sairo

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11/8/2024, 3:52:03 PM

暗く先の見えない回廊。
手にした提灯と、側に佇む黒を身に纏う男を視界に入れ、少女は不快に顔を顰めた。

「来たか、」
「問答をする気分じゃない。要件だけ聞いて帰るつもりだよ」

男の言葉を遮り、この場に訪れた事が不本意だと言外に匂わす。舌打ちをして、少女は手にした提灯を放り投げた。
唯一の灯りが消える。辺りが暗闇に閉ざされる。
己の姿さえ見えない程の闇に、それでも少女は狼狽える様子はなく。その闇すら煩わしいと、声を上げた。

「無駄に時間を費やすつもりはないから。さっさと出てきなよ」

ぼっ、と。
少女の言葉と同時。周囲に灯りが点る。
目の前に続く回廊は姿を消し、代わりにあるのは格子に区切られた座敷牢。
その奥。四肢を鎖に繋がれた男を認め、少女は不快さを隠しもせずに睨めつけた。

「それで?要件は何?」
「酷いな。久しぶりに会えたというのに」
「会わなくても見えてるんだから、会う必要性を感じない。早く要件を言って」

取り付く島も無い少女に、鎖で繋がれた男は楽しげに笑う。
それに舌打ちをして顔をさらに顰め。苛立つままに少女は男に背を向けた。

「帰る。ただ遊びたいなら、他を呼び寄せればいい。わざわざ会いに来たのがいたんだから、会ってやれば?」
「それの話をしようとしたんだ。待ってくれないか」

はぁ、と溜息を吐き。少女はようやくか、と振り返る。

「何?会わなかったのを後悔でもした?」
「まさか。判断材料が足りないんだよ」

笑みを消し、男は少女を見据える。
少女もまた不快に歪めていた表情を消して、その目を真っ直ぐに見返した。

「君は俺に何を望む」
「さっさといなくなってほしいかな」

男の言葉を少女は鼻で笑い、嘯いた。
それ以上の言葉を交わす事は無く。
沈黙。互いの真意を測ろうと、視線を逸らさず表情もなく見つめ合う。

くすり、と。
静寂を破り、少女の口元が歪んだ。

「まあ、冗談だけど。でもあれを放置していた責任は、取ってほしいとは思ってる」
「それはそうだけどね。俺は今、ここから出られないから」
「選り好みするからだ。自業自得」

言外に無理だと告げる男の言葉を、少女は呆れを滲ませ突き放す。だが男が安易に出れぬ理由を知るが故に、視線が迷い揺れ動いた。
それを見て、男が腕を伸ばす。
じゃら、と鎖が音を立て。その腕はしかし、格子にすら届かない。

「白《しろ》」

男が呼ぶ。その名に少女は顔を顰めて首を振った。

「やめて。もうその仮の名は捨てたんだから」
「そうだったね。――玲《れい》」
「…何?」

改めて呼ばれた名に、少女はおとなしく答える。
思う所はあるものの、これ以上は時間の無駄になるだけだ。
それを知って、男も敢えて話を引き延ばす事をせずに少女を手招いた。
格子の手前まで歩み寄り、少女も手を伸ばす。男の手に自らの手を重ね、目を閉じた。



「あぁ、そういう事か」

触れた手を通して見えたものに、男は納得したように頷いた。
手を離せば、さりげなく服の裾で手を拭う少女に苦笑しつつ。玲、と少女の名を呼んだ。

「いいよ。連れてきてくれたなら会ってあげよう。その子が俺を出してくれるというなら、あれの所に行ってもいいよ」
「連れてくるのはちょっと。警戒されてしまっているだろうし」

顰めた顔を僅かに曇らせ、少女は言葉を濁す。
好かれてはいないのだろうと思う。特にこの場所に来る前に起こった事を考えれば、好かれる要素は何もない。
好かれぬ者に誘われたとして、果たして来てくれるものだろうか。

「そこはどうにでもなるだろう。俺を探しているのだろうから、素直に話せばいい」
「そう単純な話じゃない。ちびたちがやらかした事を考えると、話すら聞いてもらえない可能性がある」
「だが俺と縁が繋がっていないのだから、招き入れる事は出来ないよ。他に方法はないだろう」

そうだけど、と煮え切らない態度の少女に、男は目を細め。
見定めるその目に、少女は分かった、と力なく頷いた。

「誘いに乗るかは分からない。それでも何とか入り口までは連れてくるよ。その時は篝里《かがり》に案内を頼む」
「仕方ないな。それでいいかい」

振り返り声をかければ、いつの間にか男の後ろにいた黒を身に纏った男が小さく頷いた。
黒の男の同意を得られた事で、小さく安堵の息を吐き。
少女はどこか疲れたような顔をしながら、帰る、と背を向けた。

