格子戸を抜けた先。見慣れたはずのそこが、全く見知らぬ場所に見えた。
「曄《よう》。大丈夫?」
「っ、うん。大丈夫」
こみ上げる不安を誤魔化すように、声に出す。
心配する親友の存在だけが、ここに立つ覚悟を与えてくれるような気がした。
「皆、無事だといいけど」
辺りを見回す。
夜でもないのに周囲は暗く、灯りのない状態では遠くまで見通す事は出来そうにない。
左に見える建物は倉だろうか。だとすれば、母屋の台所付近に出た事になる。
「式の気配が消えている。これはよくないな」
「様子を見てくるか」
「いやいい。よくない状況が分かったのだから、無理をする必要はないよ。玲《れい》、何かあればすぐに切り離せ」
「分かってる。それより、何この臭い。腐った泥のような」
顔を顰めて鼻を押さえる彼女に困惑する。
辺りの匂いを嗅いでも彼女の言うものは感じられず。逆に馨しい花の香りに目眩がしそうだ。
隣にいる親友を見る。その横顔からは、何も察する事は出来ない。けれどどこか険しさを湛えた眼が母屋の先、離れのある辺りを真っ直ぐに見つめていて、嫌な予感に息を呑む。
「何か、いるね」
「何かって、何?」
「分からない。でも」
その視線は変わらず屋敷の奥を見つめていて。
彼女達も気づいたのだろう。皆険しい顔をして母屋に視線を向けた。
「くるよ」
誰かの言葉とほぼ同時。
静かだった空間に、声が響いた。
「何、あれ」
「泥、かな。離れないでね」
母屋から這い出てきたのは、親友が言うように泥に近いナニか。
べちゃり、ぐちゃり、と地面を黒に染め、いくつもの泥がこちらへ近づいてくる。
その泥から声がした。
叫ぶような、呻くような。意味を持たない音の羅列が重なり合い、不協和音を奏でている。
「気持ち悪いな。これ以上近づかないで」
彼女の言葉が泥を否定し、見えない壁が境界となってそれ以上泥が近づく事を許さない。
そうして進めなくなった泥を、彼らは容赦なく切り裂いていく。
「臭い。藤白《ふじしろ》、早く何とかして。泥を切ってどうするの」
「そうは言ってもね。燃やしたりしたら屋敷まで燃えてしまうじゃないか。それよりは切った方が確実だよ」
「数が多いな。また来るぞ」
母屋から次々と現れる泥に、それぞれの表情は段々に険しさを増していく。
何も出来ない事が、歯痒くて仕方ない。けれど今無理に何かをしようとしても、足手まといにしかならない事は分かりきっている。
繋いでいる手に力が籠もる。縋るようにして親友にもたれかかった。
「ごめん。少しだけ」
「いいよ。見ているだけはつらいね。特にあの子達に何も出来ないのは苦しいね」
「あの子達?」
親友の言っている意味が分からず、視線を向ける。同じようにこちらを見た親友は、何故か悲しげな顔をして笑い泥を指さした。
「元に戻す事は出来ないし、還す事も出来ない。根源が歪んでしまっているから」
「もしかして、あの泥」
泥を見る。目を凝らし、耳を澄ませる。
泥と重なるようにして、小さな点が淡く光を灯していた。
光が明暗を繰り返す度、声が聞こえる。意味のない呻きではない。痛みや苦しみに嘆くたくさんの人が、必死に声を上げていた。
「魂と呪と。無理矢理一つにされていたものが、今度は無数に千切られてしまったんだ。どこかに大本があるはずなんだけど」
親友がするように辺りを見ても、見える範囲には千切れたという泥ばかりだ。泥が母屋から出てくる事からも、屋敷の何処かにいるのだろう。
そう思い、親友を見る。その眼は再び、離れのある方角に向けられ、何かを屋敷越しに視ているようだった。
不意に、親友の表情が変わる。
険しさの中に困惑を混ぜたような目をして、一歩前に出た。
「危ないから、まだ下がってて」
「誰かいる。こっちに来るよ」
振り返る彼女に、親友は視線は屋敷に向けたまま答える。
その言葉に母屋を見る彼女の前で、泥が燃え上がった。
「藤白!」
「俺じゃない。母屋だ」
「何だお前ら?ここの奴か」
低い、男の人の声。
