sairo

Open App
11/5/2024, 4:29:52 PM

黄昏時。校内の一角で。
花の咲かない一本の椿の木は、ただ静かにそこに在った。

手を伸ばし、葉に触れる。艶めかしく硬い濃緑色が騒めき、手に小さな白椿の蕾を落とした。

「花?」

首を傾げ椿を見上げる。変わらずそこに花は一輪も見えず。
ただ控えめに葉を騒めかせるその様は、何かを訴え続けているようにも見えた。
手のひらの小さな蕾を見つめ、指先で軽くつつく。硬く閉じた蕾が花開く事はないのだろう。けれどその白は記憶にはない懐かしさを思い起こさせ、唇が笑みを形取る。
促されるようにして目を閉じ、そのままその白に唇を触れさせた。


ざわり、と風が葉を揺らした音がした。
ざあざあと、たくさんの木々が騒めいている。
体に風を纏う感覚。花の香が鼻腔を擽り、心地良い。
目を開ける。そこに椿はない。
空が近く感じる。どこまでも続く澄んだ青に、目を細めた。
これは、今見ている眼は鳥のものだ。
椿の花を通して、鳥の眼で見ている。
何処へ向かっているのか。迷いのない視線はある一点だけを見ている。只管にそこへ向かって飛び続けている。
次第に高度が下がり、木々が近くなる。目的地が近いのだろう。木々の間を抜け、奥を目指す。

そして。
視線の先、一人の男の姿を捉えた。
振り返る男が差し出す腕に、勢いを殺して静かに止まる。

「また来たのかい?物好きだね」

ふわりと微笑う男が出したもう片方の手に、咥えていた何かを落とす。
かさり、と軽い音。
藤の一房。

「どこから採って来たのやら。あれの庭でない事だけは確かなようだけど」

房をつまみ、懐かしさのような哀しさのような複雑な感情を浮かべて男が呟く。
ふふ、と小さく声を漏らし。止まり木にしていた腕を軽く振って、空へと放たれた。

「折角だ。ありがたくもらっておくよ。あの子の慰めにでもしよう。君もそれを望んでいるんだろう」

近くの枝に止まり男を見るが、これ以上話すつもりはないのだろう。背を向け男は歩き出す。
しかし、ふと何かを思ったのか、立ち止まり振り返る。

「俺の扱いに困った周りが、俺を封じるために動きだしているからね。そろそろ次の止まり木を見つける事だ。いくら待とうと、あの子はもう目覚める事はないし、還る事すら出来はしないのだから」

あの子とは誰の事だろう。
疑問に思えど、男はそれだけを告げて今度こそ足を止めずに去ってしまう。
その後ろ姿をただ見つめていた。


眼を閉じる。
空気が変わる。木々の、花の匂いではなく、冷たく湿った匂い。
風が澱んでいる。ぬるくざらついた不快な風が、背を撫で上げ去って行く。
眼を開ける。そこには椿も木々もない。
視界が低い。横たわっているのだろうか。霞む視界で見えるのは黒い地面と木の格子だけだ。

「何をしているんだ、まったく」

背後から声が聞こえた。
先ほどまで聞いていた、男の声。
視界が揺らぐ。大きく咳き込んで、光る欠片を吐き出した。
小さな欠片。炎に似た揺らめく光は、砕けてしまった魂のそれ。

「あれの庭に行ったのか。欠片を取りに」

じゃら、と金属の擦れる音。
背後から伸びた手が、欠片を取り上げ戻っていく。

「馬鹿だな。足りないよ。これだけではあの子になるはずもない」

まだ足りないのか。
もう一度飛べるだろうか。
翼に力を入れるが、僅かにも動く様子はない。そもそもまだ翼は残っていたのだったか。
頭を擡げて確認しようにも体は重く、視界は少しずつ霞んでいく。