「分かっているとは思うけど、急いでくれ。時間はあまりない」
「はいはい。分かってるって」
「本当に分かっているのか。まったく。君はもう少し俺の意識を持つべきだと思うんだけどね」
「いやだよ」

男の言葉を否定する。
振り返る事もせず、いやだ、と繰り返した。

「別れたものは一つにならない。戻る気もない。今回の事がなかったら、こんな湿っぽい所になんかくるはずもなかったんだ。それを忘れないでよ、藤白《ふじしろ》」

男の意識も意思すらも、今はもう関係はない。
今回は特別なのだと、念を押して。

じゃあね、と投げやりに声をかけ、少女の姿が掻き消える。
その姿を見送って。仕方がないな、と男は小さく笑みを溢した。



20241108 『あなたとわたし』

11/7/2024, 11:35:36 PM

雨の音がした気がして、顔を上げた。
激しくはない。静かな心地の良い音。
読んでいた本に栞を挟んで閉じる。
立ち上がりカーテンを開ければ、糸のように細い雨が降っているのが見えた。
窓を少しだけ開けて腕を出す。優しく腕を濡らす冷たい水の感覚に目を細めた。
涙雨。ここではないどこかで誰かが泣いてでもいるのだろうか。
腕を戻して窓を閉める。カーテンは開けたまま。
椅子に座り直すものの、本の続きを読む気も、濡れた腕を拭う気も何故か起きなかった。

ぼんやりと、ただ窓の外を、降り続く雨を見る。
滲む景色の向こう側。白い何かが横切ったように見えて、目を凝らす。
ちらちらと、白が揺れている。踊るような、揺蕩っているような、ここからでははっきりと見る事の出来ない白が視界にちらついて。


気づけば、その白に誘われるようにして、部屋を出ていた。




「あぁ、来てしまったか」

ぱしゃん、と跳ねた水音に振り返る男の姿を認め、立ち止まる。
懐かしい、その見慣れた姿。忘れていくだけの遠い過去。

「法師、様?」

尋ねる声に男は何も答えず、ただ淡く微笑んだ。
その横を、ふらふらと白い髑髏が通り過ぎる。
ふらふらと。ゆらゆらと。
波に揺蕩うように自由に白が宙を彷徨う。けれどその眼窩はこちらを向き、逸らされる事はない。
手を伸ばす。
今なら、触れられるような気がした。

「やめておくといい。切り離された縁を再び繋げる意味はどこにもないだろう」

けれどその行為は、穏やかな声に窘められ。
否定する理由も見つける事が出来ず、諦めて腕を下ろし俯いた。

「怪我をしたのか。大事ないか」

頬の傷を指摘され、首を振る。

「皆、は?」
「問題ない。求めていたのはこの子のようだからな」

髑髏の事だろうか。見えてこない彼らの目的に、混乱してくる。
何故、この場所を知っていたのか。
何故、髑髏を求めたのか。
呪いを解くとは何を意味していたのか。
彼らは一体何なのか。

分からない事ばかりだ。


「この子も大分落ち着いたようだな。そろそろ戻らなければ」

男の言葉に徐に顔を上げる。
漂っていた髑髏が男の腕に収まり、やはりこちらに顔をむけたままで、口を開いた。

――雨ハイイ。特二静カナ雨ガイイ。今ノコノ柔ラカナ雨ハ心ヲ鎮メテクレル。

かたかたと下顎を動かせば、声もないのに言葉が入り込んでくる。

――落チ着ケ私ダッタ者。コノママ泣イテイタノデハ引キ摺ラレテ沈ム。ソレハ勿体ナイダロウ!

