sairo

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暗闇の中、幼い泣き声が響く。
部屋の奥に置かれた姿見の前で、鏡に寄り添い幼い少女が泣いている。よく見れば少女の手や頬には刃物で斬られたような一筋の線が走り、手や頬を赤に染めていた。
鏡に映る少女の姿はさらに傷だらけだ。指はいくつかなく、頬の傷は耳にまで達している。
はらはらと涙を溢して少女はしゃくり上げる。鏡越しの自分と手を重ね、その傷を痛みを共有するように新たな赤が溢れ落ちる。


「おちび」

いつの間にか、少女の背後に立つ人影が声をかける。
少女よりは大きく、けれども大人というにはまだ幼さが抜け切れていない。低めではあるが、女性特有の柔らかな声音に、鏡に寄り添う少女だけが振り返る。

「あるじさま」
「ごめんなさい、あるじさま」

鏡の前の少女と、鏡に映る少女が口々に人影に向かい謝罪する。それには言葉を返す事なく、人影は少女の側に寄ると、傷だらけの手を取り頬に触れた。

「また派手にやったね。でも全部ただのかすり傷だ。こうして触れば傷跡一つ残らないよ」

触れる指先が傷をゆっくりとなぞり上げる。触れる痛みに少女の眉が寄るがそれも一瞬。手が離れれば、そこに残るものは何もなく。

「ほら大丈夫。おいで、次はキミの番だ」

鏡に向けて手を伸ばす。その手に鏡の中の少女が手を重ねれば、人影は鏡に手を沈め少女の手を掴み引いた。ずるり、と鏡から出た少女に笑いかけ、人影は先ほどしたように頬と手に触れた。

「いくつかなくなっている気もするけど、気のせいだよ。全部かすり傷。触って離れたら元通りさ」

その言葉の通り、頬から耳にかけての傷は人影の指がなぞり上げた側から消えてなくなり。欠けた指も頬の傷から離れた手と触れていた手に包まれて。その両の手が離れた時には欠けていた事などなかったように、小さな五本の指が離れた手を追いかけて、服の裾を控えめに掴んだ。

「ありがとう、あるじさま」
「でも、ごめんなさい」
「永遠の呪いをほどく事が出来なかったわ」
「紐が切られてしまったわ」
「仕方がないよ。相手が悪い」

二人となった少女を宥めながら、鏡を見る。
そこに少女達の姿はおろか、人影の姿さえ映ってはいなかった。
鏡の縁に触れる。見つめた所で、そこには誰の姿もない。

「まだ戻っていないのね」
「あれからずっと戻ってないのね」
「大丈夫かしら」
「迎えに行った方がいいかしら」
「心配だわ。何もないといいのだけれど」
「怪我をして動けなくなっていないといいのだけれど」
「こら。不用意に言葉を紡がない」

窘めれば、不安を口にしていた少女達が、ごめんなさい、と口々に謝罪する。
まったく、と声に呆れを乗せた人影は、それでも鏡から視線を逸らす事はなかった。
それは鏡を通して何かを見ているようでもあり。何かを待っているようでもあった。

不意に、鏡が水面のように揺らめいた。
波打つ鏡面が次第に明るいどこかを映し出す。
室内ではなく、外のようだ。木と花と古めかしい屋敷。
べん、と弦の音。屋敷の濡れ縁で誰かが、三味線を。

ぴしり、とひび割れる音。
明るさが消え、一歩下がったその瞬間に、鏡が粉々に砕け散る。
きゃあ、と悲鳴が上がる。慌てふためく少女達に、大丈夫、と声をかけながら、人影は砕けた鏡の破片を見つめていた。
「師匠。なんかすっごい音したけど、どした?」
「何でもないよ。鏡が割れただけ」
「鏡が割れたって、それ結構大変じゃん」
「危ない。割れるの、触るのは駄目」

鏡が割れた音を聞きつけたのだろう。扉が開き、手を繋いだ少年達が入ってくる。
一人は割れた鏡の破片に顔を顰めながら、少女達をその場から離し、もう一人は人影の手を控えめに引いた。

「大丈夫だよ。鏡は割れるものだ。それでいて、流動するものでもあるからね。一晩経てば元通りになるよ」

人影の言葉に、鏡の破片がかたり、と音を立てた。
かたり、かたりという硬い音は、次第にぴしゃり、ぱしゃん、と液体のような音に変わり。音を立てながら破片は一つに纏まって、鏡の中に吸い込まれていく。

「相変わらず、師匠はすげぇよな」
「当然よ。あるじさまだもの」
「あるじさまは素敵ですごいのよ」

鏡が修復されていく様に思わず吐いて出た少年の言葉に、少女達が自分の事のように胸を張る。それをはいはい、と適当に流しながら、少年はそのあどけない姿には似つかわしくない強く鋭い眼をして、人影に笑いかけた。

「で?どうする、師匠。ちびすけが失敗した呪いを解きにまた行くなら、今度は一緒に行ってやってもいいぜ」
「いや、いいよ。必要ないって言われたなら、これ以上は手を出せない」

約束だから、と呟けば、約束か、と冷めた声が返る。
くすり、と笑う声。

「しばらくは様子見かな。こちらから積極的に動く必要はないし、まだ全部が未確定だ。あちら次第ではあるけれど、ごっこ遊びばもう少し続けられそうだよ」

人影の言葉に、それぞれが笑い頷く。
愉しそうに、互いに寄り添い嬉しそうに、幸せそうに。
口元だけで笑みを浮かべた少年が、引いていたままだった人影手と手を繋ぎなおす。
もう一人の少年は、そんな少年の空いていた手と繋ぎ嗤う。
同じ顔した少女達は互いに手を繋いだまま、きゃらきゃらと笑い人影に抱きついた。

「相変わらず、甘えただね。ちびたちは」
「あるじさまが大好きだもの」
「あるじさまと一緒が嬉しいもの」
「師匠と姉弟ごっこするのは結構愉しいぜ」
「おねえちゃん、呼ぶのは、好きかも」
「本当に物好きだね」

呆れを乗せた声は、それでもどこか優しさを含み。
少年少女達に促されるままに部屋を出る。


誰もいなくなり、静かになった部屋の奥。
割れたはずの鏡が、水面のように波紋を一つ音もなく起こした。



20241104 『鏡の中の自分』

11/4/2024, 9:44:49 PM