次々と燃える泥が灯りになって見えた母屋の奥から、大柄な人影がこちらに向かって歩み寄ってくる。
「ん?嬢ちゃんと、嬢ちゃんの友達じゃねぇか。兄貴がよく許したな」
その人影に、見覚えがあった。
「寒緋《かんひ》さん」
「久しぶりだな、嬢ちゃん。兄貴はどうした?」
けれど彼の纏う空気は知らない誰かのように冷たくて、近づいてくるのが怖いと思ってしまう。口元だけを歪めて笑い、けれどその琥珀色の瞳は鋭さを隠そうともせずに。近づくだけで切り裂かれてしまいそうな雰囲気に、体が震えるのを止められない。
彼が手にした何かを投げつける度に泥が燃える。真っ赤な炎に照らされた彼の服が赤に染まっているように見えて、目を逸らした。
「寒緋さんはどうしてここに?」
「兄貴の頼み事だよ。それにしても兄貴の眼を誤魔化すなんざ、止めといた方がいいと思うけどな。怒らせると後が怖いぜ」
「大丈夫です。寒緋さんがここにいるなら、きっと全部視ていたんだと思いますから」
微笑んで、親友は繋いでいた手を解き、彼に近づく。そして彼の手を取り、小さく旋律を口遊み始めた。
今のこの場所には似合わない。陽だまりのような暖かさを感じるような音色。
「やっぱすげえな。嬢ちゃんは」
彼の目が僅かに見開かれ、そして緩やかに細まる。
直前の鋭さが消える。口遊む音色に怖いものがすべて融かされていくようだ。
「これで、大丈夫ですか?」
「ん。助かった。姉ちゃんを置いて来ちまったから、少し呑まれてたみたいだ」
彼の穏やかになった空気に、周りの緊迫した空気も消えていく。
「すごい。何あれ」
彼女が小さく呟く。安堵に驚きが混じった表情をして親友を見て、こちらを振り返り手招いた。
「おいで。もう泥は全部なくなったみたいだから」
側に寄れば、どこか心配そうな彼女に手を握られる。
「震えてる。怖かったね、大丈夫だよ」
その言葉に握られた手を見る。微かに震える手を見て、さっきまでの色々な恐怖を思い出し、きつく目を閉じた。
「つらいなら、無理に行かなくてもいい」
「大丈夫。行くってきめたから」
頭を振り、目を開ける。
真っ直ぐに彼女を見て答えれば、彼女はそれ以上何も言わずに頷いた。
「行こう。急がないと」
握られた手を引く。
急がなければ、とその衝動にも似た気持ちが前へと足を進ませた。
20241113 『スリル』
「あれはね、元は小さな無名だった。名も無く、形も無い。何にも成れずに消えていくだけのモノ。それを一人の祓い屋が気まぐれに名付け、式にした」
彼女の声を聞きながら、僅かに残る記憶を辿る。
「名付けた祓い屋に、あれはよく懐いていたよ。まるで雛鳥のように常に後をついていた。祓い屋の助けになろうと力の使い方を学び、式として在り続けた。感情の起伏に乏しく、言葉数も少なかったから何を考えているのか分かり難い所はあったけれど」
違う、と思い返す記憶が否定する。
彼は知らなかったのだ。感情というものを。
彼と言葉を交わしそれを知り、故に記憶の中の自身は彼に教えた。
四節に咲く花の形を。空の色を。実りを感謝し、祈り舞う人々の感情の名を。
「懐いてはいたようだし、悪くは思われていなかったのだろうね。少なくとも祓い屋の戯れでしかなかった契約を、律儀に守り続けていたくらいには…だからなのかな。あれがそこの変態を作り上げてしまったのは」
「ちゃんと聞こえているからね。後で覚えていなよ」
「話に割り込まないで。それに本当の事でしょう」
顔を顰める彼女に、鎖で繋がれたままの男は苦笑する。
格子戸が開けられたというのに未だ鎖を解かぬのは、まだ何かを待っているという事なのだろうか。
「祓い屋という生業は危険が付き纏うものだ。特にあの頃は、今以上に人と人成らざるモノの距離が近かったから。だから祓い屋の最期もまた悲惨だったよ。魂すら歪み捻くれて、正しく人の形を取る事も儘ならなかった。それを見て思う所があったのか。あれは一つの空間を作り上げて、祓い屋を閉じた」
そこは初めて招き入れられた時は、藤の花一つしか咲かぬ寂しい空間だった。