「無駄だよ。残るものは殆どない。時期に終わるその命ですら、終わった瞬間に砕けてしまうのだろうね。あの子のように」

そうか。終わってしまうのか。
他人事のように考える。霞み見えなくなっていく視界で、せめて、と男を探した。

「馬鹿だね。そこまでして逢いたいのか。それならば、あの子の足りない部分を君で埋めてみるかい」

じゃらり、と金属の音がして。
視界がぐるり、と変わる。抱き上げられたのだと知ったのは、男の泣くように笑む顔が見えたからだ。
手が瞼に触れる。視界が黒に染まる。

「あの子と君と。一つにした所であの子になる訳ではないけれど、このまま消えてしまうよりはいいのだろう。君にとっても、あれにとっても」

淡々とした男の声。
本意ではないのだろう。だがこのまま無駄に消えていく生を捨て置く事も出来ない程には優しいのだろう。
願ってもない事だ。声も出せぬ身であるが是と答える。

「仕方ないね、まったく。じゃあ、お休み」

柔らかな声。口遊むのは呪いか、慰めの歌か。
どこか懐かしい、それでいて哀愁を誘う旋律に、身を委ねて。
そして、眼を閉じた。





「黄櫨《こうろ》」

聞こえた声に目を開ける。
変わらぬ暗闇と触れている熱に、目を塞がれているのだと知る。

「神様」

彼を呼ぶ。名で呼べと言われてはいるが、どうしてもそう呼んでしまうのは、きっとその呼び名が馴染んでしまっていたからなのだろう。
目を塞ぐ手を外される。目の前に椿。手のひらには、開いた椿の花。
そして、藤の花びら。
役目を終えたかのように、花は光となって消えていく。

「椿に呼ばれた気がしたの。椿が視せたものを、神様も視た?」
「あぁ、視た。よくやったな、黄櫨」

頭を撫でられる。心地よさに目を細めて。
気づけば、最後に聞いた旋律を口遊んでいた。

「古い術だな。異なる二つを一つにし、新たに作り上げる。そういう術だ」
「どこか哀しい旋律だね」
「哀しかったのだろうよ。あの男は。己が封じられる事よりも、目の前で失う事がよほど哀しかったのだ」

そっか、と呟いて目を閉じる。
背後の彼に身を預け、旋律を口遊んだ。

「案ずるな。お前の躰は必ず取り戻す。小娘の言う声とやらも切った。あの屋敷に近づきさえしなければ、二度と聞こえまい」

答える代わりに、撫でる手を取り擦り寄った。
椿の意図が見えない。
彼が理解したものが分からない。
封印されたはずの元の躰が何処へ行ったのか。誰が何の目的であんな呪の塊を持って行ったのか。
彼は何一つ教えてはくれなかった。
哀しい訳ではない。ただ、知らない所で大切な誰かが傷つくのが怖かった。

「一つ誤れば、禁術の類いとなるだろうものも、黄櫨が歌えばすべて祈りに変わるのだな」

微かに驚きを滲ませた声音に、目を開ける。
椿が咲いていた。

咲き乱れる白椿。
陽の落ちた暗い空に昇る、いくつもの小さな光。

その光を、椿を、懐かしいと感じた。
胸を締め付ける切なさに、何故か無性に泣きたくなった。



20241105 『哀愁を誘う』

11/4/2024, 9:44:49 PM

暗闇の中、幼い泣き声が響く。
部屋の奥に置かれた姿見の前で、鏡に寄り添い幼い少女が泣いている。よく見れば少女の手や頬には刃物で斬られたような一筋の線が走り、手や頬を赤に染めていた。
鏡に映る少女の姿はさらに傷だらけだ。指はいくつかなく、頬の傷は耳にまで達している。
はらはらと涙を溢して少女はしゃくり上げる。鏡越しの自分と手を重ね、その傷を痛みを共有するように新たな赤が溢れ落ちる。


「おちび」

いつの間にか、少女の背後に立つ人影が声をかける。
少女よりは大きく、けれども大人というにはまだ幼さが抜け切れていない。低めではあるが、女性特有の柔らかな声音に、鏡に寄り添う少女だけが振り返る。

