ》さんの躰を攫ったのは、おそらく篝里を作りたかったからだ。僅かに残るよすがと、欠落している大半を呪で埋めたものとを合わせて、新しく篝里を作ろうとしている。かつて藤白を戻すために篝里をそうしたように」
顰めていた顔を淡い笑みに変えて彼女は言う。
そしてその笑みすら消し、真剣な面持ちで告げた。
「少し長いけれど、話をしようか。その間にあれの庭まで、道を繋ぐから」
彼女の言葉に、親友と視線を合わせる。
どちらともなく手を繋ぎ。
彼女達を見据えて、ゆっくりと頷いた。
20241110 『脳裏』
朽ちた廃墟の地下。その奥に隠されるようにして、それはあった。
「兄貴が渋い顔をしてたのは、これか」
「どうする?中に残るものを持っていけばいいのか」
姉の言葉に首を振る。
「あれは本物じゃねえ気がする。おそらく歪に近、いずれた空間にいるんだろうよ」
地上の朽ちた建物とは異なり、形を残す格子に触れる。そこに貼られた夥しい符をなぞり、馬鹿らしい、と嘆息した。
「私には符の意味が分からないが、これは封じているのか?」
「そうだぜ。全部封印符だ。化生、邪魅、妖…とにかく人でないモノをこの座敷牢から出したくなかったらしいな」「意味が分からない。藤白《ふじしろ》というのは、人だと言っていなかったか」
訝しげに眉を潜める姉に、そうらしいが、と曖昧に言葉を濁す。
兄の眷属の少女が視た男を、兄は人だと断じた。
それを縁に今を視た兄に従い訪れた地で、確かに座敷牢はあった。だがその内側で錆びた鎖に繋がれていたのは、干からびた骸。訪れた者の目を欺くために置かれた、紛い物
出立する前の兄の表情と言葉を思い出す。
悩み困惑し、戸惑っているようにも見えた。おそらくだが、と前置きをし、意味のない事となるだろうが、と断定をさけた物言いは、兄にしては珍しいものだった。
「聞いた話じゃ、随分と古くさい術を使っていたみたいだが、この符はそこまで古くはないな。せいぜい三百年前ってとこか」
「今は使う者がいない、滅んだ術だったか?」
「使わないっつうか。使えないってのが正しいな。複雑すぎて、頭がやられる」
縛りがない代償に簡易化が出来ず、術師の負担が大きいが故に廃れた術だ。
「複雑すぎる分、解かれ難い。招かれない限りは会えんだろうな」
「ならば、どうする?」
問う形ではあるものの、姉の中でも答えは出ているのだろう。
ここにいた所で、意味はない。ならば一度兄の元へと戻るのが最良だろう。
「戻るしかなくね?んで、嬢ちゃんとこに来たやつと接触するのがいいと思うけどな。たぶんそいつ、ここの引きこもりに関係する気がすんだよな」
勘でしかない事ではあるが。それでも少女の話と先日の狐の話を聞いて、その娘の使う術がよく似ていると感じたのだ。
今は廃れたはずの、ここにいる男が使ったという古い術に。
「とにかく兄貴達に伝えなきゃな。戻るぞ姉ちゃん」
腕を差し出せば返事の代わりに己の腕に収まる姉に笑いかけ。
暗いその場を後にした。
「ねえ、少しいいかな」
放課後。
控えめに声をかけてきた少女に頷き、了承する。
ほっとした表情を浮かべる彼女に、敢えて気づかない振りをして、要件を待つ。
「一緒に来てほしい所があるのだけど」
少女の言葉に直ぐには答えを返さず。
ちらり、と親友を見て、お互いに頷きあった。
「こちらの条件を呑んでくれれば、いいよ」
「条件?」
少女の表情が訝しげなものへと変わる。
条件を出されるとは思っていなかったのだろう。
有無を言わさずの行動ではなかった事、条件に心当たりがまったくなさそうな事。
彼女は違うのだと確信し、内心で安堵する。
親友に目配せをする。頷き親友が机の上に置いた小さな箱を見て、少女の顔色が変わった。
「これを何とかしてくれるなら、一緒に行ってあげるよ」
