sairo

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9/26/2024, 11:40:45 PM

この窓から見える景色が、彼女のお気に入りだった。

窓枠に手をつき、外を見る。
外は生憎の雨。重苦しい曇天が、音を立てて振る雨が視界を狭め、憂鬱な気分を連れてくるようだ。
ゆるりと頭を軽く振って、窓から離れる。彼女ではない自分には、この景色のどこに惹かれたのかは分からない。

――この窓を通して見る世界はね。淡い色彩を纏っているのよ。

くすくすと笑いながら、あの日彼女は窓を見た。つられて見た窓から見える景色は、やはり外に出て見る景色と何の変わりもないように見えていた。

――晴れの日にはね、風が楡のまわりで楽しそうに踊っているの。曇りの日には、雲が歌を歌っていてね。そして雨の日には、雨の絵の具が世界の色を少しだけ濃くしていくのよ。素敵でしょう?

どんなに時が流れようと、年月が彼女を大人にしようと、彼女の少女のような純粋さは変わらないままだった。頬を染めて楽しそうに、幸せそうに微笑む彼女の姿が瞼の裏に灼き付いて、今でも鮮やかに浮かび上がる。
けれどこうして同じように窓の外を見ても、彼女と同じものは一度も見えはしなかった。楡も、風の姿も、雲の声も、雨の色も。自分には何一つ見える事がない。

彼女の眼が特別なのか。この窓が特別なのか。あるいは両方か。
特別な彼女と、特別な窓。二つが重なり合う事で、その特別が見える形になったのか。
だから特別では無い自分は、彼女と同じものが見えないのだろうか。

窓の側に置かれたテーブルの縁をなぞり、椅子に座る。彼女が好んで過ごした場所に、同じように腰掛ける。
窓の外を見る。やはり雨に濡れてくすんだ景色が見えるだけだった。



「父さん」

いつの間にか、部屋の入り口に立っていた息子に呼ばれ、振り返る。時間になっても戻らぬ自分を呼びに来たのだろう。
時計を見れば、この部屋に訪れてからすでに三十分以上も時間が経っていた。

「すまない。もうこんな時間か」
「気にしないでいいさ。父さんこそ大丈夫か。なんせ、急な事だったし」

言葉を濁し曖昧に笑う息子になんと言葉を返したらいいか思いつかず、ただ首を振る。立ち上がり息子の側に寄れば、彼女によく似た琥珀色の瞳が僅かに赤く腫れているのが見て取れた。
人知れず泣いていたのだろう。目尻に残る滴を拭えば驚いたように目を瞬いて、恥ずかしげに目を細める息子の頭を軽く撫で引き寄せると、暫くして声を殺して泣き始めた。
こんな時でさえ自分に気を遣う息子に、申し訳ないと思う。まだ親の庇護が必要な子だというのに、頼りにするべき親がこんなでは素直に泣く事も出来ない。
頭を撫で背をさする。不器用なそれが少しでも慰めになれば良いと思いながら、彼女ならばこんな時にどうしたかを考える自分の弱さを嫌悪した。

「大、丈夫だって。お、れは大丈夫、だから」

腕を伸ばし無理矢理離れ、息子は涙の残る目で笑みを形作ってみせる。先ほどよりも赤みが増した目が痛々しい。

「無理はするな」
「だって、母さん。ほんと、に、寝てる、みたい、だった、から」

大丈夫だと。苦しんだわけではないのだろうからと、息子は笑う。
彼女の最期を目にして、それでも自分のために笑おうとする息子が只管に苦しかった。
息子から目を逸らして振り返る。窓の外を見、テーブルと椅子を見た。

そこで彼女は亡くなった。
眠っているようだったと息子は言う。午後の日差しに微睡んで、そのまま眠るように逝ったのだろうと、医者は言った。
そうか、と納得し。残ったのは虚ろな心と寂しさだった。
穏やかに時を止めた彼女。夢見る少女のような可憐な彼女は、もうどこにもいない。


「ごめっ、ちょっと、出てくる。父さん、は、まだ、ここに、いて」

気を遣い、出て行こうとする息子の手を取り引き止める。

「一緒に行こう。話がしたい」

驚く息子に、できる限り優しく笑ってみせる。
滅多に表情を変える事のない自分の笑みは相当可笑しなもののようだった。呆けたように口を開けて自分を見つめる息子にいたたまれなくなり、掴んだままの手を軽く引く。はっとしたように口を閉じ、気まずげに目を逸らした息子に、知らず笑みが深くなる。

