代わり映えのしない、同じような朝の光に安堵する。
また無事に朝を迎えられた。その事が今は何よりも尊い。
夜が来て、朝が来る。それが当たり前でないと知ったのは、父がいなくなった日の事だった。
月が沈む、星が消え。それでも朝日が昇る事のない暗闇に、父を探して歩いたあの日。結局見つける事が出来ずに泣く私を、探しに来た兄に手を引かれ帰る帰り道に、朝は来ないのだと知った。泣き疲れて眠り、次に目覚めた時に側にいてくれた姉と朝日の差し込む室内に、安堵してまた泣いてしまった事を覚えている。
こんこん、と扉を叩く音。それに返事をすると、低い静かな声が聞こえてくる。
「起きていたか。朝食が出来ている」
「おはよう、兄さん。すぐに準備するから先に行ってて」
返る声はない。きっと扉の向こうで待っていてくれるだろう優しい兄を待たせるわけにもいかず、急いで準備を済ませるためにベッドから抜け出した。
「おはよう。ご飯出来てるよ」
「おはよう、姉さん。いつもありがとう」
柔らかく笑う姉に笑顔を返し、食卓につく。隣には兄が座り、向かいには姉が座った。
いつもと変わらない、少なくとも父がいなくなったあの日からずっと変わる事のない、その位置。
いただきます、の言葉の後、それぞれ食べ始める。誰も何も言わない、静かな朝食の時間。
皆がそろう朝のこの時間が、一日の中で特に好きだった。
「あぁ、そうだ。今日は家の中で宵《よい》と一緒にいてね」
朝食後、お茶のおかわりを手渡されながら言われた姉のお願いに、またかと思いながらも頷いて肯定する。
「またお客様?」
問いかければ、ごめんね、と申し訳なさそうに微笑まれる。
それに首を振って大丈夫だと伝え、受け取ったお茶に口をつけた。
時折訪れるお客様と姉達が何を話しているのは知らない。
父の事か。この家の事か。それとも姉達の事か。
考えても意味のない事だ。姉達に聞いた所で答えが返ってくる事は一度もなかったのだから。
お茶を飲み干して、ごちそうさま、と一言。湯飲みを洗おうと立ち上がるより早く姉に湯飲みを取られ、空を切った手が代わりに兄の手と繋がれた。
「行くぞ」
言葉数の少ない兄に促され、ありがとう、と姉に声をかけて立ち上がり歩き出す。
向かう先が自室ではなく奥の書斎である事に気づいて、よほど知られたくないのだな、と何気なしに思った。
本を探すふりをしながら、横目で兄を見る。
あまり表情の変わらない兄が、今何を考え思っているのかは見ているだけでは分からない。聞いても答えてくれはしないのだろう。
聞きたい事ならばたくさんある。
客の事。父の事。夜と朝の事。
聞いた所で答えはなく、意味もない。知ったとしても忘れさせられてしまう疑問。
もう『何度目』になるのか。
「どうした?」
視線に気づいた兄が問う。それを笑って誤魔化して、目に付いた一冊の絵本を取り出した。
椅子ではなく、敷かれたラグに座って本を開く。
色鮮やかな絵と簡単な文字の書かれた間の、拙い落書きを指でなぞる。挿絵を真似したようにも、自由気ままに描かれたようにも見えるそれは、自分以外には分からないであろう暗号だ。
―― よい、はよる。あけ、はあさの、こまいぬ。
―― とうさんがむかえにくる。
―― かえれば、ふゆをこせない。
書庫の本や自室のノートに落書きされた暗号。
知ったかつての私が、記憶を消される前にと残したメッセージ。
あの日、本当は父ではなく私が消えたのだ。
余命半年と宣告された体。せめて最期は自宅で共にいようと選択した父に連れられ戻ったその夜に。
神社の狛犬達に、私は隠された。
それからずっと二人が作った朝と夜を繰り返している。
本を閉じる。元の場所へと戻し、様子を伺う兄の腰にしがみついた。
「姉さんは、まだ来ないの?」