「あるじさま」
「ごめんなさい、あるじさま」

鏡の前の少女と、鏡に映る少女が口々に人影に向かい謝罪する。それには言葉を返す事なく、人影は少女の側に寄ると、傷だらけの手を取り頬に触れた。

「また派手にやったね。でも全部ただのかすり傷だ。こうして触れば傷跡一つ残らないよ」

触れる指先が傷をゆっくりとなぞり上げる。触れる痛みに少女の眉が寄るがそれも一瞬。手が離れれば、そこに残るものは何もなく。

「ほら大丈夫。おいで、次はキミの番だ」

鏡に向けて手を伸ばす。その手に鏡の中の少女が手を重ねれば、人影は鏡に手を沈め少女の手を掴み引いた。ずるり、と鏡から出た少女に笑いかけ、人影は先ほどしたように頬と手に触れた。

「いくつかなくなっている気もするけど、気のせいだよ。全部かすり傷。触って離れたら元通りさ」

その言葉の通り、頬から耳にかけての傷は人影の指がなぞり上げた側から消えてなくなり。欠けた指も頬の傷から離れた手と触れていた手に包まれて。その両の手が離れた時には欠けていた事などなかったように、小さな五本の指が離れた手を追いかけて、服の裾を控えめに掴んだ。

「ありがとう、あるじさま」
「でも、ごめんなさい」
「永遠の呪いをほどく事が出来なかったわ」
「紐が切られてしまったわ」
「仕方がないよ。相手が悪い」

二人となった少女を宥めながら、鏡を見る。
そこに少女達の姿はおろか、人影の姿さえ映ってはいなかった。
鏡の縁に触れる。見つめた所で、そこには誰の姿もない。

「まだ戻っていないのね」
「あれからずっと戻ってないのね」
「大丈夫かしら」
「迎えに行った方がいいかしら」
「心配だわ。何もないといいのだけれど」
「怪我をして動けなくなっていないといいのだけれど」
「こら。不用意に言葉を紡がない」

窘めれば、不安を口にしていた少女達が、ごめんなさい、と口々に謝罪する。
まったく、と声に呆れを乗せた人影は、それでも鏡から視線を逸らす事はなかった。
それは鏡を通して何かを見ているようでもあり。何かを待っているようでもあった。

不意に、鏡が水面のように揺らめいた。
波打つ鏡面が次第に明るいどこかを映し出す。
室内ではなく、外のようだ。木と花と古めかしい屋敷。
べん、と弦の音。屋敷の濡れ縁で誰かが、三味線を。

ぴしり、とひび割れる音。
明るさが消え、一歩下がったその瞬間に、鏡が粉々に砕け散る。
きゃあ、と悲鳴が上がる。慌てふためく少女達に、大丈夫、と声をかけながら、人影は砕けた鏡の破片を見つめていた。
「師匠。なんかすっごい音したけど、どした?」
「何でもないよ。鏡が割れただけ」
「鏡が割れたって、それ結構大変じゃん」
「危ない。割れるの、触るのは駄目」

鏡が割れた音を聞きつけたのだろう。扉が開き、手を繋いだ少年達が入ってくる。
一人は割れた鏡の破片に顔を顰めながら、少女達をその場から離し、もう一人は人影の手を控えめに引いた。

「大丈夫だよ。鏡は割れるものだ。それでいて、流動するものでもあるからね。一晩経てば元通りになるよ」

人影の言葉に、鏡の破片がかたり、と音を立てた。
かたり、かたりという硬い音は、次第にぴしゃり、ぱしゃん、と液体のような音に変わり。音を立てながら破片は一つに纏まって、鏡の中に吸い込まれていく。

「相変わらず、師匠はすげぇよな」
「当然よ。あるじさまだもの」
「あるじさまは素敵ですごいのよ」

鏡が修復されていく様に思わず吐いて出た少年の言葉に、少女達が自分の事のように胸を張る。それをはいはい、と適当に流しながら、少年はそのあどけない姿には似つかわしくない強く鋭い眼をして、人影に笑いかけた。

「で?どうする、師匠。ちびすけが失敗した呪いを解きにまた行くなら、今度は一緒に行ってやってもいいぜ」
「いや、いいよ。必要ないって言われたなら、これ以上は手を出せない」