「話、って。なに?」
「何でも良い。友達の事とか、学校の事とか。趣味でも何でもいいから、話をしよう」
「父さんは?何、話して、くれるの」

息子の問いに、考える。自分が話せるものなどあっただろうか。
思えば息子と二人きりで話す事など、数えるくらいしかない。普段は彼女が間に入り、自分は常に聞き役に回っていた。
考えて、部屋を見回す。この部屋で思い出せるのは彼女の事ばかりだ。

「昔の母さんの話、とか。後は、そうだな」

つまり惚気か、と呆れ笑う息子から視線を逸らすように窓を見る。
どこにでもある、窓。変わらない、外の景色。

彼女によく似た息子には、どんな風に映っているのだろうか。

「この窓の外の景色が、母さんには特別に見えて、俺には普通に見えるくらいだな」
「景色?」

つられて息子も窓の外を見る。
その横顔には、彼女と違い笑みはなく。凪いだ琥珀が、揺らいでいた。

「俺にも、普通の庭、に見える。大きな、楡の木のある。ただの、庭」
「…そうか」

呟いて、息子を促し部屋を出る。

閉まる扉の向こう側。あの窓の外で、彼女が微笑っている気がした。



20240926 『窓から見える景色』

9/25/2024, 11:11:05 PM

夜も明けきらぬ早朝。
深い谷底を見下ろして、一人声を上げた。

「参りました」
――まいりました

遅れて返る声に、僅かに眉を潜め。求めたものとは異なるそれに、確かめるよう再び声を上げる。

「参りました」
――まいりました

「主は居られぬのでしょうか」
――あるじはおられませぬ

「主はいつお戻りになられますか」
――あるじはまだおもどりにはなられませぬ

そうか、と呟いて、そうか、と返る声を聞きながら、はてさてどうしたものかと思案する。
主が不在であるのなれば、おとなしく出直すべきであろう。主が戻られた際に、改めて参れば良い。
しかしいつ戻られるか分からぬのであれば、出直すとしたとてそれがいつであれば良いのか分かりようがない。

此度の生は運良く頑健な体に産まれ落ちる事が出来たが、記憶を戻すまでに長い年月を要してしまった。
出直すにも限りがある。後数十の年月で体は弱り、そうしてまた死を迎える事になるのであろう。
況してや此処は深き山奥だ。暫くすれば雪に閉ざされ、春の雪解けを待たねばならぬ。
限られた日数で果たして主に参る事が出来るのか、一抹の不安を覚え。
そんな己を笑うように、ひょう、と風が通り抜ける。

「主に供はあるのでしょうか」
――あるじにともはありましょう

「主の供は声を聞く事が出来るでしょうか」
――あるじのともはこえをきくことができるでしょう

目を閉じる。瞼の裏の暗闇には何も見えず。
目を開ける。未だ夜の気配の残る薄暗い周囲は、瞼の裏とさほど変わりがないように思える。

「私の声は、主に届くでしょうか」
――あなたのいのりはあるじにとどくでしょう

息を吸い、吐く。冷えた空気が五臓六腑に染み込んで、惑う心を落ち着かせる。
もう一度目を閉じ、彼の主へ思いを馳せて声を上げた。

「主。我らが王よ。我らの滅びに抗い続けた尊き神よ。我が身は滅べど我が魂は、思いは潰える事なく。此度も遅ればせながら参りました」

声は返らない。応えは必要ない。

「此度の生も、許無く主を奉る無礼をお許し下さい。主の元へ参り、その眠りを妨げる我が罪を憐み下さい」

強く吹き抜ける風に、目を開ける。
谷間の向こうに見える光に目を細めた。

彼誰時。
まもなく夜が明ける。朝が訪れる。

「我が魂に刻まれた主の記憶は、時と共に薄れております。此度も戻すまで長い時を要しました。いずれは記憶を戻す事無く、主を忘れ生きる事でしょう」

それは次の生か。はたまたその次か。
いずれにせよ、忘却する結末に変わりはない。己はかつての虐げられた過去を忘れ、我らのために命を賭して戦い続けた主を忘れていくのだろう。