おそらくそこに魂はあったのだろう。記憶の中の自身は終ぞ知る事はなかったが。
「それから長い時間が過ぎた。あれは祓い屋の一族の当主に継がれ、命じられるままにあれは働き、いつしか守り神と呼ばれるようになった」
「代わるか」
「そうだね。篝里《かがり》の事は、キミの方が詳しいだろうから、よろしく」
頷いて、彼女の元まで移動する。
「篝里は祓い屋であった藤白《ふじしろ》の一族の者であった。当主が兄である事以外に特出するものもない。当主である兄を敬愛し、一族を、里の者を愛した。穏やかで性根の真っ直ぐな子供だった」
里を走り回る、陽だまりのような笑顔が脳裏に蘇る。
空から見ていた小さな少年は、いつも笑顔を絶やす事はなく。それに惹かれて、篝里を止まり木に選んだのは必然であったのだろう。
「兄である当主は変わった男だった。篝里と同じく穏やかでありながら当主としての強さもある男は、それまでの当主等とは異なり、あれを己の屋敷に住まう事を許していた」
「あれは人の手には余るモノだったから。契約があり、よく従ってはいたけれど、必要な時以外は喚び出さなかったらしいよ」
「そうだな。先代も何度か苦言を呈していたようであるし、屋敷の者も皆、あれに近づこうとはしなかった」
当主と一人を除いては。
彼を怖れて彼の周りに人は近寄らず。彼もまた人の少ない離れへと移動していき。
そうして離れの奥。一人佇む彼を見て、篝里は何を思ったのだろうか。
己の翼を撫ぜながら離れを見る篝里の横顔には、いつもの笑みはなく、あれについて話す事もなかった。
「篝里だけは違っていた。あれと言葉を交わし、何も知らぬあれに様々を教えた。兄の事。里に住まう者の事。些細な話を繰り返して。そのうちあれは、いつしか藤白を閉じたあの庭に篝里を招き入れるようになった。あれが何を思って篝里を招いていたのかは不明だが、あれの庭は篝里が訪れる度に、篝里の好む花や木々に彩られていった」
好かれていた、とは思う。彼の纏う気配は篝里といる時には、僅かに穏やかになっていたのを知っている。離れにいた彼が見ていたのは、主である当主よりも篝里である事も見ていた。
だが今更だ。
彼の心の内を知る術はなく、知ったとして戻るものは何もない。
「寒く、暗い日だった。蠢く闇に皆が怯えていた。数多くの魑魅魍魎が辺りを徘徊し、当主や祓える者等は屋敷を出ていった。しかしどれだけ待てど、誰一人戻らず暗いまま。篝里は屋敷に残る者等に声をかけ励ましながらも、何か己に出来る事はないかと屋敷を動き回り」
目を伏せる。
忘れる事の出来ぬ、あの光景を今一度思い起こす。
「気づけば、あれの庭に迷い込んでいた。正しく招かれた訳ではない。呼び寄せられたという方が近いな。手段はどうであれあれの庭に入った事には変わらない。そして藤棚の下にいるあれを見た」
現世と同じく暗い庭で、幽鬼の如く佇む彼のその表情を覚えてはいない。
その後の事も、断片的な酷く曖昧な記憶しか篝里は有していなかった。
「篝里が最期に見たのは、咲き誇る藤の花だった。花と旋律と、光。そしてそれと同時に現世では明るさが戻った。当主や一族は怪我や呪に侵されてはいたが、皆無事だった。一人を喪い、一人が新たに戻った以外は、何も変わりはなかった」
「戻ったというよりは、作り上げられたという方が正しいかな。歪み捻れた部分を切り離して、足りない部分を篝里の魂を砕いて埋め込んだのだから。藤白としての魂が核としてあるから俺は藤白としての意識が強いけれど、篝里としての部分もいくつかは持ち合わせているからね」
鎖の男が笑いながら補足する。
視線を向ければ、いつか最期に見えたそれに似た笑みを男は浮かべていた。
「当主は篝里を喪った事を悲しんだが、あれを責める事はなかった。現れた藤白を受け入れもした。故にあれはその後も当主の式として働き、次の当主に継がれてもそれは変わる事はなかった」
変わったものは多くはなかったが、それでも少ない訳でもなかった。皆を愛した篝里は皆からも愛されていたのだから。