かたかた。楽しげに髑髏が語る。
さあさあ。優しい雨が降り続く。

音が響く。言葉が入り込む。
不快ではないそれらに、心に溜まっていた不安が少しずつ溶けていく。

――戻ルトイイ。目ガ覚メテイル頃ダ。

誰が、とは敢えて聞かなかった。
分かった、と頷いて目を閉じる。

さようなら、と声には出さずに呟いた。





「彩葉《あやは》」

頭を撫でられている心地の良い感覚に、意識が浮上する。
目を開けて、体を起こす。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

「目が覚めましたか。彩葉」

雨のように静かで柔らかな声に呼ばれて視線を向ければ、ベッドで身を起こし微笑む住職と目が合った。

「っ住職様!」

微睡んでいた意識がはっきりして。
思い出す。たくさんの赤を。
暗い赤。鮮やかな赫。夕日の空に似た朱色。

「怪我は?起きていて大丈夫っ?」
「落ち着きなさい。怪我は大した事はないのです。それよりも」

彼の目が痛ましいものに変わる。頬に張られたガーゼを傷に触れない程度に、指先が軽く触れた。

「怖い思いをしたのでしょう。申し訳ありません」
「わ、たしは大丈夫だから。こんなのかすり傷だし」

傷は深くはない。血もすでに止まっている。
それでも不安そうな親友を落ち着かせるため、彼女の好きにさせていたら、こんなに仰々しい手当をされてしまっただけの事だ。

「住職様が無事でよかった」
「心配をおかけしました。ですが、彩葉は何故ここに?」

彼の疑問はもっともだ。けれど何と答えたらよいのかを迷う。
見た夢を話せばまた心配をかけてしまう事だろう。
それでも夢の内容を話さず伝えるのは難しい。

「怖い、夢を見て。それで、夢だって分かってたけど、怖くなって。行っても意味ないって思ったけど、どうしても確認しなきゃって思って」

要領の得ない説明になってしまうが、住職は笑ったりせず、静かに話を聞いてくれる。

「それで、その。友達に話したら、一緒に来てくれるって言ってくれたから、それで」
「彩葉」

静かな声に呼ばれた。
雨のように柔らかく優しい声音。
穏やかで強い目に見つめられ、誤魔化す事は出来ないと悟る。結局はどうしたって心配をかけてしまうのだ。
それならば、隠し事を彼にだけはしたくはなかった。

「あのね、住職様。夢を見たの。水の底で微睡んでいる髑髏と法師様の夢」

苦笑して、話し出す。
夢の事。現実の事。
そしてさっき見た夢の話。

話しながらちらりと横目で見た窓の外は、澄み切った青空が広がっている。
雨どころか、雲一つない晴天。

泣き止む事が出来たのか、と他人事のように思いながら。
戻ってこれた事に、素直に安堵した。



20241107 『柔らかい雨』

11/6/2024, 11:05:57 PM

暗い水底で微睡んでいた。
目を開けたとて、見えるものは何もない。そも見るための目も、開けるための瞼もなかったと気づき、内心で笑った。

とても静かだ。
ここには鮮やかな色彩も、煩わしい喧噪もない。分かるのは身に纏わり付く水の感覚と、己を抱く男の腕。
優しい男だ。それでいて他の誰よりも哀しい男であった。
ここで眠る誰もが口をそろえて答えるだろう。
そこにどのような理由があれど、男が皆/己を慈しみ、掬い上げてくれた事には変わらない。男の愛する者と共に行くという選択肢もあっただろうに、こうして皆/己の慰めとして沈むくらいには。

穏やかな意識の端で、取り留めのない事を考える。
欠落を抱えた満たされない飢餓感も焦燥も凪いだ今、戯れのように思うのはそんな些細な事ばかりだ。時間という概念すら曖昧な水底で、満たされた思いは呪を歌う事もなくただ揺蕩い、微睡み続けている。

少し眠ってしまおうか。
男の腕に身を預け、心地良さに意識が沈む。そのまま抗う事もなく、静かに、眠りに。

――光が差した。

一筋の、だが暗い水底では眩いほどの光が差し込んだ。
時折地上から降りる淡い光の珠ではない。真っ直ぐな刃の燦めきにも似た光。
誘われるようにして、男の手が伸びる。
光とは救いだった。水底に縛られ続ける皆/己を掬い上げ、還す事の出来る唯一のもの。
以前より光の珠を集めては皆/己を還していく男が、光に手を伸ばすのは可笑しな事ではない。
いつもの事。いつもとは違う光。

――呪の歌が響く。

波紋が鎖となって、男の腕を掴み留める。
背後の男が、息を呑んのが振動で伝わった。
今まで呪を歌う事なく微睡んでいた髑髏が、前触れもなく歌い出したのだから無理もないのかもしれない。
皆の困惑が伝わってくる。己のこの行為を、己自身すら分かっていない。

だが。しかし。
何故か何処かで警鐘が鳴っていた。





獣道を駆け上がる。
すぐに息が切れる脆弱な自分の体が恨めしい。

ただの夢だ。それは分かっている。
それでも、夢だからと一笑に付してしまうには、あまりにも怖い夢だった。
行った所で意味はない。出来る事など何もないと分かっていても、急く足はあの池へと向かってしまっていた。