小さな愚痴に、兄が宥めるように頭を撫でる。
その不器用な優しさに、目を閉じて擦り寄った。
訪れる客が招き入れられる事はない。
すべてを問いただす事がいいのか、このまま黙している事がいいのか分からない。
聞く度に記憶を消され、この場所でままごとの続きをする二人の意図が分からない。
でも兄も姉も私を大事にしてくれている事だけは確かだ。二人の優しさが本物なのは、痛いほどに分かっている。
だから私も二人を大事にしたかった。
「何かお話しして。姉さんが来るまで」
服の裾を引いてお願いをすれば、仕方がないと抱き上げられる。ラグの上に座る兄の膝に乗せられて、昔々、と静かに語り始める兄に凭れて目を閉じた。
何も知らない、無邪気な妹のふりをしていた。
20240921 『大事にしたい』
また同じ夕暮れを繰り返す。
長く伸びた二つの影。手を繋いで夕陽を追いかけた、いつかの朱い空の下。
「もうすぐ日が暮れてしまうの。さよならだ」
「さよならはやだな。帰りたくないよ」
暗くなる空に文句を溢し、もう少しだけを繰り返す。
いつもと変わらない光景。昨日と同じ二人の細やかな望み。
「このまま時が止まってしまえばいいのに」
「ずっと夜が来なければ一緒にいられるのに」
ね、と二人顔を見合わせて笑う。
そんな事はありえないと知っているからこそ言える、他愛のない言葉。
つかの間の別れを惜しみながら、また明日の約束をしてお互いに帰る。
そうなるはずだった。実際明日は来るはずだったのだ。
長く伸びた一人の影の先が、苔むし朽ちた碑にかかりさえしなければ。
―― カナエテアゲル。
ざらりとした、耳障りな応える声が聞こえ、一人の姿が掻き消える。
繋いでいた手を失い、彷徨うもう一人の手を置き去りにして。
閉じられた一人は、同じ夕暮れを繰り返している。
ぱりん、と何かが割れる音がした。
見上げた朱い空には罅が入り、ぱりぱりと音を立てながらその罅を広げていく。
まるで落として割れた硝子玉みたいだ、と閉じられた子は思う。
それ以上には何も思う事はなかった。同じ夕暮れの中で擦り切れていった心は、酷く鈍磨になってしまっていた。
広がる罅をただ見つめ。その先の怪しく光る黄色の何かに目を瞬く。
黄色。けれども白のようでもあり、赤にも見える不思議な丸い何かが大きな月だと気づいた時には、すでに空は粉々に割れていた。
「迎えに来たよっ!おまたせぃ!」
懐かしいようで、記憶のそれよりもずっと低い陽気な声が、割れた夜空の向こうから振ってくる。
にやり笑い手を差し伸べる青年に、あの日のもう一人の影に重なって、恐る恐るその手を取った。
「よし、行こう!さっさと行こう!」
―― イカセナイ。
閉じられていた子の伸びた影から声がする。ざらついた雑音が影を依代に、形をなして現れる。
手を掴まれる、その瞬間。
「行くんだよ。邪魔すんな」
笑みを消した目の前の青年が、腰に差していたナイフを抜いて影へと躊躇いなく投げつけた。
ぴしり、と音がして。影に罅が入る。
声も出せずに崩れ落ちていく影を冷めた目で見下ろして。けれど次の瞬間には再び笑顔を浮かべて子を、あの日失ってしまった友人の手を話さぬようにしっかりと繋いだ。
「これで邪魔されなくなったな!よかったよかった」
繋いだ手を引いて歩き出す。
空が割れ、影が消えた事で閉じていた空間にもあちらこちらがひび割れていく。
「早く帰ろう!んで、おいしいもの食べたり、遊んだり…とにかく一緒になんかしような!」
「なにか」
「そ。なんでもいいや!」
足取り軽く、青年は割れた空の向こう側へと歩いていく。手を引かれるままの友人は、擦り切れた心でかつてのあの手を繋いだ影を思い出し。今手を繋ぐ彼との差異に、戸惑うように目を瞬かせた。