それは哀しい事だ。だがそれは哀しいほどに正しい事でもある。
歴史とは常に勝者が正しく、敗者は悪でしかない。そこにどんな思いがあれど、敗れ屍となった者が語る言葉は何一つないのだから。

「忘れるまでのこの一時を、主を奉り想う事で慰めとする、我が傲慢をお許し下さい」

記憶にも残らぬ、我らが在ったという証。
この谷底に眠るであろう数多の骸はすでに土に還り、残るものは何一つないのだろう。

「また参ります」

深く一礼する。
踵を返し、昇る日を背に歩を進め。

一陣の風が、吹き抜けた。

――いのりはとどきました
――あるじへこえはとどきました
――はなをつけぬつばきのおさめるちにおまいりください
――とじたせかいのそとがわのやしろにおまいりください
――こまいぬなきやしろにおまいりください


――あるじがおいでになられます

振り返る。そこには滲む日の光しかない。
姿はなく、形もない。

しかし返る言葉ではなく。はっきりと。
声が、聞こえていた。



20240925 『形の無いもの』

9/24/2024, 10:00:50 PM

夜の公園。ジャングルジムの一番上で、子供が声を殺して泣いていた。

「なにやってんさ」
「やだっ。こないで、こないで、っ!」

下から声をかければびくりと体が震え、只管に拒絶の言葉を繰り返す。周囲を見回すが、気になるものは何もない。
もう一度ジャングルジムを見上げ。びくびく震える子供を暫く見つめ。
とん、と地を蹴り、一息で子供の前まで飛び上がる。

「ひっ。ぃや、やだ。やだぁ」

近くに寄ったために、声を上げて泣き喚く子供。煩くなってしまったと顔を顰めつつ、飛び乗ったジャングルジムの上から周囲を見渡した。
やはり、何も見えない。辺りはただの暗闇が広がるのみで、子供を脅かすものなど何一つない。

すでに去って行った後なのか。

何故。子供を怯えさせ、ジャングルジムの一番上まで登らせて。諦めたのか、興が冷めたのか。
登れなかったのだろうか。登れず諦めて、それを知る術のない子供は、今もこうして降りられず泣いているのか。

あるいは、この子供は。

そこまで考えて、足下で何かが蠢く気配がした。
反射的に飛び退くが、それより速く足に何かが巻き付き、縫い止められる。
じゃらり、とした重い音。金属の鎖だと気づく頃には、四肢に頸に鎖が巻き付き身動き一つ取れなくなってしまっていた。

「なんだ、また小物か。つまらん」

無機質な声に視線を向ける。先ほどまでの泣き怯えていたのが嘘のように表情の抜け落ちた子供が、昏い瞳で己を見つめていた。
値踏みされているかのようなその眼に、思わず顔が歪む。視線を逸らし下を見れば、ジャングルジムの中、人ならざるものがひしめいて、忌まわしいと呪う声を上げていた。

疑似餌。

そんな言葉が浮かぶ。
泣く無垢な子供を餌に、誘き寄せた化生らを逆に取り込んでいるのだろう。巻き付く鎖の感じから、おそらく術師の仕業のようだ。

「抵抗しないのか。益々つまらんな」

子供の形をした餌が、興ざめだと嘆息する。そう言っている間にも鎖は己を余す事なく巻き付き、逃げられる隙などありはしない。
術師は随分と傲慢なようだ。自身の術に相当の自信があると見える。
はぁ、と疲れた吐息をひとつ溢す。
顔にも巻き付き始めた鎖を煩わしいと思いながら、餌を見据え。

「なんつうか…高飛車で悪趣味な女って、今時持てんよ?」

正直な感想を呟いて、怒りに顔を歪ます餌を嗤い。
意識を、切り離した。




「何あれ。怖っ」

目を開けて、鳥肌が立った腕を思わず摩る。
悪寒が背筋を駆け上がり、堪らず机の上のケトルの電源を入れ、お湯を沸かし始めた。
空のカップに新しいほうじ茶のティーバックを入れ、沸騰する前の温めのお湯をカップに注ぐ。
ずずっ、と音を立ててまだ薄いほうじ茶を啜れば、それでも染み入る暖かさにほぅ、と息を吐き、ようやく落ち着きを取り戻す。