「あーちゃん!もう少しだから」

息が切れ、足が縺れて転びそうになる度に、前を行く親友が手を引き踏み止まらせる。不安と諦めとが混ざり、混乱する思考を前へと進ませる。

そうして辿り着いたその場所に、夢だけでは見えなかった怖いものが何であるのかを知った。

「っ、住職様!」

傷だらけで倒れている住職に駆け寄る。抱き起こせば微かに息はあるものの、流れる赤と戻らぬ意識に不安が押し寄せる。

「まだ死んじゃあいないぜ。それに邪魔をするそっちが悪い」

知らない声に顔を上げる。
池の前。四人の子供達が何かをしているのが見えた。

「何、してるの」
「別に。呪いを解いているだけだ。悪い事ではないだろ」

呪いを解く。
意味が分からず、それでも止めなくてはと立ち上がりかけ。
その瞬間、頬を冷たい何かが掠めていった。

「あーちゃん!」

側で様子を伺っていた親友が、庇うようにして前に立つ。
頬に触れれば、ぬるりとした感触。ちり、とした痛みに、切られたのだと分かった。

「終わるまでおとなしくしてろよ。つか、ちびすけ。まだ終わんねぇの?」
「糸を取らないんですもの」
「警戒されてしまっているんですもの」
「深すぎて、よく見えない、から、糸をかけるの、難しい」

親友の背に阻まれて、彼らが何をしようとしているのかは見えない。けれど会話の内容から、良くない事だと直感的に感じた。
親友も何かを感じたのか。彼女の足が一歩、前に出る。

「紺《こん》、駄目っ!」

嫌な予感に立ち上がり彼女の手を引く。
だが遅い。手を引く瞬間に、彼女の背越しに見えたのは、舌打ちをする少年と白の光の線。
彼女に向けて投げられたナイフが、彼女を。


「止めて下さいな。ワタクシの紺に傷をつけようなどと」

目を灼く赫の炎。
親友を守る壁のように燃え上がり、ナイフを呑み込み跡形もなく消える。

「下がりなさい、紺。そこで倒れている男の側でおとなしくしていなさい」
「狐さん」

炎を纏い現れたのは、朱色の毛並みをした大きな狐。
親友が安堵の笑みを浮かべ親しげに呼ぶ様子から、この狐が彼女の大切なモノなのだろう。
掴んだままの手を改めて引く。こちらを見る親友を促して、住職の所まで数歩下がる。
邪魔になってはいけないと、本能が告げていた。

「邪魔なのが出てきたな。別にいいけどさ」

地を蹴り、距離を詰める。流れるような動きで手にしたナイフを狐の喉元へ突き刺すが、それよりも速く狐の裂けた尾の一つが少年の体を横殴りに飛ばした。

「面倒くさい尻尾だな。じゃあ、こうするか!」

宙で回転し、勢いを殺さず無数のナイフを狐に投げつける。
しかしナイフが狐に届く事はない。振った尾から現れた炎がすべてを呑み込み消していく。
とん、と少年が地に降りる。その表情に焦りはない。
また一つナイフを投げ。炎がそれを呑み込み。

だがナイフは消える事はなく、炎を纏ったままに狐の尾に突き刺さった。

「狐さん!」

駆け寄ろうとする親友の手を強く握り、引き止める。行った所で足手まといになるだけだ。それを分かっているのだろう。手は振り解かれる事はなく、小さなありがとう、の言葉と共に側に寄り添うようにして座り込んだ。

「少しは楽しめたけど、まあこんなもんか。案外あっけないな」

にやり、と少年の口元が弧に歪む。幼い外見に似つかわしくない鋭い眼が狐を見て、そしてその背後にいる自分達を見た。
視線が交わる。少年の口元がさらに歪んだ。
狐の尾が少年の視線から隠すようにして振られる。現れたいくつもの炎の玉は少年へと向かい。

「馬鹿なやつ。獣だから頭は良くないのか」

その言葉と同時に。炎の玉が炎を纏ったナイフへと変わり、そのすべてが向きを反転させた。
そのまま狐の尾に、体に深く突き刺さる。
ぐらり、と傾く狐の体を、親友と二人声も出せずにただ息を呑んで見つめていた。