「なんで、これ」
少女の手がゆっくりと箱の蓋を開ける。
収められていたのは、瑞々しい藤の一房。枯れる事のない、季節外れの花。
開ける前から予想はしていたのか、少女は項垂れて小さく、誰が、と呟いた。
「曄《よう》に送られてきた。誰が送って来たのかは分からない。曄が親戚に連絡しても誰一人繋がらなかった」
「だろうね。あれが動いてしまっているんだ」
はぁ、と嘆息し、少女は顔を上げた。
少し迷うように視線を揺らして、言葉を探すようにゆっくりと話し出す。
「悪いけれど、意味がない。どうにか、は出来る。でも同じ事が繰り返されるはず。それくらい、あれと君は距離が近くなってる。声が出し難いでしょう。それと、右目も少し視力が弱くなっているね」
「分かるんだ」
「そりゃあね。最初にしっかりと否定して、切ったと思ったんだけどな」
小さく首を傾げ。ごめんね、と少女は親友に謝罪をした。
「私と縁が繋がると、あれが寄ってくると思って繋がりはないと否定したんだ。意味はなかったみたいだけれどね。もしかして、あれと直接会った事がある?」
「あれが誰かによるけれど、もしも曄の叔父さんの家にいる守り神だったナニかなら、私達は夏に会った事がある、らしいよ」
少女の顔が歪む。
「それ、最初に言ってほしかった。繋がるのを嫌がって否定した私が言えた事じゃないけど。でもそれなら余計に今は何をしたって意味がないよ。根源を何とかしないと」
「そう。何とか出来る?」
「何とか出来るというか、何とかさせに行く。時間がないな。今から一緒に来てくれる?」
不安を乗せて尋ねられる。
この話の流れで、今更断ると思われているのだろうか。
それこそ意味のない事だと、苦笑した。
「いいよ。逆にここで断ると思う?」
「いやだって。別件でちびたちが色々とやらかしてるからさ」
「あぁ、そう言えばそうだったね。それについても行きながらでいいから話してほしいな」
話を聞いていた親友と視線を合わせ、立ち上がり。
右手を親友と繋ぎ、左手を少女に差し出した。
20241109 『意味がないこと』
暗く先の見えない回廊。
手にした提灯と、側に佇む黒を身に纏う男を視界に入れ、少女は不快に顔を顰めた。
「来たか、」
「問答をする気分じゃない。要件だけ聞いて帰るつもりだよ」
男の言葉を遮り、この場に訪れた事が不本意だと言外に匂わす。舌打ちをして、少女は手にした提灯を放り投げた。
唯一の灯りが消える。辺りが暗闇に閉ざされる。
己の姿さえ見えない程の闇に、それでも少女は狼狽える様子はなく。その闇すら煩わしいと、声を上げた。
「無駄に時間を費やすつもりはないから。さっさと出てきなよ」
ぼっ、と。
少女の言葉と同時。周囲に灯りが点る。
目の前に続く回廊は姿を消し、代わりにあるのは格子に区切られた座敷牢。
その奥。四肢を鎖に繋がれた男を認め、少女は不快さを隠しもせずに睨めつけた。
「それで?要件は何?」
「酷いな。久しぶりに会えたというのに」
「会わなくても見えてるんだから、会う必要性を感じない。早く要件を言って」
取り付く島も無い少女に、鎖で繋がれた男は楽しげに笑う。
それに舌打ちをして顔をさらに顰め。苛立つままに少女は男に背を向けた。
「帰る。ただ遊びたいなら、他を呼び寄せればいい。わざわざ会いに来たのがいたんだから、会ってやれば?」
「それの話をしようとしたんだ。待ってくれないか」
はぁ、と溜息を吐き。少女はようやくか、と振り返る。
「何?会わなかったのを後悔でもした?」
「まさか。判断材料が足りないんだよ」
笑みを消し、男は少女を見据える。
少女もまた不快に歪めていた表情を消して、その目を真っ直ぐに見返した。
「君は俺に何を望む」
「さっさといなくなってほしいかな」
男の言葉を少女は鼻で笑い、嘯いた。
