雨の音がした気がして、顔を上げた。
激しくはない。静かな心地の良い音。
読んでいた本に栞を挟んで閉じる。
立ち上がりカーテンを開ければ、糸のように細い雨が降っているのが見えた。
窓を少しだけ開けて腕を出す。優しく腕を濡らす冷たい水の感覚に目を細めた。
涙雨。ここではないどこかで誰かが泣いてでもいるのだろうか。
腕を戻して窓を閉める。カーテンは開けたまま。
椅子に座り直すものの、本の続きを読む気も、濡れた腕を拭う気も何故か起きなかった。
ぼんやりと、ただ窓の外を、降り続く雨を見る。
滲む景色の向こう側。白い何かが横切ったように見えて、目を凝らす。
ちらちらと、白が揺れている。踊るような、揺蕩っているような、ここからでははっきりと見る事の出来ない白が視界にちらついて。
気づけば、その白に誘われるようにして、部屋を出ていた。
「あぁ、来てしまったか」
ぱしゃん、と跳ねた水音に振り返る男の姿を認め、立ち止まる。
懐かしい、その見慣れた姿。忘れていくだけの遠い過去。
「法師、様?」
尋ねる声に男は何も答えず、ただ淡く微笑んだ。
その横を、ふらふらと白い髑髏が通り過ぎる。
ふらふらと。ゆらゆらと。
波に揺蕩うように自由に白が宙を彷徨う。けれどその眼窩はこちらを向き、逸らされる事はない。
手を伸ばす。
今なら、触れられるような気がした。
「やめておくといい。切り離された縁を再び繋げる意味はどこにもないだろう」
けれどその行為は、穏やかな声に窘められ。
否定する理由も見つける事が出来ず、諦めて腕を下ろし俯いた。
「怪我をしたのか。大事ないか」
頬の傷を指摘され、首を振る。
「皆、は?」
「問題ない。求めていたのはこの子のようだからな」
髑髏の事だろうか。見えてこない彼らの目的に、混乱してくる。
何故、この場所を知っていたのか。
何故、髑髏を求めたのか。
呪いを解くとは何を意味していたのか。
彼らは一体何なのか。
分からない事ばかりだ。
「この子も大分落ち着いたようだな。そろそろ戻らなければ」
男の言葉に徐に顔を上げる。
漂っていた髑髏が男の腕に収まり、やはりこちらに顔をむけたままで、口を開いた。
――雨ハイイ。特二静カナ雨ガイイ。今ノコノ柔ラカナ雨ハ心ヲ鎮メテクレル。
かたかたと下顎を動かせば、声もないのに言葉が入り込んでくる。
――落チ着ケ私ダッタ者。コノママ泣イテイタノデハ引キ摺ラレテ沈ム。ソレハ勿体ナイダロウ!
かたかた。楽しげに髑髏が語る。
さあさあ。優しい雨が降り続く。
音が響く。言葉が入り込む。
不快ではないそれらに、心に溜まっていた不安が少しずつ溶けていく。
――戻ルトイイ。目ガ覚メテイル頃ダ。
誰が、とは敢えて聞かなかった。
分かった、と頷いて目を閉じる。
さようなら、と声には出さずに呟いた。
「彩葉《あやは》」
頭を撫でられている心地の良い感覚に、意識が浮上する。
目を開けて、体を起こす。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「目が覚めましたか。彩葉」
雨のように静かで柔らかな声に呼ばれて視線を向ければ、ベッドで身を起こし微笑む住職と目が合った。
「っ住職様!」
微睡んでいた意識がはっきりして。
思い出す。たくさんの赤を。
暗い赤。鮮やかな赫。夕日の空に似た朱色。
「怪我は?起きていて大丈夫っ?」
「落ち着きなさい。怪我は大した事はないのです。それよりも」
彼の目が痛ましいものに変わる。頬に張られたガーゼを傷に触れない程度に、指先が軽く触れた。
「怖い思いをしたのでしょう。申し訳ありません」
「わ、たしは大丈夫だから。こんなのかすり傷だし」
傷は深くはない。血もすでに止まっている。
それでも不安そうな親友を落ち着かせるため、彼女の好きにさせていたら、こんなに仰々しい手当をされてしまっただけの事だ。
「住職様が無事でよかった」
「心配をおかけしました。ですが、彩葉は何故ここに?」
彼の疑問はもっともだ。けれど何と答えたらよいのかを迷う。
見た夢を話せばまた心配をかけてしまう事だろう。
それでも夢の内容を話さず伝えるのは難しい。
「怖い、夢を見て。それで、夢だって分かってたけど、怖くなって。行っても意味ないって思ったけど、どうしても確認しなきゃって思って」
要領の得ない説明になってしまうが、住職は笑ったりせず、静かに話を聞いてくれる。
「それで、その。友達に話したら、一緒に来てくれるって言ってくれたから、それで」
「彩葉」
静かな声に呼ばれた。
雨のように柔らかく優しい声音。
穏やかで強い目に見つめられ、誤魔化す事は出来ないと悟る。結局はどうしたって心配をかけてしまうのだ。
それならば、隠し事を彼にだけはしたくはなかった。
「あのね、住職様。夢を見たの。水の底で微睡んでいる髑髏と法師様の夢」
苦笑して、話し出す。
夢の事。現実の事。
そしてさっき見た夢の話。
話しながらちらりと横目で見た窓の外は、澄み切った青空が広がっている。
雨どころか、雲一つない晴天。
泣き止む事が出来たのか、と他人事のように思いながら。
戻ってこれた事に、素直に安堵した。
20241107 『柔らかい雨』
11/7/2024, 11:35:36 PM