「愚かなのは、果たしてどちらなのでしょうね」

静かな、それでいて澄んだ響きの声。
少年から笑みが消え、訝しげなものへと変わり。一つ遅れて複数の悲鳴が聞こえた。

少年よりも奥。池のすぐ側にいた二人の幼い少女達が悲鳴を上げている。
少女達の間には、目の前の少年よりもさらに幼い少年。その背には燃えるナイフが突き刺さり、音もなく静かに崩れ落ちていく。

「晴《はる》っ!」

振り返りその様を見た少年が、叫ぶようにして崩れた少年の名らしきものを呼ぶ。地を蹴り、素早く彼の元へと走り寄った少年の手は、けれど彼に触れる事はなかった。

「ぐ、ああぁあ!」

赫の炎が少年を焼く。
背を、腕を、足を、頭を。赫が覆い、見えなくなってしまう。
悲鳴が響く。泣く声がする。あぁ、と声にならない呻きが溢れ落ちた。


「はいはい。そこまでにしてよ。ちびたちは幼いからね、まだ良い事と悪い事の区別がつかないんだ」

知らない声。
いつの間にか現れたのは、自分達とさほど年頃の変わらない少女。
目の前の惨状など一切気にせず、子供達の方へと歩いて行く。

「それで納得は出来ぬと分かっているでしょう」

狐が少女に声をかけ、少女の足が止まる。

「そうだね。じゃあ、おちびが怪我をさせた人の手当で妥協してくれない?」
「必要ありません。そこのもどき等を回収してもらうのが最良だと言われております」
「もどきって。おちびたちはまだ人なんだけど」

呟く少女の表情からは何も読み取れない。
目の前の光景に一切取り乱す事なく、戸惑う事もなく狐と話をしているその姿は、とても異様で小さく体が震えた。

「今回は完全にこちらの落ち度だからね。おとなしく言う事を聞いておくよ…ほら、帰るよちびたち。様子見だって言ったのに、何してんのさ」

子供達へと歩み寄り、声をかける。
泣く少女達が側に来た彼女の姿を認めて、抱きついた。

「あるじさま!」
「晴が、嵐《あらし》が!」
「わたしたちがわがままを言ったから」
「失敗したの何とかしようとしたから」
「分かってるよ。大丈夫。それに二人とも問題ないよ。そうでしょう?」

振り返らずに少女が声を上げる。
何がとは言われずとも彼女が言いたい事を理解して、狐は尾をゆるり、と振った。
炎が消える。
少年達の焼かれた跡も、刺された跡も何一つなく。
まるで夢でも見ていたみたいに。

「ほらね。全部あちらは知ってたし、こうなる事も分かってた。嵐、起きてるでしょ。晴をつれて戻るよ」
「師匠。悪ぃ」

炎に焼かれていたはずの少年が起き上がり、少女に小さく謝罪をすると、倒れているもう一人の少年を抱き上げる。

「あちらの眼は本物だからね。仕方がない事だよ。さ、早く帰ろうか。水と鏡は繋がっているから、帰り道は水の先だよ」

彼女の言葉に反応して、池の水面が緩やかに盛り上がる。
高く上がった水は左右に広がり。言葉通りに、水の先の景色がどこか暗い室内を映し出す。

「それじゃあ、帰ろうか。痛くて怖い思いをさせてごめんね」

振り返り、こちらに視線を向けて彼女は謝罪する。
申し訳なさそうなその顔に何も言えずに、ただ首を振った。
小さく笑う。そして子供達を促して、水の中へと足を踏み入れ、姿が消える。
ばしゃん、と重力に従って水が落ちる。その音にはっとして、繋いでいた親友の手を離した。