それ以上の言葉を交わす事は無く。
沈黙。互いの真意を測ろうと、視線を逸らさず表情もなく見つめ合う。
くすり、と。
静寂を破り、少女の口元が歪んだ。
「まあ、冗談だけど。でもあれを放置していた責任は、取ってほしいとは思ってる」
「それはそうだけどね。俺は今、ここから出られないから」
「選り好みするからだ。自業自得」
言外に無理だと告げる男の言葉を、少女は呆れを滲ませ突き放す。だが男が安易に出れぬ理由を知るが故に、視線が迷い揺れ動いた。
それを見て、男が腕を伸ばす。
じゃら、と鎖が音を立て。その腕はしかし、格子にすら届かない。
「白《しろ》」
男が呼ぶ。その名に少女は顔を顰めて首を振った。
「やめて。もうその仮の名は捨てたんだから」
「そうだったね。――玲《れい》」
「…何?」
改めて呼ばれた名に、少女はおとなしく答える。
思う所はあるものの、これ以上は時間の無駄になるだけだ。
それを知って、男も敢えて話を引き延ばす事をせずに少女を手招いた。
格子の手前まで歩み寄り、少女も手を伸ばす。男の手に自らの手を重ね、目を閉じた。
「あぁ、そういう事か」
触れた手を通して見えたものに、男は納得したように頷いた。
手を離せば、さりげなく服の裾で手を拭う少女に苦笑しつつ。玲、と少女の名を呼んだ。
「いいよ。連れてきてくれたなら会ってあげよう。その子が俺を出してくれるというなら、あれの所に行ってもいいよ」
「連れてくるのはちょっと。警戒されてしまっているだろうし」
顰めた顔を僅かに曇らせ、少女は言葉を濁す。
好かれてはいないのだろうと思う。特にこの場所に来る前に起こった事を考えれば、好かれる要素は何もない。
好かれぬ者に誘われたとして、果たして来てくれるものだろうか。
「そこはどうにでもなるだろう。俺を探しているのだろうから、素直に話せばいい」
「そう単純な話じゃない。ちびたちがやらかした事を考えると、話すら聞いてもらえない可能性がある」
「だが俺と縁が繋がっていないのだから、招き入れる事は出来ないよ。他に方法はないだろう」
そうだけど、と煮え切らない態度の少女に、男は目を細め。
見定めるその目に、少女は分かった、と力なく頷いた。
「誘いに乗るかは分からない。それでも何とか入り口までは連れてくるよ。その時は篝里《かがり》に案内を頼む」
「仕方ないな。それでいいかい」
振り返り声をかければ、いつの間にか男の後ろにいた黒を身に纏った男が小さく頷いた。
黒の男の同意を得られた事で、小さく安堵の息を吐き。
少女はどこか疲れたような顔をしながら、帰る、と背を向けた。
「分かっているとは思うけど、急いでくれ。時間はあまりない」
「はいはい。分かってるって」
「本当に分かっているのか。まったく。君はもう少し俺の意識を持つべきだと思うんだけどね」
「いやだよ」
男の言葉を否定する。
振り返る事もせず、いやだ、と繰り返した。
「別れたものは一つにならない。戻る気もない。今回の事がなかったら、こんな湿っぽい所になんかくるはずもなかったんだ。それを忘れないでよ、藤白《ふじしろ》」
男の意識も意思すらも、今はもう関係はない。
今回は特別なのだと、念を押して。
じゃあね、と投げやりに声をかけ、少女の姿が掻き消える。
その姿を見送って。仕方がないな、と男は小さく笑みを溢した。
20241108 『あなたとわたし』
雨の音がした気がして、顔を上げた。
激しくはない。静かな心地の良い音。
読んでいた本に栞を挟んで閉じる。
立ち上がりカーテンを開ければ、糸のように細い雨が降っているのが見えた。
窓を少しだけ開けて腕を出す。優しく腕を濡らす冷たい水の感覚に目を細めた。
涙雨。ここではないどこかで誰かが泣いてでもいるのだろうか。
腕を戻して窓を閉める。カーテンは開けたまま。