喪失を皆悲しみ、かつての穏やかな空間は戻りはしなかった。
己の翼を撫ぜるその手も、柔らかな微笑みも。
「だがいつからか、あれは歪んでいった。喪うという意味が理解出来なかったのかもしれないが。あれは篝里を求め始めた。それが顕著になったのはおそらくだが当主が代わり、藤白を怖れ始めた者等が藤白を封印してからだ」
「それ以降は詳しく語れないよ。俺はこの通り封じられてしまったし、この子もここから動けなかったからね」
鎖を揺らしながら、さて、と男が格子の向こうを指さした。
「丁度道が繋がった。といっても屋敷の敷地内までだけれどね。何とかしろとは言うが、あれに作られた身では藤白だと認識されないと力負けする。絶対的な安全を与えられはしないがどうするかい。ここで待つという選択肢もあるよ」
「行くよ。私の躰をそのままにしておけないから」
「あたしも行く。ここで待っていても、きっと変わらないし、叔父さん達も心配だから」
「指示をちょうだい。足手まといにはなりたくない」
今まで話を聞いていた少女等がそろって声を上げる。
互いに繋いだ手が僅かに震えているのを見て、強いのだなと素直に感心した。
与えられるばかりでなく、己の力の範囲内で出来る事をする。まるで篝里のようだ。
「それなら玲《れい》の側にいるといい」
「分かった。一緒に行こうか。無理だと思ったら直ぐ声をかけて。隔離するくらいなら出来るから」
彼女の言葉に、少女等は強く頷く。
それを見て、男は強く腕を振る。ざらざらと崩れる鎖を払い、足取り軽く格子へと近づいた。
その隣につく。斥候はあの時から己の役割だった。
「篝里」
男が窘めるように呼ぶ。横目で見た男は、どこか呆れた顔をしているように見えた。
「今の君に飛ぶための翼はないよ。それを忘れるな」
言われて気づく。
腕を見た。羽根は僅かに残るのみで、これでは飛ぶ事など出来はしない。
思い出す。己の最期を。
翼は折られ、ここに辿り着いた後は二度と動かせなくなった。終わる間際に、あの庭から持ち出した欠片と己を男が一つにしたのを思い出す。
「思い出した。問題ない」
「さっきから分けて話していたのが気になっていたけど、今の形すら忘れるとは思わなかった」
「敢えて思い出そうとすればああなる。仕方がない事だ」
それほどにまで、己と一つになった篝里の欠片は僅かなものだった。時に姿形さえ保つのが困難になるほどに。
目を閉じる。そして開けば、そこに羽根の一つも残りはしない。
折れて飛べない無意味なものは、篝里には必要ない。必要なのは地を駆け、障害を薙ぎ払う手足だけでいい。
「斥候は式を飛ばしてある。それに庭の中にも玲が潜ませているから必要はないよ」
「分かった。行くか」
男を見て、振り返り彼女等を見る。
誰一人躊躇う者がいない事を確認して、格子戸に手をかけた。
20241112 『飛べない翼』
穏やかな午後の、淡い陽の下を駆けていく。
胸に抱えた芒の穂が揺れる。すれ違う人々に挨拶を交わしながらも、屋敷へと向かう足はさらに急く。
視線の先。話し合う二人の姿を認めて、思わず笑みが浮かんだ。
「当主様!守り神様!」
「おかえり、篝里《かがり》。いつも言っているだろう。私は当主である前に、お前の兄なのだから兄と呼んでくれないか」
「では、兄上。ただいま戻りました」
柔らかな声に窘められて、呼び名を戻す。
当主となられたのだから気軽に話す事など烏滸がましいとは思うが、兄は変わらずにある事を望まれている。兄が望むのならば、とは思うものの、気恥ずかしさにどうしても態度がぎこちなくなってしまう。そんな己の様子に兄が笑うのはいつもの事だ。
「それは、なんだ」
「芒です。使いから戻る途中、あまりにも見事でしたので持ち帰ってしまいました」
彼に声をかけられる。
芒がよほど珍しいのか。指先で穂先に触れるその仕草は、どこか幼くも見える。
ふふ、と思わず声が漏れる。それを誤魔化すようにして、抱えた芒の一束を彼に差し出した。