夕焼けの向こう側。猫の目のような不思議な色を湛えた、望月の妖しく輝く夜の下へ。
繰り返していた擬似的に止まっていた時間が、正しく流れていくのを感じる。聞こえてくる虫の声に、吹く風の涼しさに夏の終わりを知り、繋ぐ手に縋るように力が籠もる。
振り返るその場所に、夕焼けは欠片も見つける事が出来ず。ただ苔むし朽ちた碑が粉々に割れているのが見えるだけだった。
「あれからさ。いろいろあったんだ。いろいろあって、一人になった。でも新しく出会いもあって、師匠って呼べる人もできて、たくさん出来る事が増えた。だから夕焼けを壊して助けられた」
「師匠」
「ん。すごい人なんだ。なんでも出来て、何でも知ってる。優しい人」
「優しい、人」
見上げる目と見下ろす目が合う。変わってしまったと、同じではないのだと示すその差に、手を離しかけ、手を強く繋がれる。
「師匠に会いに行こう。で、一緒に生きていこうな」
「生きて、いく」
言葉をただ繰り返す友人に、青年は強く頷いた。
足は止めない。彼が生きてきた時間と同じように、前に進み続ける。
「もう二度と時間が止まってほしいなんて我が儘言わないからさ。だから一緒にいよう?」
「一緒に、いる」
―― あの子のように。
繰り返す言葉の後に続く囁きを、必死に聞こえないふりをした。
笑って、誤魔化して。都合の良い言葉だけを拾って、大げさに繋いだ手を振って歩いて行く。
止まる事なく流れていく時間と、繰り返し停滞していた時間。
多くを経験し大人になった青年と、夕焼けに囚われ子供のままの友人。
けれどその実、青年の心は擦り切れた友人のそれよりも壊れている。あの夕暮れ時に今も置き去りにされている。
「これからはずっと一緒だ。ずっと」
何度でも繰り返す。言い聞かせるように、呪いのように。
月に照らされた青年の表情は、笑っていながらも。
一人残されて、泣いているようにも見えた。
20240920 『時間よ止まれ』
眼下に広がる無数の灯りを見下ろして、空しさに目を伏せた。
人の営みの証であるその煌びやかな光の数が、昨日よりも少ない事を気にかける者はいないだろう。
昨日までの自分がそうだった。生きる事に必死で、他の誰かを気にかける余裕などはなかったから。
「結局は言い訳だな」
独りごちて、自嘲する。
余裕がないなど言い訳だ。結局は気づけないではなく、気づこうとしなかった。ただそれだけだ。
唇を噛みしめる。今更ながらの後悔に気を抜けば泣いてしまいそうだった。
「いい加減に、ぐずぐずするのやめてくんない?」
背後から聞こえた声に、びくりと肩を震わせる。
それでもどんな顔をすればいいのか分からなくて振り返る事が出来ずにいると、苛立たしげに舌打ちをされて縮こまる。
「寝ずの番をさぼるな。線香の火が消えたらどうしてくれるの」
「変わりは、ある。から」
「言い訳をするな」
刀のように鋭い言葉に、耐えていた涙が滲む。
いつでもそうだ。彼女はどんな時だって己にも周りにも手厳しい。
こんな時くらいはと思う弱い自分を、分かってはいたが見逃してはくれないようだ。
恐る恐る振り返れば、いつもと何一つ変わらない彼女の姿。悲しいくらいに見慣れてしまった、静かな怒りを湛えた表情をみれば、もう駄目だった。
「だって。もう、いない、のにっ。ひと、り、に、なって」
「五月蠅い。後悔なんてした所で、今更だわ」
「ひどいっ。ねぇ、なんで。なんで、おいて、いかれた、の。なんで」
えぐえぐと泣き出す自分を、五月蠅い、と冷たい声で一蹴される。
以前はそれが彼女のいいところだと思ってはいたが、今はただ寂しさが募るだけだった。
「まったく。人が死ぬのなんて当たり前でしょうが。違いなんて遅いか早いかくらいなものよ。人はそうやって命を巡らせているの。生きるっていうのはそういう事よ」
