sairo

Open App

暗い水底で微睡んでいた。
目を開けたとて、見えるものは何もない。そも見るための目も、開けるための瞼もなかったと気づき、内心で笑った。

とても静かだ。
ここには鮮やかな色彩も、煩わしい喧噪もない。分かるのは身に纏わり付く水の感覚と、己を抱く男の腕。
優しい男だ。それでいて他の誰よりも哀しい男であった。
ここで眠る誰もが口をそろえて答えるだろう。
そこにどのような理由があれど、男が皆/己を慈しみ、掬い上げてくれた事には変わらない。男の愛する者と共に行くという選択肢もあっただろうに、こうして皆/己の慰めとして沈むくらいには。

穏やかな意識の端で、取り留めのない事を考える。
欠落を抱えた満たされない飢餓感も焦燥も凪いだ今、戯れのように思うのはそんな些細な事ばかりだ。時間という概念すら曖昧な水底で、満たされた思いは呪を歌う事もなくただ揺蕩い、微睡み続けている。

少し眠ってしまおうか。
男の腕に身を預け、心地良さに意識が沈む。そのまま抗う事もなく、静かに、眠りに。

――光が差した。

一筋の、だが暗い水底では眩いほどの光が差し込んだ。
時折地上から降りる淡い光の珠ではない。真っ直ぐな刃の燦めきにも似た光。
誘われるようにして、男の手が伸びる。
光とは救いだった。水底に縛られ続ける皆/己を掬い上げ、還す事の出来る唯一のもの。
以前より光の珠を集めては皆/己を還していく男が、光に手を伸ばすのは可笑しな事ではない。
いつもの事。いつもとは違う光。

――呪の歌が響く。

波紋が鎖となって、男の腕を掴み留める。
背後の男が、息を呑んのが振動で伝わった。
今まで呪を歌う事なく微睡んでいた髑髏が、前触れもなく歌い出したのだから無理もないのかもしれない。
皆の困惑が伝わってくる。己のこの行為を、己自身すら分かっていない。

だが。しかし。
何故か何処かで警鐘が鳴っていた。





獣道を駆け上がる。
すぐに息が切れる脆弱な自分の体が恨めしい。

ただの夢だ。それは分かっている。
それでも、夢だからと一笑に付してしまうには、あまりにも怖い夢だった。
行った所で意味はない。出来る事など何もないと分かっていても、急く足はあの池へと向かってしまっていた。

「あーちゃん!もう少しだから」

息が切れ、足が縺れて転びそうになる度に、前を行く親友が手を引き踏み止まらせる。不安と諦めとが混ざり、混乱する思考を前へと進ませる。

そうして辿り着いたその場所に、夢だけでは見えなかった怖いものが何であるのかを知った。

「っ、住職様!」

傷だらけで倒れている住職に駆け寄る。抱き起こせば微かに息はあるものの、流れる赤と戻らぬ意識に不安が押し寄せる。

「まだ死んじゃあいないぜ。それに邪魔をするそっちが悪い」

知らない声に顔を上げる。
池の前。四人の子供達が何かをしているのが見えた。

「何、してるの」
「別に。呪いを解いているだけだ。悪い事ではないだろ」

呪いを解く。
意味が分からず、それでも止めなくてはと立ち上がりかけ。
その瞬間、頬を冷たい何かが掠めていった。

「あーちゃん!」

側で様子を伺っていた親友が、庇うようにして前に立つ。
頬に触れれば、ぬるりとした感触。ちり、とした痛みに、切られたのだと分かった。

「終わるまでおとなしくしてろよ。つか、ちびすけ。まだ終わんねぇの?」
「糸を取らないんですもの」
「警戒されてしまっているんですもの」
「深すぎて、よく見えない、から、糸をかけるの、難しい」

親友の背に阻まれて、彼らが何をしようとしているのかは見えない。けれど会話の内容から、良くない事だと直感的に感じた。
親友も何かを感じたのか。彼女の足が一歩、前に出る。

「紺《こん》、駄目っ!」

嫌な予感に立ち上がり彼女の手を引く。
だが遅い。手を引く瞬間に、彼女の背越しに見えたのは、舌打ちをする少年と白の光の線。
彼女に向けて投げられたナイフが、彼女を。


「止めて下さいな。ワタクシの紺に傷をつけようなどと」

目を灼く赫の炎。
親友を守る壁のように燃え上がり、ナイフを呑み込み跡形もなく消える。

「下がりなさい、紺。そこで倒れている男の側でおとなしくしていなさい」
「狐さん」

炎を纏い現れたのは、朱色の毛並みをした大きな狐。
親友が安堵の笑みを浮かべ親しげに呼ぶ様子から、この狐が彼女の大切なモノなのだろう。
掴んだままの手を改めて引く。こちらを見る親友を促して、住職の所まで数歩下がる。
邪魔になってはいけないと、本能が告げていた。

「邪魔なのが出てきたな。別にいいけどさ」

地を蹴り、距離を詰める。流れるような動きで手にしたナイフを狐の喉元へ突き刺すが、それよりも速く狐の裂けた尾の一つが少年の体を横殴りに飛ばした。

「面倒くさい尻尾だな。じゃあ、こうするか!」

宙で回転し、勢いを殺さず無数のナイフを狐に投げつける。
しかしナイフが狐に届く事はない。振った尾から現れた炎がすべてを呑み込み消していく。
とん、と少年が地に降りる。その表情に焦りはない。
また一つナイフを投げ。炎がそれを呑み込み。

だがナイフは消える事はなく、炎を纏ったままに狐の尾に突き刺さった。

「狐さん!」

駆け寄ろうとする親友の手を強く握り、引き止める。行った所で足手まといになるだけだ。それを分かっているのだろう。手は振り解かれる事はなく、小さなありがとう、の言葉と共に側に寄り添うようにして座り込んだ。