椅子に座り直すものの、本の続きを読む気も、濡れた腕を拭う気も何故か起きなかった。
ぼんやりと、ただ窓の外を、降り続く雨を見る。
滲む景色の向こう側。白い何かが横切ったように見えて、目を凝らす。
ちらちらと、白が揺れている。踊るような、揺蕩っているような、ここからでははっきりと見る事の出来ない白が視界にちらついて。
気づけば、その白に誘われるようにして、部屋を出ていた。
「あぁ、来てしまったか」
ぱしゃん、と跳ねた水音に振り返る男の姿を認め、立ち止まる。
懐かしい、その見慣れた姿。忘れていくだけの遠い過去。
「法師、様?」
尋ねる声に男は何も答えず、ただ淡く微笑んだ。
その横を、ふらふらと白い髑髏が通り過ぎる。
ふらふらと。ゆらゆらと。
波に揺蕩うように自由に白が宙を彷徨う。けれどその眼窩はこちらを向き、逸らされる事はない。
手を伸ばす。
今なら、触れられるような気がした。
「やめておくといい。切り離された縁を再び繋げる意味はどこにもないだろう」
けれどその行為は、穏やかな声に窘められ。
否定する理由も見つける事が出来ず、諦めて腕を下ろし俯いた。
「怪我をしたのか。大事ないか」
頬の傷を指摘され、首を振る。
「皆、は?」
「問題ない。求めていたのはこの子のようだからな」
髑髏の事だろうか。見えてこない彼らの目的に、混乱してくる。
何故、この場所を知っていたのか。
何故、髑髏を求めたのか。
呪いを解くとは何を意味していたのか。
彼らは一体何なのか。
分からない事ばかりだ。
「この子も大分落ち着いたようだな。そろそろ戻らなければ」
男の言葉に徐に顔を上げる。
漂っていた髑髏が男の腕に収まり、やはりこちらに顔をむけたままで、口を開いた。
――雨ハイイ。特二静カナ雨ガイイ。今ノコノ柔ラカナ雨ハ心ヲ鎮メテクレル。
かたかたと下顎を動かせば、声もないのに言葉が入り込んでくる。
――落チ着ケ私ダッタ者。コノママ泣イテイタノデハ引キ摺ラレテ沈ム。ソレハ勿体ナイダロウ!
かたかた。楽しげに髑髏が語る。
さあさあ。優しい雨が降り続く。
音が響く。言葉が入り込む。
不快ではないそれらに、心に溜まっていた不安が少しずつ溶けていく。
――戻ルトイイ。目ガ覚メテイル頃ダ。
誰が、とは敢えて聞かなかった。
分かった、と頷いて目を閉じる。
さようなら、と声には出さずに呟いた。
「彩葉《あやは》」
頭を撫でられている心地の良い感覚に、意識が浮上する。
目を開けて、体を起こす。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「目が覚めましたか。彩葉」
雨のように静かで柔らかな声に呼ばれて視線を向ければ、ベッドで身を起こし微笑む住職と目が合った。
「っ住職様!」
微睡んでいた意識がはっきりして。
思い出す。たくさんの赤を。
暗い赤。鮮やかな赫。夕日の空に似た朱色。
「怪我は?起きていて大丈夫っ?」
「落ち着きなさい。怪我は大した事はないのです。それよりも」
彼の目が痛ましいものに変わる。頬に張られたガーゼを傷に触れない程度に、指先が軽く触れた。
「怖い思いをしたのでしょう。申し訳ありません」
「わ、たしは大丈夫だから。こんなのかすり傷だし」
傷は深くはない。血もすでに止まっている。
それでも不安そうな親友を落ち着かせるため、彼女の好きにさせていたら、こんなに仰々しい手当をされてしまっただけの事だ。
「住職様が無事でよかった」
「心配をおかけしました。ですが、彩葉は何故ここに?」
彼の疑問はもっともだ。けれど何と答えたらよいのかを迷う。
見た夢を話せばまた心配をかけてしまう事だろう。
それでも夢の内容を話さず伝えるのは難しい。