「でも。だって」
「五月蠅い。それが摂理だって言ってんでしょうが」
そう言って彼女は背を向ける。置いて行かれたくないと、慌てて立ち上がる自分を気にする事なく歩き出す彼女の後ろ姿が見下ろしていた夜景のように滲んで見えて、さらに涙が溢れてくる。
「さっさと寝ずの番に戻りなさい。火車に持っていかれてもいいわけ?」
「やだ。やだぁ」
「情けない声を出さないで…仕方ないじゃない。死は誰にだって訪れるわ。死に至る理由がなんであれ、たとえそれが理不尽だと思えるものであったとしてもね」
小さな呟きは彼女自身に言い聞かせているようにも聞こえ。
悲しくて、寂しくて、悔しくて。
しゃくり上げながら縋るように彷徨う手は、けれど彼女には届く事がなかった。
「なにが変わりがあるよ。消えかかっているじゃない」
消えた蝋燭の火と短くなった線香に、慌てて新しい蝋燭と線香に火を灯す。
変わりと置いていた自分の影法師を見れば、部屋の隅で静かに座ってこちらを見ていた。
「必要以上の事をしないで戻ってくるのを律儀に待つとか、本体《あんた》よりもよっぽどしっかりしているわね」
自分が戻ってきた事で、影法師は音もなく近づき影に戻る。
彼女の影法師に対する評価に思う所はあるものの、確かにそうであるため何も言えず。
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、あらためて『彼女』と向き合った。
「昔からあんたは泣き虫だとは思っていたけれど、こんな時まで泣いて逃げ出すとは思わなかったわ」
「だって」
「五月蠅い。時間を無駄にするんじゃないわよ。折角の夜伽の時間なんだから」
最後の最後まで彼女は手厳しい。
けれどこうして向き合っていると、変わらないそれが逆に落ち着かせてくれていた。
戻ってきたからだろうか。隣にいてくれる彼女の姿が先ほどよりも滲んで見える。
夜明けまではまだ時間があるだろうが、彼女の言う通り外に出て時間を無駄にしてしまった事を少しだけ後悔する。
『彼女』と一緒にいられる時間は、もうあと少しもないのだから。
「四十九日までには受け入れなさいよ。あんたを残して逝く不安を残させないで」
「分かってる」
「どうだか…不安を未練にさせないで。化生になるのはごめんだわ」
心底嫌そうな呟きに、分かってると繰り返して。
ふと彼女のいない、あの一つ足りない街の灯りを思い出す。
減ってまた増えてを繰り返す灯は、この線香に似ている気がした。
時間と共に短くなっていく線香は、新たに差さなければ絶えてしまう。けれどその新たな線香は決して同じものではない。
短い線香を惜しみ燻り残る滓を留めようとするのは、彼女には酷く不釣り合いだ。
「大丈夫。そんな事はさせない。そんなのは、やだ」
止まらない涙を乱暴に拭う。歯を食いしばり、溢れそうになる嗚咽を噛み殺した。
そんな自分を見つめる彼女は、変わらない冷めた表情の中に悲しみが浮かんでいるように見えて胸が苦しくなる。
「大丈夫だから。少しは信用してよ」
自分にも言い聞かせるように、大丈夫の言葉を噛みしめて。
心配をかけないようにと、無理矢理に笑顔を作ってみせた。
「信用しているわよ。いつだって、あんただけを」
困った子供を見る目をして、彼女は薄く笑う。
ようやく見せてくれた笑顔につられて、作ったものではない自然な笑みが浮かんだ。
まだ笑える。まだ生きていける。
寂しいと叫ぶ心に蓋をして、夜が明けるまで新たな線香に火を灯しながら。
最期の彼女との時間を、ただ只管に語り合った。
20240919 『夜景』
一つ、花を植える。
「これ以上増やしてどうするんだ」
呆れたような言葉は聞こえないふりをして。土を掘り、手にした花を一つ植えた。
ただ繰り返す。荒れ地に種を撒き、花を植えて。