約束だから、と呟けば、約束か、と冷めた声が返る。
くすり、と笑う声。

「しばらくは様子見かな。こちらから積極的に動く必要はないし、まだ全部が未確定だ。あちら次第ではあるけれど、ごっこ遊びばもう少し続けられそうだよ」

人影の言葉に、それぞれが笑い頷く。
愉しそうに、互いに寄り添い嬉しそうに、幸せそうに。
口元だけで笑みを浮かべた少年が、引いていたままだった人影手と手を繋ぎなおす。
もう一人の少年は、そんな少年の空いていた手と繋ぎ嗤う。
同じ顔した少女達は互いに手を繋いだまま、きゃらきゃらと笑い人影に抱きついた。

「相変わらず、甘えただね。ちびたちは」
「あるじさまが大好きだもの」
「あるじさまと一緒が嬉しいもの」
「師匠と姉弟ごっこするのは結構愉しいぜ」
「おねえちゃん、呼ぶのは、好きかも」
「本当に物好きだね」

呆れを乗せた声は、それでもどこか優しさを含み。
少年少女達に促されるままに部屋を出る。


誰もいなくなり、静かになった部屋の奥。
割れたはずの鏡が、水面のように波紋を一つ音もなく起こした。



20241104 『鏡の中の自分』

11/4/2024, 12:46:04 AM

「曄《よう》?眠れないの」

暗い部屋の窓際で外を見る親友に声をかける。
振り向いた彼女は、どこか夢から覚めたような呆けた顔をして、あぁうん、と気の抜けた返事をした。

「どうかした?」
「どうかしたはこっちの台詞なんだけど。眠れないの?」

親友の側へと歩み寄りながら、もう一度問いかける。
数回瞬きを繰り返し、眉を寄せて視線を逸らす。それは何かを隠していると言うよりも、どう説明していいものか迷っているように見えた。

「あいつは。まだ戻ってないの?」

あいつとは神様の事だ。
首を振る。数日前に険しい顔をした彼に、社に戻ると告げられてからそれきりだ。

「そっか。まだなんだ」
「悩み事?私には言えない事?」
「言えないというか、どう説明したらいいのか」

歯切れの悪い調子で、視線を彷徨わせる。何かを言いかけて口籠もる彼女を待っていれば、迷いを宿した目をしながらも。あのさ、と静かに口を開いた。

「あたしのママの実家の離れに、元々守り神だった化け物がいるんだ。夏の間と呪われた人が近くにいる時だけ起きて出てくる。時間を繰り返したり、呪われた人を攫う、そんな化け物。きっと覚えてない、だろうけど。夏休みに会った事がある」

それは元の体の時の記憶だ。だから迷っていたのか。
覚えいていないと首を振れば、だろうね、と返される。

「叔父さんから連絡があった。化け物が、クガネ様が起きたって。夏でもない。街に呪われた人なんていない…それなのに起きて、しかも離れから出たって」
「それは」
「気にしすぎ、なんだとは思う。でもあいつも戻ってこないし。落ち着かなくて」

作った笑みを浮かべ、外を見る。
街の灯りが夜を少しばかり明るくしてくれてはいるものの、それでも暗い事には変わらない。
その暗がりのどこかに、彼女の言うクガネ様がいるのだとしたら。縁を辿ってここまで来たとしたら。

「大丈夫だよ。私も曄も呪われてなんかいないし。呪われた、というか、呪の塊ならお社にあるけど厳重に封印されているし。だからここに、クガネ様は来ないよ」

言い聞かせるように、不安を取り除くように、強く言葉にする。
そっと親友の手を取る。随分と冷えた手を温めるようにして、両の手で握れば、彼女の笑みが少しだけ柔らかくなったのが分かった。

「そう、だね。やっぱり気にしすぎ、なんだよね」
「そうだよ。だからもう寝よう?」

握る手を軽く引いて促す。
ふっと短く息を吐いて親友は立ち上がり、握っていた手にもう片方の手を添えた。

「ありがと。少し落ち着いた」
「どう致しまして」

視線を合わせてお互いに笑い合う。片手を離し、残った方で手を繋いだ。

部屋に戻りながら、横目で彼女の様子を伺う。
落ち着いたとは言っていたものの、その表情は普段と違いどこかぼんやりとしていて。歩きながらもその目は窓の外に向けられていた。