「怖い、夢を見て。それで、夢だって分かってたけど、怖くなって。行っても意味ないって思ったけど、どうしても確認しなきゃって思って」
要領の得ない説明になってしまうが、住職は笑ったりせず、静かに話を聞いてくれる。
「それで、その。友達に話したら、一緒に来てくれるって言ってくれたから、それで」
「彩葉」
静かな声に呼ばれた。
雨のように柔らかく優しい声音。
穏やかで強い目に見つめられ、誤魔化す事は出来ないと悟る。結局はどうしたって心配をかけてしまうのだ。
それならば、隠し事を彼にだけはしたくはなかった。
「あのね、住職様。夢を見たの。水の底で微睡んでいる髑髏と法師様の夢」
苦笑して、話し出す。
夢の事。現実の事。
そしてさっき見た夢の話。
話しながらちらりと横目で見た窓の外は、澄み切った青空が広がっている。
雨どころか、雲一つない晴天。
泣き止む事が出来たのか、と他人事のように思いながら。
戻ってこれた事に、素直に安堵した。
20241107 『柔らかい雨』
暗い水底で微睡んでいた。
目を開けたとて、見えるものは何もない。そも見るための目も、開けるための瞼もなかったと気づき、内心で笑った。
とても静かだ。
ここには鮮やかな色彩も、煩わしい喧噪もない。分かるのは身に纏わり付く水の感覚と、己を抱く男の腕。
優しい男だ。それでいて他の誰よりも哀しい男であった。
ここで眠る誰もが口をそろえて答えるだろう。
そこにどのような理由があれど、男が皆/己を慈しみ、掬い上げてくれた事には変わらない。男の愛する者と共に行くという選択肢もあっただろうに、こうして皆/己の慰めとして沈むくらいには。
穏やかな意識の端で、取り留めのない事を考える。
欠落を抱えた満たされない飢餓感も焦燥も凪いだ今、戯れのように思うのはそんな些細な事ばかりだ。時間という概念すら曖昧な水底で、満たされた思いは呪を歌う事もなくただ揺蕩い、微睡み続けている。
少し眠ってしまおうか。
男の腕に身を預け、心地良さに意識が沈む。そのまま抗う事もなく、静かに、眠りに。
――光が差した。
一筋の、だが暗い水底では眩いほどの光が差し込んだ。
時折地上から降りる淡い光の珠ではない。真っ直ぐな刃の燦めきにも似た光。
誘われるようにして、男の手が伸びる。
光とは救いだった。水底に縛られ続ける皆/己を掬い上げ、還す事の出来る唯一のもの。
以前より光の珠を集めては皆/己を還していく男が、光に手を伸ばすのは可笑しな事ではない。
いつもの事。いつもとは違う光。
――呪の歌が響く。
波紋が鎖となって、男の腕を掴み留める。
背後の男が、息を呑んのが振動で伝わった。
今まで呪を歌う事なく微睡んでいた髑髏が、前触れもなく歌い出したのだから無理もないのかもしれない。
皆の困惑が伝わってくる。己のこの行為を、己自身すら分かっていない。
だが。しかし。
何故か何処かで警鐘が鳴っていた。
獣道を駆け上がる。
すぐに息が切れる脆弱な自分の体が恨めしい。
ただの夢だ。それは分かっている。
それでも、夢だからと一笑に付してしまうには、あまりにも怖い夢だった。
行った所で意味はない。出来る事など何もないと分かっていても、急く足はあの池へと向かってしまっていた。
「あーちゃん!もう少しだから」
息が切れ、足が縺れて転びそうになる度に、前を行く親友が手を引き踏み止まらせる。不安と諦めとが混ざり、混乱する思考を前へと進ませる。
そうして辿り着いたその場所に、夢だけでは見えなかった怖いものが何であるのかを知った。
「っ、住職様!」
傷だらけで倒れている住職に駆け寄る。抱き起こせば微かに息はあるものの、流れる赤と戻らぬ意識に不安が押し寄せる。
「まだ死んじゃあいないぜ。それに邪魔をするそっちが悪い」
知らない声に顔を上げる。
池の前。四人の子供達が何かをしているのが見えた。
