転校生に連れられ促されて入り込んだ鏡の中は、先の見えない暗闇だった。
視力の落ちた右目を気にしているのだろう。左側にいた親友は繋いでいた手を一度離して右側に移動すると、寄り添うようにして手を繋ぎ直した。
「大丈夫?手を離さないでね」
そう言って、親友は繋いだ手に少しだけ力を込める。
それに頷きながらも、視線は何一つ見えない暗闇の先から逸らす事が出来ない。
「どうしたの?」
心配する親友に、大丈夫だと首を振って答える。
彼女が心配するような事はない。何かが見えている訳でもない。
ただ。何故だろう。
その暗闇を、懐かしいと感じた。
「篝里《かがり》。案内はいらなくなった。その時間も惜しいから、直接繋げるよ」
「分かった」
暗闇の中。男の人の声がする。
聞いた事のあるような。やはりどこか懐かしい気持ちに、そんなはずはないと否定する。
暗闇を怖がる気持ちと一緒。
脳が騙されているのだろう。
脳裏を過ぎた思いに、内心で首を傾げる。
何故そんな事を思ったのか分からなかった。
「二人、なんだな」
「ちょっと訳あり。あれと接触したらしい」
「そうか」
「そういう訳だから、さっさと明るくして話をしてくれない?」
彼女の言葉に、周囲が明るくなる。
「急げとは言ったけれども、焦るのはよくないな」
先ほどとはまた別の男の人の声。
木の格子の向こう側。鎖に繋がれた誰かが見定めるようにこちらを見ていた。
穏やかな、優しい。恐ろしい、視線。
視線が交わる。上手く見えない視界でも、向こう側の彼が驚いたように目を見開いたのが分かった。
「あれと接触したというのは本当かい」
「嘘をつく意味がない。それに否定して切ったのに、目を付けられている」
「俺はその子に聞いているんだけどね」
「声を持って行かれているのに、話せる訳がない」
「玲《れい》」
彼が彼女の名を呼ぶ。
冷たいその響きに、彼女は息を呑んで。
ごめん、と小さな謝罪。
それに頷いて、彼は再びこちらを見た。
「話さなくてもいいから、答えてほしい。あれを近くで見たのかい」
あれ、というのはクガネ様の事なのだろう。
小さく頷く。
「あれの声を聞いたかい」
もう一度頷く。
「あれに触れられたりはしたかい」
首を振る。
直ぐ横を通り過ぎただけで、触れられたりなどはされなかったはずだ。
そうか、と納得したような声が響き。
じゃら、と音を立てながら、彼は格子戸を指さした。
「開けてごらん。今なら開けられるはずだ」
格子戸を見る。鍵は掛かってはいない。
促されるようにして、足を踏み出し。
けれど繋いだ手が戸に近づく事を阻むように、引かれた。
親友を見る。
凪いだ眼に、警戒を乗せて。静かに彼を見ていた。
「危害は加えない。開けられるか否かを見定めるだけだよ」
「開ける事で入れ替わるのに?」
「その子ならば無効化するよ。問題はない」
彼の言葉に、それでも親友の手は離れない。
控えめに手を引く。視線を合わせて、大丈夫だと告げる。
開けられる。
今度こそ。
また脳裏に知らないはずの思いが過ぎる。
それを見ない振りしながら、親友の手をもう一度引けば、小さな嘆息と共に手が離された。
「気をつけて。無理はしないでね」
心配する言葉に笑って頷く。
親友に背を向けて、格子戸の側まで歩み寄り触れた。
「戸を開けて、中に入っておいで」
格子の上から三つ。右から二つ。
下から手を差し入れる。手のひらを押しつけるようにしてゆっくりと力を入れて押し開ける。
さほど抵抗なく開いた戸を潜れば、彼は満足げに笑った。
「上出来だ。記憶になくとも、見定める眼はしっかりしているね。いいよ、おいで。記憶を戻すのと一緒に、声と眼も戻しておこう」
手招かれ、促されるままに彼の元へ近づく。
どこか懐かしい歌。鎖に繋がれた手が、その指が額に触れて。
脳裏を過ぎるのは、小さい頃に繰り返し見た夢。
暗い廊下を黒い男の人に連れられて。その奥にある格子の鎖を、中の男の人に教えられながら一つずつ解いていく、そんな夢。
最後の鎖を解いて。朦朧とする意識の中で聞こえたのは、たしか。
「大きく、なったら。格子戸を」
「思い出したね。そうだ。君は戻って来て、この格子戸を開けられた。合格だよ。俺の後継者」
はっきりと見えるようになった彼の口元が、にんまりと歪んで。
「変態」
「さすがにそれは見ているだけで気持ち悪い」
両方の手を引かれ、視界から男の姿が消えた。
彼女と親友の背が視界を覆い、庇われているのだと知った。
「時間がないと言ったのは藤白《ふじしろ》だ。さっさと話す事を話して、あれを何とかしに行って。あといくつの篝里を作らせる気なの」
「酷いな。後継者なんて今まで現れた事がなかったんだから、喜んだっていいだろう」
彼の言葉を彼女は鼻で笑い。
彼の隣に立つと、くるりと振り返る。
「この鎖に繋がれているのが、君たちが探していた藤白。遠い昔、名前のない不安定な妖を名付けて飼い慣らした、すべての元凶だよ」
酷いな、と笑う彼を一切気にせずに、彼女は話を続ける。
「それで、その後ろにいる黒いのが篝里。あれが呪を求め続ける理由になった、藤白という存在のせいであれに消された被害者」
「あなたは?」
親友の問いに、彼女は心底嫌そうに顔を顰めた。
「藤白の魂の一部を持って生まれた、ただの人だよ。藤白という存在のせいで記憶を継いでるし術を使えるけれど、それだけ。本当に不本意だけど」
はぁ、と溜息を吐く。本当に嫌で仕方がないようだ。
「あれが封印されていた黄櫨《こうろ》さんの躰を攫ったのは、おそらく篝里を作りたかったからだ。僅かに残るよすがと、欠落している大半を呪で埋めたものとを合わせて、新しく篝里を作ろうとしている。かつて藤白を戻すために篝里をそうしたように」
顰めていた顔を淡い笑みに変えて彼女は言う。
そしてその笑みすら消し、真剣な面持ちで告げた。
「少し長いけれど、話をしようか。その間にあれの庭まで、道を繋ぐから」
彼女の言葉に、親友と視線を合わせる。
どちらともなく手を繋ぎ。
彼女達を見据えて、ゆっくりと頷いた。
20241110 『脳裏』
11/11/2024, 12:07:52 AM