「あのさ。提案があるんだけど」

足が止まる。
窓から視線を逸らしこちらを見る目は、声をかける前と違っていつもと変わらない。それに胸中でほっとしながら、繋いでいた手を軽く上げた。

「今日、一緒に寝てもいい?お布団持っていくから」
「別にいいけど…いや、それならそこの小上がりの和室で布団敷いて寝ようか」
「いいの?」
「いいよ」

手を離し、彼女は小上がりの下の収納を引いて、中の客人用の布団を取り出していく。それを和室に敷きながらもう一度、いいの、と尋ねれば、彼女はいいよ、と同じ答えを返して笑った。

「仕舞い込んだままよりは、こうやって使う方がいいからね。明日は晴れるみたいだし、そのまま天日干ししようか」
「そうだね。それにしても曄のお家は何というか、すごいね」
「ママもパパも心配性だから。この家も元々は家族で移るつもりで新しく建てたくらいだし。まあ、仕事の関係で一緒に住めなくなっちゃったけどね」

よれたシーツを手早く直しながら、親友はだからね、と続ける。

「黄櫨《こうろ》達が一緒に住む事になって、二人ともすごく喜んでたんだよ。さっさと仕事に切りをつけてお参りに行ってお礼をしなければ、って張り切って仕事してるくらいには」
「愛されているんだね、曄」
「そうだね。だからあまり心配かけさせたくないんだけどな」

直した布団に潜り込み、顔だけを出してこちらを見る。
同じように布団に潜ると、彼女は迷うように視線を彷徨わせてから、怖ず怖ずと片手を布団から出した。

「寝るまで、手を繋いでていい?気のせいだけど、一応念のため」
「いいよ。理由は聞かない方がいい?」
「大した理由じゃないんだ。気のせいだし」

手を出して、彼女の手と繋ぐ。
繋いだ手を見て、外を気にして。
目を閉じて一つ深呼吸をすると、気のせいだけど、と彼女は目を開け繰り返した。

「声が聞こえる。離れで聞いた、クガネ様が誰かを呼んでいる声。気のせいだけどね。こうして手を繋いでいれば、声は殆ど聞こえなくなるから」

繋いだ手を見る。
少しだけ強い力で繋がれて、まるで縋られているみたいに見えて苦しくなる。

「うん。それは気のせいだ。私には聞こえない。だから大丈夫、気のせいだよ」

親友の目を真っ直ぐに見て、言葉を紡ぐ。大丈夫だと繰り返す。
気休めにしかならない事しか出来ないのがとても歯痒かった。

「もう寝よう。朝になればきっと忘れるよ。大丈夫」
「ありがとう。そうだね、もう寝ないと」
「おやすみなさい、曄」
「おやすみ、黄櫨」

目を閉じる。手は繋いだまま、寄り添うように。
朝が来れば。暗がりがなくなりさえすれば。

大丈夫、と繰り返す。
どうか、と祈りに似た気持ちで、今はいない私の神様を思った。



20241103 『眠りにつく前に』

11/3/2024, 2:40:39 AM

「ほどきましょうか」

聞こえた声に、反射的に距離を取る。
視線を向ければ、同じ顔をした童女が二人。朱殷《しゅあん》色した紐であやとりをしていた。

「その苦しみをほどきましょうか」
「その痛みをほどきましょうか」

唄うような声音。幼い指が紐を手繰り、引き抜く。
ただの紐が形を様々に変え繰り返されていく度に、紐に赤が塗り重ねられていく。
それに呼応して、空気が蠢いた。

「永遠に続く、その呪いをほどきましょうか」
「姉ちゃんっ!」

姉の背後。形を持った暗闇が、彼女を呑み込もうと牙をむく。
姉の手を引き抱き上げる。一瞬遅れて、どぷり、と重たい泥に似た黒が彼女がいた場所を覆い尽くした。

「離れるなよ、姉ちゃん」
「分かっている」

周囲の蠢く闇を警戒しながらも、視線は童女らから逸らす事なく。
赤が重なり、最早黒に近い色に変わったあやとり紐に向け符を放つが、すべて闇に呑まれ、あるいは不可視の壁に阻まれ届かない。