「こちらをお持ち下さい。差し出がましいとは思いますが、芒は魔除けになりますから。災厄を祓うよう、祈りを込めました」
「私の分はないのかい?」
どこか拗ねたような物言いの兄に、さらに笑みが溢れる。
残りの一束を兄に手渡すと、優しい手に頭を撫でられた。
「ありがとう。ご苦労だったね。ゆっくりと休んでくれ」
「分かりました。何かあればお呼び下さいね、兄上」
失礼致します。と兄達に一礼をして。
「篝里」
部屋へと戻りかけた足を、彼に呼び止められた。
尾花色の瞳に見つめられ、居住まいを正す。
「篝里は好きか。これが」
小さく首を傾げ、けれども直ぐに頷いた。
「はい。とても綺麗で、好きです」
この家を守れるものだから。
口には出さずに、胸中で付け足した。
この家の守り神である彼と出会ったのは、兄が当主となったその祝いの席での事だった。
当主となった者に憑く妖。
遠い祖先との契約なのだと父は言った。
当主に従い、この家を守るモノ。
父は忌み嫌っていたようであった。周りも顔を顰める者が多かった。
それでも、初めて彼を見た時。
とても綺麗だと、その美しさに魅了され怖ろしくも思ったのを覚えている。
「篝里」
声に誘われ、彼の庭へと足を踏み入れる。
屋敷の庭ではない。彼の神域とも言えるその空間。
目を引くのは、季節を問わず咲き誇る種々の花々だった。
その中でも一等美しいのは、藤の花。
彼に名を与えて、その在り方を定めたのだという祖先と同じ名を持つ花。
濡れ縁に座り、彼を待つ。
先代の父と異なり、兄は彼を怖れる事もなく屋敷で好きにさせていた。
他の者を気にしてか、離れの奥に一人佇む彼が気になり、足繁く彼の元を訪れ言葉を交わす。そして彼を知る度に、この庭を見る度に分かった事がある。
彼はその体躯に見合わず、随分と幼いモノだった。
必要なかったのかも知れない。彼にとっては名付けた祖先がすべてであり、それ故に祖先がいなくなった後もその契約を守り続けてきた。祖先の言葉こそが絶対であり、それ以外は関心が薄いようであった。
だから。
「篝里」
庭の奥から現れた彼に差し出されたのは、淡紫色の美しい木通の実。
「以前、篝里が好きだと言っていた」
「ありがとうございます。守り神様のお庭に植えられたのですか?」
「篝里が好きなものだ。嬉しい、か」
「そうですね。嬉しいですよ。守り神様のその私を思って下さるその気持ちが嬉しい、です」
微笑めば、彼は僅かに眉を寄せる。
その感情の機微がまだ分からないのだ。
好き、だと嬉しい。嫌い、だと悲しい。
彼が知るのはその単純な心の動きだ。そこに付随する要素は、彼にはまだ理解しきれない。
彼は感情を知らなかった。喜怒哀楽を感じた事もなかった。
祖先とはどんな関係であったのか。それは分からない。だが、それ以降の彼を継いだ当主達は皆、彼とこうして言葉を交わす事はなかったのだという。有事でもないのに、この庭から出る許可をもらったのは、兄が初めてなのだと言っていた。
「戻ってから兄と頂きます」
「そうか…篝里」
彼の指が木通を持つ手に触れ。
腕に、肩に、首に。そして頬に触れた。
輪郭を確かめるように、ここにいる事を確かめるように。
言葉を交わし、こうして庭に招き入れられてから、彼はこうして体に触れ、名を呼ぶ事が多くなった。
彼の表情からは何も読みとれない。故に何を思っているのかは分からない。
「守り神様。三味線を弾きましょうか?」
「そうだな。頼む」
彼の言葉に頷いて木通を脇に置いて立ち上がる。
濡れ縁から室内に入り、床の間に飾る三味線を手に取った。
彼が珍しく興味を持ち、好きだと言ったもの。
濡れ縁に座り、べん、と撥で軽く弦を鳴らす。
「篝里」
名を呼び、目を細める。
口元が微かに笑みに形取られていくのを視界の端で見ながら、彼の望むままに音色を奏でていく。
父は言っていた。彼に心を許すな、と。
彼の唯一である祖先が、この何処かで眠っているのだからという。記録によれば、祖先は呪いに蝕まれて亡くなったらしい。彼の望む最期ではなかったようだ。