怖いものを見てしまった。
少し離れた場所に残してきた鳥の視界から、切り離した躰が鎖によって潰され引き千切られていくのが見えて、落ち着いたはずの体がふるり、と震える。
余計だとは思いながらもつい溢れてしまった言葉は、あの術師のプライドをいたく傷つけてしまったようだ。分かってはいたが、と口元を引き攣らせつつ、また一口茶を啜る。

「夜の散歩なんさ、するもんじゃない」

独りごちて、机に突っ伏した。
眠気などすっかり消え失せて、覚醒した思考に溜息が漏れる。

寝付けない夜に散歩をしようと思い立ったのは、いつもの気まぐれだ。
場所はどこでも良かったが、最近噂になっている公園が気になった。

曰く、子供の泣き声が夜ごと聞こえてくる。
曰く、誰もいないはずのブランコが、風もないのに揺れていた。
曰く、深夜に砂場で遊ぶ、黒い影を見た。

よくある話ではある。よくある話だからこそ、軽い気持ちで眠気が訪れるまでの気分転換にと目的地に決めたのに。

鳥の視界から、どうやら術師本体が訪れた事を知る。捕らえたはずの獲物が跡形もなく消えた事を、確認にでもきたのだろう。
やはり女だ。髪の長い、所作の美しい女。
女が不意に振り返る。離れた場所にいるはずの鳥と、視線があった。

作り物めいた、ぞっとするほどに綺麗な女の顔には、見覚えがあった。

「せいとかいちょーの、おねえさん?」

昨年の文化祭を思い出す。生徒会長と親しげに話す、女の姿が浮かぶ。
女の視線は逸れない。害あるものかそうでないか、こちらの力量を見定めている。
その視線を逸らさず、けれど焦点が合わぬように見返して。女ではなく、公園を見ているのだと。噂の多くなった公園の監視をしているのだと。
いくら待てども何の変化も見られない、公園を見ているのだと、誤魔化した。

やがてふい、と興味が失せたように女が視線を逸らす。ジャングルジムに施した鎖を解き、立ち去る最後に公園自体に施した鎖もすべて解いていく。
そうして女が公園から去り、気配もなくなってからようやく、いつの間にか詰めていた息を吐き出した。

「美人って、怖い」

脱力する体を起こし、冷めてしまった茶を飲み干す。カップはそのままに、のろのろと立ち上がりベッドに潜り込んだ。
目を閉じればすぐに沈んでいく意識に身を委ね。

意識の端、近く開かれる文化祭を思い出して。
心底嫌そうに、顔を顰めた。



20240925 『ジャングルジム』

9/23/2024, 11:40:51 PM

姿のない声が聞こえていた。

男の少し後ろをついて歩く。どこに向かうかは何も知らず。
ただ姿のない声が、楽しげにこの先に何があるのかを伝えてくれていた。

「疲れたか?」

静かな問いに、首を振って否を答える。
少しだけ開いた距離を、疲れだと思われたようだった。首を振り、声の聞こえる方へ視線を向ければ、それだけで言いたい事は伝わったのだろう。一つ頷くと、また背を向け歩き出した。

「もう少しだ」

背越しの言葉に、見えてはいないと知りながらも頷きを返す。思うように意思を伝えられぬ事に歯がゆさを感じながら、せめて遅れるわけにはいかないと追う足を少しだけ速めた。


声を失ったのは、もう一年も前の事だ。
朝目覚めると、唇からは掠れた吐息しか出ず。どんな薬を煎じても、どんな祈祷を行っても声が返ってくる事はなかった。
姿のない声達が、奪われたのだと囁いていた。夜に紛れて声を奪ったのだと。
楽しげに、悲しげに、歌うように奪われたと繰り返す。
途方に暮れていれば、師であり、父であり、兄である男に促され、出立の準備を整えて。