「その永遠は苦しいのでしょう」
「その呪いは痛むのでしょう」
「終がほしいのでしょう」

童女が唄う。あやとりが繰り返される。
襲いかかる闇を避けながら、唄うその言葉に呑まれぬように声を張り上げた。

「必要ねぇよ!もう必要ねぇ。兄姉がいる。約束がある。やるべき事を成さずに終わるわけにはいかねぇんだよ!」

離してしまわぬよう姉を抱く腕に力を込め、符を放つ。

「俺たちの邪魔すんなっ!さっさと消えろ」
「落ち着け、寒緋《かんひ》。後ろだ」
「っ!悪ぃ、助かった」

姉の言葉に反射的に身を逸らす。掠める闇に舌打ちして、童女らを睨み付けた。
術師であろう童女らに符は届かない。姉を抱いている今、下手に近づくのは危険だ。
追い詰められる焦燥に、ぎり、と歯を食いしばる。このままでは消耗していくばかりだ。急く意識に集中が途切れ、最早姉の指示なしでは闇を躱す事すら出来ない。

「ほどきましょう」
「煩い!やめろっ!」
「寒緋!」

姉の声すら遠くなる。呑み込まれてしまう。
受け入れてしまう。

――終を。



「弟が嫌がってんだ。やめてくれ」

静かな、それていて強い響きを持つ声。
煌めく、白銀の一筋。遅れて響く、甲高い悲鳴。

「悪ぃな、遅れた。大丈夫か?」
「兄、ちゃん」

抜き身の刀が携えた兄が、童女らがいた場所に佇んでいた。
その足下には切れたあやとり紐。童女らの姿は何処にも見えない。
紐が切れた事で蠢く闇も形を無くし、静寂が訪れる。

「ごめん、助かった。兄ちゃん。姉ちゃんも」

安堵に気が緩み、膝をつく。
深く呼吸をすれば、冷えた空気が肺から全身に回り、冷静さを取り戻していく気がした。

「いい加減に離せ。さすがに痛い」
「あ、わりっ」

慌てて緩めた腕から抜け出した姉が、兄の元へと歩き出す。
ついて行こうにも体は言う事を聞かず。心細さに手が伸びる。

「姉ちゃん」

伸びた手を姉はするりと躱し、振り返り呆れを乗せた表情で溜息を吐く。

「まったく。しっかりしないか。男だろうに」
「明月《めいげつ》。それくらいにしてあげてくれ。きっと怖かったんだ」

歩み寄ってきた兄が宥めるように姉を撫でる。そのまま近づいて姉と同じように頭を撫でられた。

「兄ちゃん」
「怖かったな。もう大丈夫だ」

大丈夫だ、と繰り返す兄に手を伸ばし、縋る。震える己の手が視界に入り、兄の言うとおり怖かったのだと他人事のように思った。

「ごめんな、紐しか切れなかった。追っても良かったが、寒緋が心配だったんだ」
「ん。来てくれただけで十分だ。ありがとな、兄ちゃん」
「兄さんは寒緋に甘すぎる」

そう言いながらも側に来た姉が背を撫でる。二人の優しさに、ともすれば泣いてしまいそうだ。

「寒緋」

姉が呼ぶ。

「私の言葉がお前を縛り付けてはいないだろうか」

静かな声に、顔を上げる。
姉を見れば淡く微笑みながらも、後悔の滲んだ目と視線が交わった。

「少し考えていた。あれらが本当にお前を人として終わらせる事が出来るのなら、その方が幸せではないかと。人の身で永遠に近い時を生きるのはさぞ苦しいだろう」

優しい手つきで頬を撫で、目尻に浮かんだ涙を拭われる。
兄は何も言わない。ただ優しく頭を撫でている。
どうして、と純粋に思った。
どうしてそんな残酷な事を言うのだろうかと。
己が他の兄姉と異なり、人の血が濃いからだろうか。
一人彷徨っていた昔の事を気にしているのか。人のように脆弱な精神しか持ち合わせていないからか。
或いは、ただ人である己が煩わしくなってしまったのか。

「寒緋」

今度は兄に名を呼ばれた。
静かで優しい響きのそれに、目を閉じる。
必要とされないのであれば、せめて兄姉達の手で終わらせてほしい。知らないナニかの手ではなく、愛しい兄姉の手で。