「何、してるの」
「別に。呪いを解いているだけだ。悪い事ではないだろ」
呪いを解く。
意味が分からず、それでも止めなくてはと立ち上がりかけ。
その瞬間、頬を冷たい何かが掠めていった。
「あーちゃん!」
側で様子を伺っていた親友が、庇うようにして前に立つ。
頬に触れれば、ぬるりとした感触。ちり、とした痛みに、切られたのだと分かった。
「終わるまでおとなしくしてろよ。つか、ちびすけ。まだ終わんねぇの?」
「糸を取らないんですもの」
「警戒されてしまっているんですもの」
「深すぎて、よく見えない、から、糸をかけるの、難しい」
親友の背に阻まれて、彼らが何をしようとしているのかは見えない。けれど会話の内容から、良くない事だと直感的に感じた。
親友も何かを感じたのか。彼女の足が一歩、前に出る。
「紺《こん》、駄目っ!」
嫌な予感に立ち上がり彼女の手を引く。
だが遅い。手を引く瞬間に、彼女の背越しに見えたのは、舌打ちをする少年と白の光の線。
彼女に向けて投げられたナイフが、彼女を。
「止めて下さいな。ワタクシの紺に傷をつけようなどと」
目を灼く赫の炎。
親友を守る壁のように燃え上がり、ナイフを呑み込み跡形もなく消える。
「下がりなさい、紺。そこで倒れている男の側でおとなしくしていなさい」
「狐さん」
炎を纏い現れたのは、朱色の毛並みをした大きな狐。
親友が安堵の笑みを浮かべ親しげに呼ぶ様子から、この狐が彼女の大切なモノなのだろう。
掴んだままの手を改めて引く。こちらを見る親友を促して、住職の所まで数歩下がる。
邪魔になってはいけないと、本能が告げていた。
「邪魔なのが出てきたな。別にいいけどさ」
地を蹴り、距離を詰める。流れるような動きで手にしたナイフを狐の喉元へ突き刺すが、それよりも速く狐の裂けた尾の一つが少年の体を横殴りに飛ばした。
「面倒くさい尻尾だな。じゃあ、こうするか!」
宙で回転し、勢いを殺さず無数のナイフを狐に投げつける。
しかしナイフが狐に届く事はない。振った尾から現れた炎がすべてを呑み込み消していく。
とん、と少年が地に降りる。その表情に焦りはない。
また一つナイフを投げ。炎がそれを呑み込み。
だがナイフは消える事はなく、炎を纏ったままに狐の尾に突き刺さった。
「狐さん!」
駆け寄ろうとする親友の手を強く握り、引き止める。行った所で足手まといになるだけだ。それを分かっているのだろう。手は振り解かれる事はなく、小さなありがとう、の言葉と共に側に寄り添うようにして座り込んだ。
「少しは楽しめたけど、まあこんなもんか。案外あっけないな」
にやり、と少年の口元が弧に歪む。幼い外見に似つかわしくない鋭い眼が狐を見て、そしてその背後にいる自分達を見た。
視線が交わる。少年の口元がさらに歪んだ。
狐の尾が少年の視線から隠すようにして振られる。現れたいくつもの炎の玉は少年へと向かい。
「馬鹿なやつ。獣だから頭は良くないのか」
その言葉と同時に。炎の玉が炎を纏ったナイフへと変わり、そのすべてが向きを反転させた。
そのまま狐の尾に、体に深く突き刺さる。
ぐらり、と傾く狐の体を、親友と二人声も出せずにただ息を呑んで見つめていた。
「愚かなのは、果たしてどちらなのでしょうね」
静かな、それでいて澄んだ響きの声。
少年から笑みが消え、訝しげなものへと変わり。一つ遅れて複数の悲鳴が聞こえた。
少年よりも奥。池のすぐ側にいた二人の幼い少女達が悲鳴を上げている。
少女達の間には、目の前の少年よりもさらに幼い少年。その背には燃えるナイフが突き刺さり、音もなく静かに崩れ落ちていく。
「晴《はる》っ!」
振り返りその様を見た少年が、叫ぶようにして崩れた少年の名らしきものを呼ぶ。地を蹴り、素早く彼の元へと走り寄った少年の手は、けれど彼に触れる事はなかった。
