sairo

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黄昏時。校内の一角で。
花の咲かない一本の椿の木は、ただ静かにそこに在った。

手を伸ばし、葉に触れる。艶めかしく硬い濃緑色が騒めき、手に小さな白椿の蕾を落とした。

「花?」

首を傾げ椿を見上げる。変わらずそこに花は一輪も見えず。
ただ控えめに葉を騒めかせるその様は、何かを訴え続けているようにも見えた。
手のひらの小さな蕾を見つめ、指先で軽くつつく。硬く閉じた蕾が花開く事はないのだろう。けれどその白は記憶にはない懐かしさを思い起こさせ、唇が笑みを形取る。
促されるようにして目を閉じ、そのままその白に唇を触れさせた。


ざわり、と風が葉を揺らした音がした。
ざあざあと、たくさんの木々が騒めいている。
体に風を纏う感覚。花の香が鼻腔を擽り、心地良い。
目を開ける。そこに椿はない。
空が近く感じる。どこまでも続く澄んだ青に、目を細めた。
これは、今見ている眼は鳥のものだ。
椿の花を通して、鳥の眼で見ている。
何処へ向かっているのか。迷いのない視線はある一点だけを見ている。只管にそこへ向かって飛び続けている。
次第に高度が下がり、木々が近くなる。目的地が近いのだろう。木々の間を抜け、奥を目指す。

そして。
視線の先、一人の男の姿を捉えた。
振り返る男が差し出す腕に、勢いを殺して静かに止まる。

「また来たのかい?物好きだね」

ふわりと微笑う男が出したもう片方の手に、咥えていた何かを落とす。
かさり、と軽い音。
藤の一房。

「どこから採って来たのやら。あれの庭でない事だけは確かなようだけど」

房をつまみ、懐かしさのような哀しさのような複雑な感情を浮かべて男が呟く。
ふふ、と小さく声を漏らし。止まり木にしていた腕を軽く振って、空へと放たれた。

「折角だ。ありがたくもらっておくよ。あの子の慰めにでもしよう。君もそれを望んでいるんだろう」

近くの枝に止まり男を見るが、これ以上話すつもりはないのだろう。背を向け男は歩き出す。
しかし、ふと何かを思ったのか、立ち止まり振り返る。

「俺の扱いに困った周りが、俺を封じるために動きだしているからね。そろそろ次の止まり木を見つける事だ。いくら待とうと、あの子はもう目覚める事はないし、還る事すら出来はしないのだから」

あの子とは誰の事だろう。
疑問に思えど、男はそれだけを告げて今度こそ足を止めずに去ってしまう。
その後ろ姿をただ見つめていた。


眼を閉じる。
空気が変わる。木々の、花の匂いではなく、冷たく湿った匂い。
風が澱んでいる。ぬるくざらついた不快な風が、背を撫で上げ去って行く。
眼を開ける。そこには椿も木々もない。
視界が低い。横たわっているのだろうか。霞む視界で見えるのは黒い地面と木の格子だけだ。

「何をしているんだ、まったく」

背後から声が聞こえた。
先ほどまで聞いていた、男の声。
視界が揺らぐ。大きく咳き込んで、光る欠片を吐き出した。
小さな欠片。炎に似た揺らめく光は、砕けてしまった魂のそれ。

「あれの庭に行ったのか。欠片を取りに」

じゃら、と金属の擦れる音。
背後から伸びた手が、欠片を取り上げ戻っていく。

「馬鹿だな。足りないよ。これだけではあの子になるはずもない」

まだ足りないのか。
もう一度飛べるだろうか。
翼に力を入れるが、僅かにも動く様子はない。そもそもまだ翼は残っていたのだったか。
頭を擡げて確認しようにも体は重く、視界は少しずつ霞んでいく。

「無駄だよ。残るものは殆どない。時期に終わるその命ですら、終わった瞬間に砕けてしまうのだろうね。あの子のように」

そうか。終わってしまうのか。
他人事のように考える。霞み見えなくなっていく視界で、せめて、と男を探した。

「馬鹿だね。そこまでして逢いたいのか。それならば、あの子の足りない部分を君で埋めてみるかい」

じゃらり、と金属の音がして。
視界がぐるり、と変わる。抱き上げられたのだと知ったのは、男の泣くように笑む顔が見えたからだ。
手が瞼に触れる。視界が黒に染まる。

「あの子と君と。一つにした所であの子になる訳ではないけれど、このまま消えてしまうよりはいいのだろう。君にとっても、あれにとっても」

淡々とした男の声。
本意ではないのだろう。だがこのまま無駄に消えていく生を捨て置く事も出来ない程には優しいのだろう。
願ってもない事だ。声も出せぬ身であるが是と答える。

「仕方ないね、まったく。じゃあ、お休み」

柔らかな声。口遊むのは呪いか、慰めの歌か。
どこか懐かしい、それでいて哀愁を誘う旋律に、身を委ねて。
そして、眼を閉じた。





「黄櫨《こうろ》」

聞こえた声に目を開ける。
変わらぬ暗闇と触れている熱に、目を塞がれているのだと知る。

「神様」

彼を呼ぶ。名で呼べと言われてはいるが、どうしてもそう呼んでしまうのは、きっとその呼び名が馴染んでしまっていたからなのだろう。
目を塞ぐ手を外される。目の前に椿。手のひらには、開いた椿の花。
そして、藤の花びら。
役目を終えたかのように、花は光となって消えていく。

「椿に呼ばれた気がしたの。椿が視せたものを、神様も視た?」
「あぁ、視た。よくやったな、黄櫨」

頭を撫でられる。心地よさに目を細めて。
気づけば、最後に聞いた旋律を口遊んでいた。

「古い術だな。異なる二つを一つにし、新たに作り上げる。そういう術だ」
「どこか哀しい旋律だね」
「哀しかったのだろうよ。あの男は。己が封じられる事よりも、目の前で失う事がよほど哀しかったのだ」

そっか、と呟いて目を閉じる。
背後の彼に身を預け、旋律を口遊んだ。

「案ずるな。お前の躰は必ず取り戻す。小娘の言う声とやらも切った。あの屋敷に近づきさえしなければ、二度と聞こえまい」

答える代わりに、撫でる手を取り擦り寄った。
椿の意図が見えない。
彼が理解したものが分からない。
封印されたはずの元の躰が何処へ行ったのか。誰が何の目的であんな呪の塊を持って行ったのか。
彼は何一つ教えてはくれなかった。
哀しい訳ではない。ただ、知らない所で大切な誰かが傷つくのが怖かった。

「一つ誤れば、禁術の類いとなるだろうものも、黄櫨が歌えばすべて祈りに変わるのだな」

微かに驚きを滲ませた声音に、目を開ける。
椿が咲いていた。

咲き乱れる白椿。
陽の落ちた暗い空に昇る、いくつもの小さな光。

その光を、椿を、懐かしいと感じた。
胸を締め付ける切なさに、何故か無性に泣きたくなった。



20241105 『哀愁を誘う』

11/5/2024, 4:29:52 PM