「いらないなら、そう言ってほしい」
「いらないなんて、誰も思ってないよ。寒緋は大事な大切な俺達の弟なんだから。明月もそんな事を思って言った訳じゃない。ただ寒緋が大好きだから、苦しんでほしくないんだ」
「俺、まだ兄ちゃん達に必要とされてるのか」

呟けば、答えの代わりに頭を撫でる手が少しだけ強くなる。目を開けて兄を見上げ、そして姉を見る。
珍しく泣きそうな顔をした姉に片手を伸ばせば、擦り寄られ。そのまま引き寄せれば、嫌がられる事もなく腕の中にその小さな体が収まった。

「寒緋は何を望む?」

兄の言葉に、腕の中の温もりを抱きしめて笑う。
望むのは、一つだけだ。

「兄ちゃんや姉ちゃん達と一緒にいたい。一緒にいられるなら、それが永遠でも俺は幸せだ」

永遠が苦しいのは、一人残されるからだ。
愛する者は皆、己をおいて逝ってしまう。変わらぬ己を怖れ近づく者はなく、孤独を強制される。
いつだって失う事は、怖いものだ。

「そうか。それなら、ずっと一緒にいようなぁ」

兄が笑う。
頭を撫でる手を止め、一歩だけ離れて小指を差し出す。
その指に、縋り付いていた手を離し、小指を絡めた。

「約束だ。寒緋と一緒にいる。離れてても寒緋が呼ぶなら、こうやってすぐに来ると約束するよ」
「ん。約束」
「本当に兄さんは寒緋に甘いのだから」

腕の中で身じろぐ姉が、呆れたように呟く。だがくるりと向きを変えた姉は、腕の中から抜け出す事なく腕だけを伸ばし、兄と絡めた小指をその小さな手で包み込んだ。

「だがまあ、酷い事を言ったのは悪かったと思っているからな。私も約束しようか」

どこまでも素直でない姉に、思わず笑う。
包む手に僅かに力が加わるが、痛いほどではない。

約束し、手を離す。
もう大丈夫だと頷けば、兄はもう一度頭を一撫でし、離れていく。
それを見送って、立ち上がる。強く地を踏み締める。

「そろそろ行こうか、姉ちゃん」
「そうだな。さて、次はどこへ行くか」
「嬢ちゃんの方も探さないとな」
「探しものばかりだな。黄《こう》の眼も頼りにならんから、骨が折れる」

疲れたように姉が息を吐く。
取りあえず、と姉が指さす方に向かい歩き出す。
腕に抱いた姉を離さぬように、少しだけ抱く腕に力を込めた。



20241102 『永遠に』

11/1/2024, 10:36:28 PM

くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。

「あ。ごめん」

瞬間、反転する世界。くらりと歪み暗転する。

「やっちゃった」
「まぁ、やってしまったものは仕方ないな」

目を閉じ、開く。
変わらぬ暗闇に一歩だけ足を踏み出せば、ぱっと電気が点くように一瞬で明るさが戻ってきた。
眩しさに目を細めつつ、周囲を見回す。
先ほどまでいた場所とは違う、しかし予想していたものとはまったく異なる光景に、意味が分からず眉が寄る。

「ささら」
「ごめんね、ゴシュジン」
「それはいいんだが…何を喰った?」

問われた犬は少し考える素振りをする。見上げる目がどこか申し訳なさそうに見えて、嫌な予感に耐えるように息を呑んだ。

「えっとね、なんか人の理想を写して、作って閉じるやつ」
「分かった。あと、これはどうにか出来るやつか?」
「うん。ちょっとだけ時間がかかるけど、ちゃんと元に戻せるよ」

その言葉に頼む、と一言告げて、邪魔にならないように少し離れて様子を伺う事にした。。

戻せるという事は制御が出来ているのだろう。
少し前に、社に侵入してきた澱みに中てられ倒れている間に、犬は猫に色々と仕込まれてしまったようだった。
化生や澱みを喰らい、消化し己の力の一部にする。
猫の教えがよかったのか、それとも犬の素質なのか。人の姿を取る事も覚えた犬に世話をされ、回復した頃には犬は立派な妖となっていた。