あれからずっと、当てのない旅を続けている。



「ここだ」

男の足が止まる。
追いつき背越しに見れば、巨木の根元に半ば埋まるようにして在る石碑。

一歩、男が歩を進めたその刹那。
視界が揺らぎ、すべてが変わる。

「やぁやぁ、ごきげんよう。どこぞのまつろわぬ神よ。此度は何用で参られた」

男のような、女のような、美しい誰かが巨木の枝に座り声をかける。

「この子の声を、返して頂きたく」

男は一言それだけを告げ、臆する事なく誰かを見据えた。
男の答えが以外だったのか。枝に座る人物はこてり、と首を傾げ。
次の瞬間には、声を上げて笑い出した。

「そうかそうか、斯様な事で参られたか。だがそれの声は、我らにとって害あるもの。我らを惑わせ、狂死させる呪い。簡単に返すわけにはいかぬ」

笑いながらもこちらを見るその眼は、鋭く冷たい。下手に動けば一瞬で切り裂かれてしまいそうな危うさに、本能的な恐怖で体が震え出す。

「なれば致し方なし」

震え硬直する体を引き寄せられ、視界が男の体で塞がれる。見られたくないものがある時の行為に、慣れたように耳を塞ぐ。塞いだ耳越しに尚聞こえる声に、顔を顰めさらに耳を塞いで只管に聞こえないふりをした。

促され、耳から手を離し男から離れると、そこにはもう誰もおらず。
黒に染まった石碑と、焦げ落ちた巨木の枝があるばかりであった。

「何?」
「戻ったな」

言われ、気づく。
いつの間にか声が戻ってきていた。

「行くぞ」

それだけを告げ、男は歩き出す。
その背を追って同じように歩き出した。
声はかけない。問う事もしない。
聞いた所で答えてくれた事はない。それにあの人物が言った言葉が不用意に声を出す事を躊躇わせた。

―― 惑わせ、狂死させる呪い。

呪いだと、あの人物は言った。誰かを狂わせるのだと。それが人ならざるモノだとしても、誰かに害をなすその事実が酷く胸を締め付ける。
少しだけ声が戻った事を後悔して、男の行為を徒爾にする事に気づき頭を振って否定する。

「心を砕くな。詮無き事だ」
「はい」

男の言葉に返事を返す。
ただそれだけの行為に、訳もなく嬉しくなって小さく笑みを溢した。
答える事が出来る。その手段が一つでも多くある事で、不安定な心が落ち着いた。

ふと、先ほどからいつも聞こえていた姿のない声が聞こえない事に気づく。
思わず立ち止まり、周囲を見渡す。見えはしないと分かっていても、それでも何か見えはしないかと目を凝らす。
立ち止まった事に気づいた男が同じように立ち止まり、けれど振り返る事なく声をかける。

「膜を張った。声は聞こえず、届く事もない」
「膜?」

手を伸ばす。見えないそれは、やはり触れる事も出来ないようだ。

「声の対価だ」

首を傾げ、少し遅れてその意味を理解する。
声を返してもらう代わりに、声の呪いを届かぬようにしたのか。聞こえない事に一抹の寂しさはあるものの、それならば仕方がない。
頷いて、少し開いた男との距離を早足で縮め。男は再び歩き出す。

「ありがとうございます」

感謝の言葉に返る言葉はない。しかし幾分か歩みが緩やかになった事に、心の内で感謝の言葉を繰り返す。


声は聞こえない。どこへ向かうか何も知らず。
けれど不安は何一つなく。
ただ男の後を着いて歩く。促されるままに、旅を続けていく。



20240923 『声が聞こえる』

9/23/2024, 5:25:30 AM

「留学するの」

いつものように訪れた彼に、彼女はスケッチブックから目を離す事なく淡々と告げる。

「ふうん。いつから?」
「来年の春から一年間」
「そう」

適当な相づちを打ちながら、彼は描き終わったばかりのスケッチブックを一枚一枚めくっていく。
一つとして同じもののない夕日をめくり、一枚だけ異なる陽の絵に目を留めた。

「朝日?」

白黒の世界に広がる、柔らかな朝の日差し。目覚め始めた街の光景。
目を細めて見入る彼に気恥ずかしさを覚え。彼女は彼の手の中のスケッチブックに手を伸ばす。

「返してよ」
「いいじゃん。一年も会えなくなるんだし、俺にちょうだい?」
「やだ」

欲しいと強請られ、さらに恥ずかしくなる。無理矢理取ろうとするその手は、しかし彼との身長差もあり届く事はなく。背伸びをしたり、飛び跳ねたりと必死になる彼女に小さく笑い、また一枚ページをめくった。