だからいつか取り戻すために、彼はこの庭を造った。そして祖先に適応する者を待っているのだと。
父の言葉は正しいのだろう。彼の尾花色が昏く揺らぐを、何度か目にした事がある。
「守り神様」
だがそれでも。
彼がこの先もこの家を、兄を守ってくれるならば。
兄がこの先も笑っていてくれるのであるならば。
「守り神様。どうか兄をお守り下さい。兄と、兄の血を継ぐ子等が健やかであるよう、お助け下さい」
彼に願う。何度でも。
兄のためになるならば、力のないこの矮小な身でも兄の助けとなるならば。
その為ならばこの命。惜しくなどはないのだから。
20241111 『ススキ』
転校生に連れられ促されて入り込んだ鏡の中は、先の見えない暗闇だった。
視力の落ちた右目を気にしているのだろう。左側にいた親友は繋いでいた手を一度離して右側に移動すると、寄り添うようにして手を繋ぎ直した。
「大丈夫?手を離さないでね」
そう言って、親友は繋いだ手に少しだけ力を込める。
それに頷きながらも、視線は何一つ見えない暗闇の先から逸らす事が出来ない。
「どうしたの?」
心配する親友に、大丈夫だと首を振って答える。
彼女が心配するような事はない。何かが見えている訳でもない。
ただ。何故だろう。
その暗闇を、懐かしいと感じた。
「篝里《かがり》。案内はいらなくなった。その時間も惜しいから、直接繋げるよ」
「分かった」
暗闇の中。男の人の声がする。
聞いた事のあるような。やはりどこか懐かしい気持ちに、そんなはずはないと否定する。
暗闇を怖がる気持ちと一緒。
脳が騙されているのだろう。
脳裏を過ぎた思いに、内心で首を傾げる。
何故そんな事を思ったのか分からなかった。
「二人、なんだな」
「ちょっと訳あり。あれと接触したらしい」
「そうか」
「そういう訳だから、さっさと明るくして話をしてくれない?」
彼女の言葉に、周囲が明るくなる。
「急げとは言ったけれども、焦るのはよくないな」
先ほどとはまた別の男の人の声。
木の格子の向こう側。鎖に繋がれた誰かが見定めるようにこちらを見ていた。
穏やかな、優しい。恐ろしい、視線。
視線が交わる。上手く見えない視界でも、向こう側の彼が驚いたように目を見開いたのが分かった。
「あれと接触したというのは本当かい」
「嘘をつく意味がない。それに否定して切ったのに、目を付けられている」
「俺はその子に聞いているんだけどね」
「声を持って行かれているのに、話せる訳がない」
「玲《れい》」
彼が彼女の名を呼ぶ。
冷たいその響きに、彼女は息を呑んで。
ごめん、と小さな謝罪。
それに頷いて、彼は再びこちらを見た。
「話さなくてもいいから、答えてほしい。あれを近くで見たのかい」
あれ、というのはクガネ様の事なのだろう。
小さく頷く。
「あれの声を聞いたかい」
もう一度頷く。
「あれに触れられたりはしたかい」
首を振る。
直ぐ横を通り過ぎただけで、触れられたりなどはされなかったはずだ。
そうか、と納得したような声が響き。
じゃら、と音を立てながら、彼は格子戸を指さした。
「開けてごらん。今なら開けられるはずだ」
格子戸を見る。鍵は掛かってはいない。
促されるようにして、足を踏み出し。
けれど繋いだ手が戸に近づく事を阻むように、引かれた。
親友を見る。
凪いだ眼に、警戒を乗せて。静かに彼を見ていた。
「危害は加えない。開けられるか否かを見定めるだけだよ」
「開ける事で入れ替わるのに?」
「その子ならば無効化するよ。問題はない」
彼の言葉に、それでも親友の手は離れない。
控えめに手を引く。視線を合わせて、大丈夫だと告げる。
開けられる。
今度こそ。
また脳裏に知らないはずの思いが過ぎる。
それを見ない振りしながら、親友の手をもう一度引けば、小さな嘆息と共に手が離された。
「気をつけて。無理はしないでね」
心配する言葉に笑って頷く。
親友に背を向けて、格子戸の側まで歩み寄り触れた。
「戸を開けて、中に入っておいで」
