くしゅん、と小さなくしゃみが聞こえた。
「あ。ごめん」
瞬間、反転する世界。くらりと歪み暗転する。
「やっちゃった」
「まぁ、やってしまったものは仕方ないな」
目を閉じ、開く。
変わらぬ暗闇に一歩だけ足を踏み出せば、ぱっと電気が点くように一瞬で明るさが戻ってきた。
眩しさに目を細めつつ、周囲を見回す。
先ほどまでいた場所とは違う、しかし予想していたものとはまったく異なる光景に、意味が分からず眉が寄る。
「ささら」
「ごめんね、ゴシュジン」
「それはいいんだが…何を喰った?」
問われた犬は少し考える素振りをする。見上げる目がどこか申し訳なさそうに見えて、嫌な予感に耐えるように息を呑んだ。
「えっとね、なんか人の理想を写して、作って閉じるやつ」
「分かった。あと、これはどうにか出来るやつか?」
「うん。ちょっとだけ時間がかかるけど、ちゃんと元に戻せるよ」
その言葉に頼む、と一言告げて、邪魔にならないように少し離れて様子を伺う事にした。。
戻せるという事は制御が出来ているのだろう。
少し前に、社に侵入してきた澱みに中てられ倒れている間に、犬は猫に色々と仕込まれてしまったようだった。
化生や澱みを喰らい、消化し己の力の一部にする。
猫の教えがよかったのか、それとも犬の素質なのか。人の姿を取る事も覚えた犬に世話をされ、回復した頃には犬は立派な妖となっていた。
「ゴシュジン」
「どうした?」
「いつでも戻れるけど、少し見ていく?ゴシュジンの理想」
ゆるり、と尾を振って周囲を一瞥し、こちらに向き直る。
見ていくか、と言われても、見たところでどうしようもないものだ。実際に手に入るわけでもない。
それにきっとこれは願う理想の余剰分なのだろうから。
戻ろう、と声をかけるより早く、ばちんと音を響かせて空間に罅が入る。
ぴし、びしり、と。小さな罅は段々に大きくなり、隙間を広げ。人一人が通れる程の大きさになった隙間から、するり、と猫が入り込んできた。
「いつまで遊んでいやがる、くそ餓鬼共」
ふん、と鼻を鳴らし、吐き捨てる低い声音にすまないと声をかける。
「なんだこれは」
声に呆れの色が混じる。
周囲のそれらに実際に呆れているのだろう。苛立ちに鋭くなっていた気配が鎮まっていく。
「俺の理想を写したものらしい」
「随分と安い理想だな。俗物的で実にくだらねぇ」
確かにな、と声に出さずに同意した。
近くの棚に乗るそれを手に取り苦笑する。
猫の最近のお気に入りの缶詰。側面には大きく九割引の文字が書かれている。
辺りを見渡せば、猫や犬の好む食事やおやつが置かれ、そのどれもに缶詰と同じように捨て値で売られていた。
「理想だというなら、もっと他にあっただろうが」
「現状に不満はないからな。これ以上を望みようがないからだろう」
不満がないというより、満足しているのだ。猫と犬のいる生活に。
完成してしまっている自分の世界に、新しい理想郷は必要ない。
実際に満たされてしまっているから、写せるものが余剰分の安直な願いしかなかったのだ。
「くだらん」
たん、と猫の尾が床を打つ。
こちらを一瞥し小さく鼻を鳴らすと、こちらに背を向け入ってきた隙間へと歩き出す。
「わっちは戻る。精々この矮小な理想を堪能する事だな」
「いや、戻るよ。九割引はすごく魅力的だが、現実でないのだから意味はない」
それに、と言いかけて止める。
迎えに来てくれたのだから、と言葉にするのは簡単だ。だが普段から素直でなく、しかも荒魂の方の猫にそれを伝えても言葉を受け取ってはくれないのだろう。
振り返る猫の尾が、たん、たん、と苛立ちを表すかのように床を打つ。
小さく息を吐いて、気になっていた別の言葉を口にした。
「最近、何だか周りが騒がしくなっている気がするから。不安定な歪にいるよりも、現世にいた方が安心する」
気のせいかもしれないが、と付け加え犬を呼ぶ。
萎縮し尾を下げながら静かに側に寄る犬を、安心させるように撫でる。横目で様子を伺えば、荒々しくはないが鋭い気配を纏う猫の金と青の眼に射竦められた。
「早く戻るぞ。凡庸な貴様でも分かる程であるのならば、楽観視は出来んからな」
「何を言っている?一体、何が」
「早くしろと言っている、糞餓鬼共」
何か起こっている事は確かなようだが、それを説明する気はないようだ。
犬を促し、術を解かせる。くらり、と歪む景色の端で、猫が険しい顔をして遠くを見ているのが気になった。
「千歳《ちとせ》」
「しばらく戻らん。貴様は犬から離れるな。それと犬」
「は、はいっ!」
「これに傷一つ負わせたなら、分かっているな」
「分かってますっ!必ず守ります!」
犬の言葉に頷いて、猫の姿が揺らいで消える。
歪む景色が戻り、元の寂れた社に戻った事を確認する。
詰めていた息を吐き出す。立ち上がり、社へと向けて手を合わせた。
「ゴシュジン?」
「心配する事はないんだが、どうしても、な」
猫の姿をしたこの社の神。
自分のような人とは違うと分かっていて尚不安に思うのは、きっと弱いからなのだろうけれど。
社に願う。猫の無事を。
そして猫の帰りを無事に待つ事を誓う。
「ボク、ちゃんと守るからね」
「頼りにしている。じゃあ、帰ろうか」
犬と共に家路を急ぐ。
暮れる朱い空がいつもより昏く見えて、振り払うように頭を振った。
20241101 『理想郷』
11/1/2024, 10:36:28 PM