「少しは楽しめたけど、まあこんなもんか。案外あっけないな」

にやり、と少年の口元が弧に歪む。幼い外見に似つかわしくない鋭い眼が狐を見て、そしてその背後にいる自分達を見た。
視線が交わる。少年の口元がさらに歪んだ。
狐の尾が少年の視線から隠すようにして振られる。現れたいくつもの炎の玉は少年へと向かい。

「馬鹿なやつ。獣だから頭は良くないのか」

その言葉と同時に。炎の玉が炎を纏ったナイフへと変わり、そのすべてが向きを反転させた。
そのまま狐の尾に、体に深く突き刺さる。
ぐらり、と傾く狐の体を、親友と二人声も出せずにただ息を呑んで見つめていた。



「愚かなのは、果たしてどちらなのでしょうね」

静かな、それでいて澄んだ響きの声。
少年から笑みが消え、訝しげなものへと変わり。一つ遅れて複数の悲鳴が聞こえた。

少年よりも奥。池のすぐ側にいた二人の幼い少女達が悲鳴を上げている。
少女達の間には、目の前の少年よりもさらに幼い少年。その背には燃えるナイフが突き刺さり、音もなく静かに崩れ落ちていく。

「晴《はる》っ!」

振り返りその様を見た少年が、叫ぶようにして崩れた少年の名らしきものを呼ぶ。地を蹴り、素早く彼の元へと走り寄った少年の手は、けれど彼に触れる事はなかった。

「ぐ、ああぁあ!」

赫の炎が少年を焼く。
背を、腕を、足を、頭を。赫が覆い、見えなくなってしまう。
悲鳴が響く。泣く声がする。あぁ、と声にならない呻きが溢れ落ちた。


「はいはい。そこまでにしてよ。ちびたちは幼いからね、まだ良い事と悪い事の区別がつかないんだ」

知らない声。
いつの間にか現れたのは、自分達とさほど年頃の変わらない少女。
目の前の惨状など一切気にせず、子供達の方へと歩いて行く。

「それで納得は出来ぬと分かっているでしょう」

狐が少女に声をかけ、少女の足が止まる。

「そうだね。じゃあ、おちびが怪我をさせた人の手当で妥協してくれない?」
「必要ありません。そこのもどき等を回収してもらうのが最良だと言われております」
「もどきって。おちびたちはまだ人なんだけど」

呟く少女の表情からは何も読み取れない。
目の前の光景に一切取り乱す事なく、戸惑う事もなく狐と話をしているその姿は、とても異様で小さく体が震えた。

「今回は完全にこちらの落ち度だからね。おとなしく言う事を聞いておくよ…ほら、帰るよちびたち。様子見だって言ったのに、何してんのさ」

子供達へと歩み寄り、声をかける。
泣く少女達が側に来た彼女の姿を認めて、抱きついた。

「あるじさま!」
「晴が、嵐《あらし》が!」
「わたしたちがわがままを言ったから」
「失敗したの何とかしようとしたから」
「分かってるよ。大丈夫。それに二人とも問題ないよ。そうでしょう?」

振り返らずに少女が声を上げる。
何がとは言われずとも彼女が言いたい事を理解して、狐は尾をゆるり、と振った。
炎が消える。
少年達の焼かれた跡も、刺された跡も何一つなく。
まるで夢でも見ていたみたいに。

「ほらね。全部あちらは知ってたし、こうなる事も分かってた。嵐、起きてるでしょ。晴をつれて戻るよ」
「師匠。悪ぃ」

炎に焼かれていたはずの少年が起き上がり、少女に小さく謝罪をすると、倒れているもう一人の少年を抱き上げる。

「あちらの眼は本物だからね。仕方がない事だよ。さ、早く帰ろうか。水と鏡は繋がっているから、帰り道は水の先だよ」

彼女の言葉に反応して、池の水面が緩やかに盛り上がる。
高く上がった水は左右に広がり。言葉通りに、水の先の景色がどこか暗い室内を映し出す。

「それじゃあ、帰ろうか。痛くて怖い思いをさせてごめんね」

振り返り、こちらに視線を向けて彼女は謝罪する。
申し訳なさそうなその顔に何も言えずに、ただ首を振った。
小さく笑う。そして子供達を促して、水の中へと足を踏み入れ、姿が消える。
ばしゃん、と重力に従って水が落ちる。その音にはっとして、繋いでいた親友の手を離した。

「狐さん、大丈夫」
「問題ありませんよ。傷もありませんしね」

狐の姿が揺らめいて、狐から人の姿に変わる。
以前親友に連れられて行った、神社の宮司の姿。彼女の、大切な人。
その姿には、刺されたはずのナイフの傷はない。

「狐は化かすのが得意なのですよ。それよりも、アナタ様の傷とそこの男の傷の手当をしなくてはいけません」

彼の言葉に、未だに意識が戻らない住職に触れる。
暖かい。その温もりに安堵する。

「傷は深くはありませんから、心配はいりませんよ。先ほどは紺を止めて下さりありがとうございました」

ふわりと微笑んで、住職を抱き上げる。
お礼の言葉には、ただ首を振る事しか出来なかった。

「あーちゃん、いったんお寺に行こう?あーちゃんの傷も手当てしないと」
「うん。そうだね」

親友に促されて立ち上がる。
子供達が何をしたかったのかは、結局分からないままだ。

不安に押しつぶされそうな気持ちを誤魔化すように。
差し出された親友の手を取り、心配する彼女に向けて大丈夫だと笑ってみせた。



20241106 『一筋の光』

11/6/2024, 11:05:57 PM