撒いた種が芽吹き、花咲いて。植えた花が実になって種を飛ばし。
こうして荒れ地が一面の花畑になってなお、花を植える事を止める事が出来ない。
「いつまで、続ける」
いつまで。その言葉に顔を上げる。
昔は彼らのために鳴いていたというのに、今になってそれを問われるとは思わなかったと、思わず笑う。
「いつまでも。ワタシが消えてなくなるその時まで」
答えは気に召さなかったらしい。
元々不機嫌だった顔がさらに不機嫌そうに顰められる。低い唸るようにおい、と呼ばれ首を傾げて戯けて見せた。
「いいじゃあないか。そもそも彼らの屍の前で鳴くしか出来なかったワタシに土を掘らせて亡骸を埋め、花を植える事を教えたのはオマエだ」
「それはお前があまりにも煩かったからだろう。俺のせいにするな」
「なんだ。さいしょに花を植えたのは寒緋《かんひ》なのか」
彼の側で花を編んでいた幼子が、くすくすと笑う。
彼の姉だという幼子は、下げさせた彼の頭に編み終えた花冠を乗せ満足そうに頷くと、再び花を編み始めた。
「姉ちゃん」
「それで聞こえるようになっただろう?眠る者たちがのこしていった声が」
不機嫌から一転して困った顔になった彼は、昔とは大きく異なり目を瞬く。
そういえば酒の匂いがせず、昔は常に持ち歩いていた酒瓶がない事に、今更ながらに気づく。
酒で誤魔化さずとも常を保っていられるようになった彼に、どこか不思議な気持ちですごいな、と呟いた。
「煩せぇ。姉ちゃんはすぐに手が出るんだ。仕方ないだろ」
「寒緋がわるい。こわれる度にたたいて直してやっているんだ。逆にかんしゃしてほしいくらいだ」
姉ちゃん、と情けない声に再び目を瞬く。
家族とはこうも簡単に人を変えられる事が、とても以外だった。
植えたばかりの花を見る。その下で眠る彼らもかつては家族、仲間と共に笑い合い、互いに鼓舞し合っていた事を思い出す。
彼らがここで生きていた記憶は、長い時間で随分と色あせてしまった。彼はまだ覚えているのだろうかと視線を向けると、眉を寄せ複雑な表情をしているのが見て取れた。
そういえば、花冠を乗せた幼子は声が聞こえるようになると言っていた。その声に思う所があるのだろうか。
不思議に思って見ていれば、編んでいた花冠が完成したらしい幼子がこちらに近づき、彼と時と同じように頭を下げろと促してくる。
「なんで」
「いいから、さっさとしろ」
「諦めろ。姉ちゃんは一度決めた事は曲げないからな。それにこれはお前も聞いていた方がいい」
訳も分からず、けれど逆らう事も出来ずにおとなしく頭を下げる。
かさり、と乗せられた花冠に、これからどうすべきかを考え。取りあえずは礼でも述べておくべきかと頭を上げかけて。
声が聞こえてきた。
穏やかな、楽しげな、賑やかな。
優しく、愛おしく、懐かしい。
ここで生きていた彼らの、忘れかけていた声がした。
「これ、は」
「ここで眠っている者がのこしていった声だ。体は土にかえり、魂は常世からまた現世に戻っているが、それでもわずかにのこるものもある」
それがこの声だとでも言うのだろうか。一切の負の感情を抱かない、生きていた頃と何の変わりもないこの声が。
「そんなはずは、ない。あんな、一方的で、惨い…だから、こんなのは」
声が聞こえた。
感謝を告げる声。ありがとう、とたくさんの声が聞こえてくる。
「なんで。ワタシは何も出来なかったのに。せめて弔ってほしいと訴えても誰も応えてはくれず。いつまで、と鳴く事しか出来なかったのに。無力だったワタシに、どうして感謝を」
「経を上げる事だけが弔いじゃねぇ。誰かを想い、その死を悼む。お前の行いは弔いと同じ事だ」
花を植える、それだけでいい。
鳴く事しか出来ぬ己の前に現れた、酒と血の匂いを纏ったあの日の彼の言葉。