「ゴシュジン」
「どうした?」
「いつでも戻れるけど、少し見ていく?ゴシュジンの理想」

ゆるり、と尾を振って周囲を一瞥し、こちらに向き直る。
見ていくか、と言われても、見たところでどうしようもないものだ。実際に手に入るわけでもない。
それにきっとこれは願う理想の余剰分なのだろうから。

戻ろう、と声をかけるより早く、ばちんと音を響かせて空間に罅が入る。
ぴし、びしり、と。小さな罅は段々に大きくなり、隙間を広げ。人一人が通れる程の大きさになった隙間から、するり、と猫が入り込んできた。

「いつまで遊んでいやがる、くそ餓鬼共」

ふん、と鼻を鳴らし、吐き捨てる低い声音にすまないと声をかける。

「なんだこれは」

声に呆れの色が混じる。
周囲のそれらに実際に呆れているのだろう。苛立ちに鋭くなっていた気配が鎮まっていく。

「俺の理想を写したものらしい」
「随分と安い理想だな。俗物的で実にくだらねぇ」

確かにな、と声に出さずに同意した。
近くの棚に乗るそれを手に取り苦笑する。
猫の最近のお気に入りの缶詰。側面には大きく九割引の文字が書かれている。
辺りを見渡せば、猫や犬の好む食事やおやつが置かれ、そのどれもに缶詰と同じように捨て値で売られていた。

「理想だというなら、もっと他にあっただろうが」
「現状に不満はないからな。これ以上を望みようがないからだろう」

不満がないというより、満足しているのだ。猫と犬のいる生活に。
完成してしまっている自分の世界に、新しい理想郷は必要ない。
実際に満たされてしまっているから、写せるものが余剰分の安直な願いしかなかったのだ。

「くだらん」

たん、と猫の尾が床を打つ。
こちらを一瞥し小さく鼻を鳴らすと、こちらに背を向け入ってきた隙間へと歩き出す。

「わっちは戻る。精々この矮小な理想を堪能する事だな」
「いや、戻るよ。九割引はすごく魅力的だが、現実でないのだから意味はない」

それに、と言いかけて止める。
迎えに来てくれたのだから、と言葉にするのは簡単だ。だが普段から素直でなく、しかも荒魂の方の猫にそれを伝えても言葉を受け取ってはくれないのだろう。
振り返る猫の尾が、たん、たん、と苛立ちを表すかのように床を打つ。
小さく息を吐いて、気になっていた別の言葉を口にした。

「最近、何だか周りが騒がしくなっている気がするから。不安定な歪にいるよりも、現世にいた方が安心する」

気のせいかもしれないが、と付け加え犬を呼ぶ。
萎縮し尾を下げながら静かに側に寄る犬を、安心させるように撫でる。横目で様子を伺えば、荒々しくはないが鋭い気配を纏う猫の金と青の眼に射竦められた。

「早く戻るぞ。凡庸な貴様でも分かる程であるのならば、楽観視は出来んからな」
「何を言っている?一体、何が」
「早くしろと言っている、糞餓鬼共」

何か起こっている事は確かなようだが、それを説明する気はないようだ。
犬を促し、術を解かせる。くらり、と歪む景色の端で、猫が険しい顔をして遠くを見ているのが気になった。

「千歳《ちとせ》」
「しばらく戻らん。貴様は犬から離れるな。それと犬」
「は、はいっ!」
「これに傷一つ負わせたなら、分かっているな」
「分かってますっ!必ず守ります!」

犬の言葉に頷いて、猫の姿が揺らいで消える。

歪む景色が戻り、元の寂れた社に戻った事を確認する。
詰めていた息を吐き出す。立ち上がり、社へと向けて手を合わせた。

「ゴシュジン?」
「心配する事はないんだが、どうしても、な」

猫の姿をしたこの社の神。
自分のような人とは違うと分かっていて尚不安に思うのは、きっと弱いからなのだろうけれど。

社に願う。猫の無事を。
そして猫の帰りを無事に待つ事を誓う。

「ボク、ちゃんと守るからね」
「頼りにしている。じゃあ、帰ろうか」

犬と共に家路を急ぐ。
暮れる朱い空がいつもより昏く見えて、振り払うように頭を振った。



20241101 『理想郷』

Next