格子の上から三つ。右から二つ。
下から手を差し入れる。手のひらを押しつけるようにしてゆっくりと力を入れて押し開ける。
さほど抵抗なく開いた戸を潜れば、彼は満足げに笑った。
「上出来だ。記憶になくとも、見定める眼はしっかりしているね。いいよ、おいで。記憶を戻すのと一緒に、声と眼も戻しておこう」
手招かれ、促されるままに彼の元へ近づく。
どこか懐かしい歌。鎖に繋がれた手が、その指が額に触れて。
脳裏を過ぎるのは、小さい頃に繰り返し見た夢。
暗い廊下を黒い男の人に連れられて。その奥にある格子の鎖を、中の男の人に教えられながら一つずつ解いていく、そんな夢。
最後の鎖を解いて。朦朧とする意識の中で聞こえたのは、たしか。
「大きく、なったら。格子戸を」
「思い出したね。そうだ。君は戻って来て、この格子戸を開けられた。合格だよ。俺の後継者」
はっきりと見えるようになった彼の口元が、にんまりと歪んで。
「変態」
「さすがにそれは見ているだけで気持ち悪い」
両方の手を引かれ、視界から男の姿が消えた。
彼女と親友の背が視界を覆い、庇われているのだと知った。
「時間がないと言ったのは藤白《ふじしろ》だ。さっさと話す事を話して、あれを何とかしに行って。あといくつの篝里を作らせる気なの」
「酷いな。後継者なんて今まで現れた事がなかったんだから、喜んだっていいだろう」
彼の言葉を彼女は鼻で笑い。
彼の隣に立つと、くるりと振り返る。
「この鎖に繋がれているのが、君たちが探していた藤白。遠い昔、名前のない不安定な妖を名付けて飼い慣らした、すべての元凶だよ」
酷いな、と笑う彼を一切気にせずに、彼女は話を続ける。
「それで、その後ろにいる黒いのが篝里。あれが呪を求め続ける理由になった、藤白という存在のせいであれに消された被害者」
「あなたは?」
親友の問いに、彼女は心底嫌そうに顔を顰めた。
「藤白の魂の一部を持って生まれた、ただの人だよ。藤白という存在のせいで記憶を継いでるし術を使えるけれど、それだけ。本当に不本意だけど」
はぁ、と溜息を吐く。本当に嫌で仕方がないようだ。
「あれが封印されていた黄櫨《こうろ》さんの躰を攫ったのは、おそらく篝里を作りたかったからだ。僅かに残るよすがと、欠落している大半を呪で埋めたものとを合わせて、新しく篝里を作ろうとしている。かつて藤白を戻すために篝里をそうしたように」
顰めていた顔を淡い笑みに変えて彼女は言う。
そしてその笑みすら消し、真剣な面持ちで告げた。
「少し長いけれど、話をしようか。その間にあれの庭まで、道を繋ぐから」
彼女の言葉に、親友と視線を合わせる。
どちらともなく手を繋ぎ。
彼女達を見据えて、ゆっくりと頷いた。
20241110 『脳裏』
朽ちた廃墟の地下。その奥に隠されるようにして、それはあった。
「兄貴が渋い顔をしてたのは、これか」
「どうする?中に残るものを持っていけばいいのか」
姉の言葉に首を振る。
「あれは本物じゃねえ気がする。おそらく歪に近、いずれた空間にいるんだろうよ」
地上の朽ちた建物とは異なり、形を残す格子に触れる。そこに貼られた夥しい符をなぞり、馬鹿らしい、と嘆息した。
「私には符の意味が分からないが、これは封じているのか?」
「そうだぜ。全部封印符だ。化生、邪魅、妖…とにかく人でないモノをこの座敷牢から出したくなかったらしいな」「意味が分からない。藤白《ふじしろ》というのは、人だと言っていなかったか」
訝しげに眉を潜める姉に、そうらしいが、と曖昧に言葉を濁す。
兄の眷属の少女が視た男を、兄は人だと断じた。
それを縁に今を視た兄に従い訪れた地で、確かに座敷牢はあった。だがその内側で錆びた鎖に繋がれていたのは、干からびた骸。訪れた者の目を欺くために置かれた、紛い物
出立する前の兄の表情と言葉を思い出す。
悩み困惑し、戸惑っているようにも見えた。おそらくだが、と前置きをし、意味のない事となるだろうが、と断定をさけた物言いは、兄にしては珍しいものだった。