思えば最初から変な男ではあった。己を見ても顔色一つ変えずに嗤い。いつまで、と鳴き続ける己を煩いと言いながら、共に土を掘り亡骸を埋めて。それでもいつまで、と鳴き止まぬ己に花を植える事を教えた男。
思い返して、目を閉じ。可笑しなものだと笑った。
「相変わらず、変な男だ」
「お前こそ変な妖だろ。俺の言う事をすべて素直に聞きやがるなんて気持ち悪い」
「すなおな事が気持ちわるい事ならば、寒緋はとても気持ちがわるいな。近づかないでくれ」
「姉ちゃん」
情けない声を上げ幼子に縋る彼に、さらに声を上げて笑う。
呆れたように幼子も笑い、気まずげながらにも彼も笑って。
聞こえる声達も、それぞれに笑っていた。
「やはり、ワタシはいつまでも花を植えよう。こうして訪れる者がいる限りはいつまでも」
「いつまで、と問う妖が、いつまでも、と答えるなんざ、本当に可笑しなもんだな」
「いいじゃあないか。なくよりはいい事だ。寒緋よりもずっといい」
最早泣きそうな彼を笑いながら彼の腕に乗る幼子は、その実彼をとても大事に思っているのだろう。
ではな、と別れの言葉と共に背を向け去って行く二人を見送り、一面に咲く花を見渡した。
ざあぁ、といたずらな風が花びらを舞わせた。翼腕を揺すり鱗を撫で上げ、花冠を空へと舞上げる。
舞う花びらと花冠を目で追って、追いかけるように空を飛んだ。
くすくすと、楽しげな声がいつまでも聞こえていた。
20240918 『花畑』
星も月も見えない、暗い夜。
先導するように少し先を行く蜘蛛の片割れを、人の形を取った猫に手を引かれ少女が追う。
三人の間に会話はない。不自然なほど静まりかえる獣道を、誰一人気にかける事もなくただ歩いていた。
不意に蜘蛛の足が止まる。
その視線の先、目的とした池の畔に佇む影を認め、蜘蛛の纏う空気が鋭くなる。少し遅れて追いついた猫も、影を見る眼が鋭くなり。
けれどただ一人、少女だけは表情を変える事なく真っ直ぐに影を見つめていた。
影に向かい足を踏み出し。しかし猫の手に引かれ、止められる。
「壱《いち》。駄目だぞ。あれからは人の匂いがしない」
「日向《ひなた》の後ろでおとなしくしていろよ。余計な事をすんな」
警戒する蜘蛛と猫に、少女は戸惑うように引かれた手を見つめ。
二人を見て、静かに微笑んだ。
「大丈夫。あの人はきっと私達の邪魔はしない。だから行かないと」
少女の言葉に猫は目を瞬かせ、もう一度影を見る。
こちらに気づいているが、何かを待つように動かない影に、なるほど、と頷いて少女と目線を合わせた。
「壱は平気か。後悔したり疵になったりはしないか?」
「しない。きっと行かない方が後悔するから」
「そうか。なら行っておいで。気をつけて」
小さく笑って手を離す。
それに蜘蛛は微かに眉根を寄せるが何も言わず、影へと向かう少女を静観した。
「来ると思っていたよ。来なければいいとも思っていたが、仕方がない事だ。彼女を取り込みに来たのだね」
哀しく微笑む影に、少女は首を振って否定する。
予想していたものとは違う答えに、影は少女を見守る猫と蜘蛛を見て僅かに表情を和らげた。
「そうか。ならば邪魔をしなくていいようだ。頑固者の君がよく考えを改めてくれた」
そっと頭を撫でる。幼子を褒めるように慈しむ手に、少女は目を細めて微笑んだ。
擦り切れた記憶の断片に残るそれと変わらない温もりに、懐かしい呼び名が唇から溢れ落ちる。
「おとうさん」
「まだ私を父と呼んでくれるのだね。愛しい子。記憶でしかない私には過ぎたる言葉だが、記憶であるが故に伝えられるものもある」
首を傾げる少女に影は――父と呼ばれた男は静かに笑い、目線を合わせた。
「あの悪夢の日に言えなかった言葉を返そう。――ただいま、玲《れい》」