夕日。様々な場所で描かれた、白黒の太陽。
それでも見入れば色鮮やかな光景が、ともすれば音が聞こえてくるようで。恐れにも似た感情に彼は微かに息を吐いた。

また一枚、ページをめくる。
だがそこに描かれたものを見て、彼から笑みが消え動きが止まった。

「なに、これ」
「え?…っ、それ、は」

呟く声にスケッチブックを見て、彼女の表情が変わる。
止まる彼の手から無理矢理スケッチブックを取り上げ胸に抱きながら、気まずげに俯いた。

「人物画、苦手だって言ってなかった?」
「これ、は。違うの。悪いと、思ってたし。謝ったから」

欠けた月の照らす夜道。鳥籠を抱いて歩く一人の人物。
今まで彼女が描いてきたものとは、少なくとも彼が見てきたものとは全く違う絵。

彼は以前彼女が言った人物画を描かない理由の嘘に、静かな怒りを覚え。
彼女はその絵が許可を取ったものではない事に対して、言い訳を繰り返す。
微妙にすれ違う言葉に、お互い気づく事はない。


「ねぇ。俺の事も描いてよ」

不意に彼が彼女の腕を掴み、視線を合わせて囁いた。
彼の手の熱にぎくり、と固まり。逃れようと視線が彷徨う。

「春までの半年間。俺の事を描いて」

重ねて願う言葉に、スケッチブックを抱く腕に力が籠もる。
頷く事は出来なかった。春が来るまでの半年間、肯定する事で訪れる彼との時間が怖かった。
しかし否定する事も出来ず、唇を噛みしめて黙り込む彼女に、彼は静かに描いて、と繰り返す。

「俺に嘘ついて、置いていくんだから、これくらいいいだろ?」
「それは。そう、だけど」
「じゃあ、描いて。いい加減にちゃんと俺を見てよ」

戸惑いに彷徨い続ける視線を、掴んだ腕を引かれて合わせられる。
間近で見る彼に顔が赤くなりながら、久しぶりに顔を見たと、どこか冷静な部分で思う。
最後にちゃんと見たのは、姉が彼以外の人と付き合う前だったか。もしかしたら高校生だった時かもしれない。

「ちょっと、近いって」
「駄目。一度も俺の事見なかったんだから、逃げないで。自分の気持ちに区切りをつけるためだけの最低な告白した事、まだ許してないからね」

真っ直ぐな彼の視線と言葉に、体が強張る。
自覚はない。いつだって彼を目で追っていたはずだ。ただ確かに独りよがりな告白をしたのは事実で、意味が分からず混乱する。
それを見て、彼は小さく息を吐いたようだった。

「あの時、断られる事を期待した告白をされて、俺がどんな気持ちだったか分かる?」
「あ、ぅ」
「ずっと側にいても、見てもらえないし。挙げ句の果てに嘘をつかれて、知らないやつの絵を見てる、今の俺がどんなに惨めなのか気にもしないよね」

首を振る。違うのだと、いつでも気になるのだと声にならないながらも否定をする。
何か言わなければと思いながら、何を言えば分からずに、意味の伴わない呻きが漏れ。
結局は謝る言葉しか出てはこなかった。

「ごめん、なさい」

俯きそうになる顔を、視線を逸らす事を、けれども許してはもらえずに。
涙の膜の向こうで滲む彼を、彼女は必死で見つめ返していた。

「なら、春までの半年。俺にその時間をちょうだい。あんなすぐに沈んでいくだけの夕日じゃなくて、俺や俺と一緒に見た景色だけを描いていて」
「え、と。それっ、て」
「それで春が来たら、もう一度俺に告白してよ。半年間、一緒にいた俺に気持ちを聞かせて」

言葉の意味を理解して、先ほど以上に顔が赤くなる。
何も言えない彼女にいいね、と答えを促して。小さく頷く彼女に、彼もまた満足げに頷いて笑った。


「今度の休み、出かけようよ。紅葉の綺麗な所があるんだ」
「それって。一緒、に?」
「当たり前だろ。今更何言ってんの」

彼女の小さな呟きは、呆れた彼の言葉にかき消される。

逃げられないこれからの半年間を思って、暴れ出しそうな心臓をスケッチブック越しに押さえつけた。



20240922 『秋恋』

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