「ぐ、ああぁあ!」
赫の炎が少年を焼く。
背を、腕を、足を、頭を。赫が覆い、見えなくなってしまう。
悲鳴が響く。泣く声がする。あぁ、と声にならない呻きが溢れ落ちた。
「はいはい。そこまでにしてよ。ちびたちは幼いからね、まだ良い事と悪い事の区別がつかないんだ」
知らない声。
いつの間にか現れたのは、自分達とさほど年頃の変わらない少女。
目の前の惨状など一切気にせず、子供達の方へと歩いて行く。
「それで納得は出来ぬと分かっているでしょう」
狐が少女に声をかけ、少女の足が止まる。
「そうだね。じゃあ、おちびが怪我をさせた人の手当で妥協してくれない?」
「必要ありません。そこのもどき等を回収してもらうのが最良だと言われております」
「もどきって。おちびたちはまだ人なんだけど」
呟く少女の表情からは何も読み取れない。
目の前の光景に一切取り乱す事なく、戸惑う事もなく狐と話をしているその姿は、とても異様で小さく体が震えた。
「今回は完全にこちらの落ち度だからね。おとなしく言う事を聞いておくよ…ほら、帰るよちびたち。様子見だって言ったのに、何してんのさ」
子供達へと歩み寄り、声をかける。
泣く少女達が側に来た彼女の姿を認めて、抱きついた。
「あるじさま!」
「晴が、嵐《あらし》が!」
「わたしたちがわがままを言ったから」
「失敗したの何とかしようとしたから」
「分かってるよ。大丈夫。それに二人とも問題ないよ。そうでしょう?」
振り返らずに少女が声を上げる。
何がとは言われずとも彼女が言いたい事を理解して、狐は尾をゆるり、と振った。
炎が消える。
少年達の焼かれた跡も、刺された跡も何一つなく。
まるで夢でも見ていたみたいに。
「ほらね。全部あちらは知ってたし、こうなる事も分かってた。嵐、起きてるでしょ。晴をつれて戻るよ」
「師匠。悪ぃ」
炎に焼かれていたはずの少年が起き上がり、少女に小さく謝罪をすると、倒れているもう一人の少年を抱き上げる。
「あちらの眼は本物だからね。仕方がない事だよ。さ、早く帰ろうか。水と鏡は繋がっているから、帰り道は水の先だよ」
彼女の言葉に反応して、池の水面が緩やかに盛り上がる。
高く上がった水は左右に広がり。言葉通りに、水の先の景色がどこか暗い室内を映し出す。
「それじゃあ、帰ろうか。痛くて怖い思いをさせてごめんね」
振り返り、こちらに視線を向けて彼女は謝罪する。
申し訳なさそうなその顔に何も言えずに、ただ首を振った。
小さく笑う。そして子供達を促して、水の中へと足を踏み入れ、姿が消える。
ばしゃん、と重力に従って水が落ちる。その音にはっとして、繋いでいた親友の手を離した。
「狐さん、大丈夫」
「問題ありませんよ。傷もありませんしね」
狐の姿が揺らめいて、狐から人の姿に変わる。
以前親友に連れられて行った、神社の宮司の姿。彼女の、大切な人。
その姿には、刺されたはずのナイフの傷はない。
「狐は化かすのが得意なのですよ。それよりも、アナタ様の傷とそこの男の傷の手当をしなくてはいけません」
彼の言葉に、未だに意識が戻らない住職に触れる。
暖かい。その温もりに安堵する。
「傷は深くはありませんから、心配はいりませんよ。先ほどは紺を止めて下さりありがとうございました」
ふわりと微笑んで、住職を抱き上げる。
お礼の言葉には、ただ首を振る事しか出来なかった。
「あーちゃん、いったんお寺に行こう?あーちゃんの傷も手当てしないと」
「うん。そうだね」
親友に促されて立ち上がる。
子供達が何をしたかったのかは、結局分からないままだ。
不安に押しつぶされそうな気持ちを誤魔化すように。
差し出された親友の手を取り、心配する彼女に向けて大丈夫だと笑ってみせた。
20241106 『一筋の光』