「狐さん、大丈夫」
「問題ありませんよ。傷もありませんしね」

狐の姿が揺らめいて、狐から人の姿に変わる。
以前親友に連れられて行った、神社の宮司の姿。彼女の、大切な人。
その姿には、刺されたはずのナイフの傷はない。

「狐は化かすのが得意なのですよ。それよりも、アナタ様の傷とそこの男の傷の手当をしなくてはいけません」

彼の言葉に、未だに意識が戻らない住職に触れる。
暖かい。その温もりに安堵する。

「傷は深くはありませんから、心配はいりませんよ。先ほどは紺を止めて下さりありがとうございました」

ふわりと微笑んで、住職を抱き上げる。
お礼の言葉には、ただ首を振る事しか出来なかった。

「あーちゃん、いったんお寺に行こう?あーちゃんの傷も手当てしないと」
「うん。そうだね」

親友に促されて立ち上がる。
子供達が何をしたかったのかは、結局分からないままだ。

不安に押しつぶされそうな気持ちを誤魔化すように。
差し出された親友の手を取り、心配する彼女に向けて大丈夫だと笑ってみせた。



20241106 『一筋の光』

11/5/2024, 4:29:52 PM

黄昏時。校内の一角で。
花の咲かない一本の椿の木は、ただ静かにそこに在った。

手を伸ばし、葉に触れる。艶めかしく硬い濃緑色が騒めき、手に小さな白椿の蕾を落とした。

「花?」

首を傾げ椿を見上げる。変わらずそこに花は一輪も見えず。
ただ控えめに葉を騒めかせるその様は、何かを訴え続けているようにも見えた。
手のひらの小さな蕾を見つめ、指先で軽くつつく。硬く閉じた蕾が花開く事はないのだろう。けれどその白は記憶にはない懐かしさを思い起こさせ、唇が笑みを形取る。
促されるようにして目を閉じ、そのままその白に唇を触れさせた。


ざわり、と風が葉を揺らした音がした。
ざあざあと、たくさんの木々が騒めいている。
体に風を纏う感覚。花の香が鼻腔を擽り、心地良い。
目を開ける。そこに椿はない。
空が近く感じる。どこまでも続く澄んだ青に、目を細めた。
これは、今見ている眼は鳥のものだ。
椿の花を通して、鳥の眼で見ている。
何処へ向かっているのか。迷いのない視線はある一点だけを見ている。只管にそこへ向かって飛び続けている。
次第に高度が下がり、木々が近くなる。目的地が近いのだろう。木々の間を抜け、奥を目指す。

そして。
視線の先、一人の男の姿を捉えた。
振り返る男が差し出す腕に、勢いを殺して静かに止まる。

「また来たのかい?物好きだね」

ふわりと微笑う男が出したもう片方の手に、咥えていた何かを落とす。
かさり、と軽い音。
藤の一房。

「どこから採って来たのやら。あれの庭でない事だけは確かなようだけど」

房をつまみ、懐かしさのような哀しさのような複雑な感情を浮かべて男が呟く。
ふふ、と小さく声を漏らし。止まり木にしていた腕を軽く振って、空へと放たれた。

「折角だ。ありがたくもらっておくよ。あの子の慰めにでもしよう。君もそれを望んでいるんだろう」

近くの枝に止まり男を見るが、これ以上話すつもりはないのだろう。背を向け男は歩き出す。
しかし、ふと何かを思ったのか、立ち止まり振り返る。

「俺の扱いに困った周りが、俺を封じるために動きだしているからね。そろそろ次の止まり木を見つける事だ。いくら待とうと、あの子はもう目覚める事はないし、還る事すら出来はしないのだから」

あの子とは誰の事だろう。
疑問に思えど、男はそれだけを告げて今度こそ足を止めずに去ってしまう。
その後ろ姿をただ見つめていた。


眼を閉じる。
空気が変わる。木々の、花の匂いではなく、冷たく湿った匂い。
風が澱んでいる。ぬるくざらついた不快な風が、背を撫で上げ去って行く。
眼を開ける。そこには椿も木々もない。
視界が低い。横たわっているのだろうか。霞む視界で見えるのは黒い地面と木の格子だけだ。

「何をしているんだ、まったく」

背後から声が聞こえた。
先ほどまで聞いていた、男の声。
視界が揺らぐ。大きく咳き込んで、光る欠片を吐き出した。
小さな欠片。炎に似た揺らめく光は、砕けてしまった魂のそれ。

「あれの庭に行ったのか。欠片を取りに」

じゃら、と金属の擦れる音。
背後から伸びた手が、欠片を取り上げ戻っていく。

「馬鹿だな。足りないよ。これだけではあの子になるはずもない」

まだ足りないのか。
もう一度飛べるだろうか。
翼に力を入れるが、僅かにも動く様子はない。そもそもまだ翼は残っていたのだったか。
頭を擡げて確認しようにも体は重く、視界は少しずつ霞んでいく。

「無駄だよ。残るものは殆どない。時期に終わるその命ですら、終わった瞬間に砕けてしまうのだろうね。あの子のように」

そうか。終わってしまうのか。
他人事のように考える。霞み見えなくなっていく視界で、せめて、と男を探した。

「馬鹿だね。そこまでして逢いたいのか。それならば、あの子の足りない部分を君で埋めてみるかい」

じゃらり、と金属の音がして。
視界がぐるり、と変わる。抱き上げられたのだと知ったのは、男の泣くように笑む顔が見えたからだ。
手が瞼に触れる。視界が黒に染まる。

「あの子と君と。一つにした所であの子になる訳ではないけれど、このまま消えてしまうよりはいいのだろう。君にとっても、あれにとっても」

淡々とした男の声。
本意ではないのだろう。だがこのまま無駄に消えていく生を捨て置く事も出来ない程には優しいのだろう。
願ってもない事だ。声も出せぬ身であるが是と答える。