瞬きを一つして。
記憶が巡る。熱と、痛みと、悲しみに落ちていく意識を繋ぎ止める、必死な声を思い出す。
男の言葉の意味を正しく理解して、少女は泣くように微笑った。
「おとうさん、おかえりなさい」
あの日の言葉を繰り返す。
腕を広げた男に抱きつき、いつかのようにその首元に擦り寄った。
優しく抱き留め髪を撫でられ、少女はおとうさん、と名を囁く。その表情に涙はない。あの日の再現には必要ないものを、少女はひた隠して目を閉じた。
「壱」
凜とした猫の声が少女を呼ぶ。
名残惜しい気持ちに気づかないふりをして男から離れ、振り返った。
少し離れた場所に座る本来の姿の猫の元まで近づき、その体を抱き上げる。目を細めて少女を見上げ、猫はなぁ、と小さく鳴いた。
「壱。瑪瑙《めのう》の準備が終わったと銅藍《どうらん》が言っている。始めるぞ」
「分かった。おとうさん、」
正しく名を呼べる記憶である男に対して、続く言葉に迷う。感謝か謝罪か、それともあの日の続きの言葉か。
逡巡し口を閉ざす少女に、男は静かに笑って首を振った。
「私にはもう別れの言葉だけでいい。それだけで十分だ」
その言葉に少女は一つ頷いて。
ふわり、と綺麗な微笑みを浮かべた。
「さようなら。おとうさん」
「あぁ、さよならだ」
優しい眼差しに別れの言葉を溢す。
縋るように猫を一撫でして、背を向ける。静観する蜘蛛の元まで戻るとお願いします、と頭を下げた。
それに蜘蛛は何も答えず。表情もなく男の佇む池まで歩き出した。
「申し訳ないが、水の底にいる彼女に私を届けてはくれないか。慰めくらいにはなるだろう」
「自己満足か。反吐が出るな」
頭を下げ差し出された本を、蜘蛛はくだらないと吐き捨てる。しかし猫の手前無碍には出来ず、半ば奪い取る形で本を受け取った。
「すまない。巻き込んでしまった事を深くお詫びする。しかしあの子のために力を貸して頂ける事に感謝する」
舌打ちしながら本を検め、害がない事を確認し。そして蜘蛛は侮蔑を浮かべた眼で、男に問う。
「あんたがあれの生に執着したのは、あれの言葉があったからか?」
「いや。ただ私が弱かったからだ。一人になる事に、目の前で喪う事に耐えられなかった。どんな形であれ、側で生きていてくれる事だけが、あの時の私の生きる理由だったのだ」
悲しく、空しく男は笑う。
それを蜘蛛は嘲笑し、男の罪を突きつけた。
「あんたに言っても仕方がないが、一つ教えておいてやるよ。あいつはもう二度と人には戻れない。あいつの魂は人を忘れ、呪になった。人に戻れず、妖にも成れない。あんたのくだらない執着の結果がこれだ」
息を呑み項垂れる男を、蜘蛛はそれ以上言葉を紡ぐ事なく見下ろし。
霞み消えていくその様に、表情一つ変える事なく背を向けた。
「それでも、私は認められなかったのだ。あの子の未来を、私のために泣く事を我慢して笑う優しい娘を諦めきれなかった」
噛みしめるような呟きを、蜘蛛はくだらない、と一蹴した。
池に向かい蜘蛛は立つ。
手には男から託された本と、小さな白磁の壺。
記憶である男の依代。水の底に沈んでいる娘の名を与えられた化生を封じた壺。
壺に繋いだ蜘蛛の糸を池に落とし、暫くしてから壺と本を落としていく。
沈んでいく二つを見下ろし、水の底の狂骨が壺を認識して取り込んだのを確認して残していた糸を切った。
ぽつり、と。
暗い空から細かな雨が降り始める。
蜘蛛を、少女と猫を濡らし、すべてを濡らしていく。
激しさはない。静かに降り続ける雨は、何故だか少女の泣く様を思い起こさせた。
振り返る蜘蛛の視線の先には、雨に慌てる猫とそれを宥める少女の姿。
雨に濡れてはいるが、その頬に涙はない。
一つ息を吐く。頭を振って雨を振り払い。
二人の元へと歩き出した。
2024917 『空が泣く』