「聞いた話じゃ、随分と古くさい術を使っていたみたいだが、この符はそこまで古くはないな。せいぜい三百年前ってとこか」
「今は使う者がいない、滅んだ術だったか?」
「使わないっつうか。使えないってのが正しいな。複雑すぎて、頭がやられる」
縛りがない代償に簡易化が出来ず、術師の負担が大きいが故に廃れた術だ。
「複雑すぎる分、解かれ難い。招かれない限りは会えんだろうな」
「ならば、どうする?」
問う形ではあるものの、姉の中でも答えは出ているのだろう。
ここにいた所で、意味はない。ならば一度兄の元へと戻るのが最良だろう。
「戻るしかなくね?んで、嬢ちゃんとこに来たやつと接触するのがいいと思うけどな。たぶんそいつ、ここの引きこもりに関係する気がすんだよな」
勘でしかない事ではあるが。それでも少女の話と先日の狐の話を聞いて、その娘の使う術がよく似ていると感じたのだ。
今は廃れたはずの、ここにいる男が使ったという古い術に。
「とにかく兄貴達に伝えなきゃな。戻るぞ姉ちゃん」
腕を差し出せば返事の代わりに己の腕に収まる姉に笑いかけ。
暗いその場を後にした。
「ねえ、少しいいかな」
放課後。
控えめに声をかけてきた少女に頷き、了承する。
ほっとした表情を浮かべる彼女に、敢えて気づかない振りをして、要件を待つ。
「一緒に来てほしい所があるのだけど」
少女の言葉に直ぐには答えを返さず。
ちらり、と親友を見て、お互いに頷きあった。
「こちらの条件を呑んでくれれば、いいよ」
「条件?」
少女の表情が訝しげなものへと変わる。
条件を出されるとは思っていなかったのだろう。
有無を言わさずの行動ではなかった事、条件に心当たりがまったくなさそうな事。
彼女は違うのだと確信し、内心で安堵する。
親友に目配せをする。頷き親友が机の上に置いた小さな箱を見て、少女の顔色が変わった。
「これを何とかしてくれるなら、一緒に行ってあげるよ」
「なんで、これ」
少女の手がゆっくりと箱の蓋を開ける。
収められていたのは、瑞々しい藤の一房。枯れる事のない、季節外れの花。
開ける前から予想はしていたのか、少女は項垂れて小さく、誰が、と呟いた。
「曄《よう》に送られてきた。誰が送って来たのかは分からない。曄が親戚に連絡しても誰一人繋がらなかった」
「だろうね。あれが動いてしまっているんだ」
はぁ、と嘆息し、少女は顔を上げた。
少し迷うように視線を揺らして、言葉を探すようにゆっくりと話し出す。
「悪いけれど、意味がない。どうにか、は出来る。でも同じ事が繰り返されるはず。それくらい、あれと君は距離が近くなってる。声が出し難いでしょう。それと、右目も少し視力が弱くなっているね」
「分かるんだ」
「そりゃあね。最初にしっかりと否定して、切ったと思ったんだけどな」
小さく首を傾げ。ごめんね、と少女は親友に謝罪をした。
「私と縁が繋がると、あれが寄ってくると思って繋がりはないと否定したんだ。意味はなかったみたいだけれどね。もしかして、あれと直接会った事がある?」
「あれが誰かによるけれど、もしも曄の叔父さんの家にいる守り神だったナニかなら、私達は夏に会った事がある、らしいよ」
少女の顔が歪む。
「それ、最初に言ってほしかった。繋がるのを嫌がって否定した私が言えた事じゃないけど。でもそれなら余計に今は何をしたって意味がないよ。根源を何とかしないと」
「そう。何とか出来る?」
「何とか出来るというか、何とかさせに行く。時間がないな。今から一緒に来てくれる?」
不安を乗せて尋ねられる。
この話の流れで、今更断ると思われているのだろうか。
それこそ意味のない事だと、苦笑した。
「いいよ。逆にここで断ると思う?」
「いやだって。別件でちびたちが色々とやらかしてるからさ」
「あぁ、そう言えばそうだったね。それについても行きながらでいいから話してほしいな」
話を聞いていた親友と視線を合わせ、立ち上がり。
右手を親友と繋ぎ、左手を少女に差し出した。
20241109 『意味がないこと』