「仕方ないね、まったく。じゃあ、お休み」

柔らかな声。口遊むのは呪いか、慰めの歌か。
どこか懐かしい、それでいて哀愁を誘う旋律に、身を委ねて。
そして、眼を閉じた。





「黄櫨《こうろ》」

聞こえた声に目を開ける。
変わらぬ暗闇と触れている熱に、目を塞がれているのだと知る。

「神様」

彼を呼ぶ。名で呼べと言われてはいるが、どうしてもそう呼んでしまうのは、きっとその呼び名が馴染んでしまっていたからなのだろう。
目を塞ぐ手を外される。目の前に椿。手のひらには、開いた椿の花。
そして、藤の花びら。
役目を終えたかのように、花は光となって消えていく。

「椿に呼ばれた気がしたの。椿が視せたものを、神様も視た?」
「あぁ、視た。よくやったな、黄櫨」

頭を撫でられる。心地よさに目を細めて。
気づけば、最後に聞いた旋律を口遊んでいた。

「古い術だな。異なる二つを一つにし、新たに作り上げる。そういう術だ」
「どこか哀しい旋律だね」
「哀しかったのだろうよ。あの男は。己が封じられる事よりも、目の前で失う事がよほど哀しかったのだ」

そっか、と呟いて目を閉じる。
背後の彼に身を預け、旋律を口遊んだ。

「案ずるな。お前の躰は必ず取り戻す。小娘の言う声とやらも切った。あの屋敷に近づきさえしなければ、二度と聞こえまい」

答える代わりに、撫でる手を取り擦り寄った。
椿の意図が見えない。
彼が理解したものが分からない。
封印されたはずの元の躰が何処へ行ったのか。誰が何の目的であんな呪の塊を持って行ったのか。
彼は何一つ教えてはくれなかった。
哀しい訳ではない。ただ、知らない所で大切な誰かが傷つくのが怖かった。

「一つ誤れば、禁術の類いとなるだろうものも、黄櫨が歌えばすべて祈りに変わるのだな」

微かに驚きを滲ませた声音に、目を開ける。
椿が咲いていた。

咲き乱れる白椿。
陽の落ちた暗い空に昇る、いくつもの小さな光。

その光を、椿を、懐かしいと感じた。
胸を締め付ける切なさに、何故か無性に泣きたくなった。



20241105 『哀愁を誘う』

11/4/2024, 9:44:49 PM

暗闇の中、幼い泣き声が響く。
部屋の奥に置かれた姿見の前で、鏡に寄り添い幼い少女が泣いている。よく見れば少女の手や頬には刃物で斬られたような一筋の線が走り、手や頬を赤に染めていた。
鏡に映る少女の姿はさらに傷だらけだ。指はいくつかなく、頬の傷は耳にまで達している。
はらはらと涙を溢して少女はしゃくり上げる。鏡越しの自分と手を重ね、その傷を痛みを共有するように新たな赤が溢れ落ちる。


「おちび」

いつの間にか、少女の背後に立つ人影が声をかける。
少女よりは大きく、けれども大人というにはまだ幼さが抜け切れていない。低めではあるが、女性特有の柔らかな声音に、鏡に寄り添う少女だけが振り返る。

「あるじさま」
「ごめんなさい、あるじさま」

鏡の前の少女と、鏡に映る少女が口々に人影に向かい謝罪する。それには言葉を返す事なく、人影は少女の側に寄ると、傷だらけの手を取り頬に触れた。

「また派手にやったね。でも全部ただのかすり傷だ。こうして触れば傷跡一つ残らないよ」

触れる指先が傷をゆっくりとなぞり上げる。触れる痛みに少女の眉が寄るがそれも一瞬。手が離れれば、そこに残るものは何もなく。

「ほら大丈夫。おいで、次はキミの番だ」

鏡に向けて手を伸ばす。その手に鏡の中の少女が手を重ねれば、人影は鏡に手を沈め少女の手を掴み引いた。ずるり、と鏡から出た少女に笑いかけ、人影は先ほどしたように頬と手に触れた。

「いくつかなくなっている気もするけど、気のせいだよ。全部かすり傷。触って離れたら元通りさ」

その言葉の通り、頬から耳にかけての傷は人影の指がなぞり上げた側から消えてなくなり。欠けた指も頬の傷から離れた手と触れていた手に包まれて。その両の手が離れた時には欠けていた事などなかったように、小さな五本の指が離れた手を追いかけて、服の裾を控えめに掴んだ。

「ありがとう、あるじさま」
「でも、ごめんなさい」
「永遠の呪いをほどく事が出来なかったわ」
「紐が切られてしまったわ」
「仕方がないよ。相手が悪い」

二人となった少女を宥めながら、鏡を見る。
そこに少女達の姿はおろか、人影の姿さえ映ってはいなかった。
鏡の縁に触れる。見つめた所で、そこには誰の姿もない。

「まだ戻っていないのね」
「あれからずっと戻ってないのね」
「大丈夫かしら」
「迎えに行った方がいいかしら」
「心配だわ。何もないといいのだけれど」
「怪我をして動けなくなっていないといいのだけれど」
「こら。不用意に言葉を紡がない」

窘めれば、不安を口にしていた少女達が、ごめんなさい、と口々に謝罪する。
まったく、と声に呆れを乗せた人影は、それでも鏡から視線を逸らす事はなかった。
それは鏡を通して何かを見ているようでもあり。何かを待っているようでもあった。

不意に、鏡が水面のように揺らめいた。
波打つ鏡面が次第に明るいどこかを映し出す。
室内ではなく、外のようだ。木と花と古めかしい屋敷。
べん、と弦の音。屋敷の濡れ縁で誰かが、三味線を。

ぴしり、とひび割れる音。
明るさが消え、一歩下がったその瞬間に、鏡が粉々に砕け散る。
きゃあ、と悲鳴が上がる。慌てふためく少女達に、大丈夫、と声をかけながら、人影は砕けた鏡の破片を見つめていた。
「師匠。なんかすっごい音したけど、どした?」
「何でもないよ。鏡が割れただけ」
「鏡が割れたって、それ結構大変じゃん」
「危ない。割れるの、触るのは駄目」

鏡が割れた音を聞きつけたのだろう。扉が開き、手を繋いだ少年達が入ってくる。
一人は割れた鏡の破片に顔を顰めながら、少女達をその場から離し、もう一人は人影の手を控えめに引いた。

「大丈夫だよ。鏡は割れるものだ。それでいて、流動するものでもあるからね。一晩経てば元通りになるよ」

人影の言葉に、鏡の破片がかたり、と音を立てた。
かたり、かたりという硬い音は、次第にぴしゃり、ぱしゃん、と液体のような音に変わり。音を立てながら破片は一つに纏まって、鏡の中に吸い込まれていく。

「相変わらず、師匠はすげぇよな」
「当然よ。あるじさまだもの」
「あるじさまは素敵ですごいのよ」

鏡が修復されていく様に思わず吐いて出た少年の言葉に、少女達が自分の事のように胸を張る。それをはいはい、と適当に流しながら、少年はそのあどけない姿には似つかわしくない強く鋭い眼をして、人影に笑いかけた。

「で?どうする、師匠。ちびすけが失敗した呪いを解きにまた行くなら、今度は一緒に行ってやってもいいぜ」
「いや、いいよ。必要ないって言われたなら、これ以上は手を出せない」

約束だから、と呟けば、約束か、と冷めた声が返る。
くすり、と笑う声。

「しばらくは様子見かな。こちらから積極的に動く必要はないし、まだ全部が未確定だ。あちら次第ではあるけれど、ごっこ遊びばもう少し続けられそうだよ」

人影の言葉に、それぞれが笑い頷く。
愉しそうに、互いに寄り添い嬉しそうに、幸せそうに。
口元だけで笑みを浮かべた少年が、引いていたままだった人影手と手を繋ぎなおす。
もう一人の少年は、そんな少年の空いていた手と繋ぎ嗤う。
同じ顔した少女達は互いに手を繋いだまま、きゃらきゃらと笑い人影に抱きついた。

「相変わらず、甘えただね。ちびたちは」
「あるじさまが大好きだもの」
「あるじさまと一緒が嬉しいもの」
「師匠と姉弟ごっこするのは結構愉しいぜ」
「おねえちゃん、呼ぶのは、好きかも」
「本当に物好きだね」

呆れを乗せた声は、それでもどこか優しさを含み。
少年少女達に促されるままに部屋を出る。


誰もいなくなり、静かになった部屋の奥。
割れたはずの鏡が、水面のように波紋を一つ音もなく起こした。



20241104 『鏡の中の自分』

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