代わり映えのしない、同じような朝の光に安堵する。
また無事に朝を迎えられた。その事が今は何よりも尊い。
夜が来て、朝が来る。それが当たり前でないと知ったのは、父がいなくなった日の事だった。
月が沈む、星が消え。それでも朝日が昇る事のない暗闇に、父を探して歩いたあの日。結局見つける事が出来ずに泣く私を、探しに来た兄に手を引かれ帰る帰り道に、朝は来ないのだと知った。泣き疲れて眠り、次に目覚めた時に側にいてくれた姉と朝日の差し込む室内に、安堵してまた泣いてしまった事を覚えている。
こんこん、と扉を叩く音。それに返事をすると、低い静かな声が聞こえてくる。
「起きていたか。朝食が出来ている」
「おはよう、兄さん。すぐに準備するから先に行ってて」
返る声はない。きっと扉の向こうで待っていてくれるだろう優しい兄を待たせるわけにもいかず、急いで準備を済ませるためにベッドから抜け出した。
「おはよう。ご飯出来てるよ」
「おはよう、姉さん。いつもありがとう」
柔らかく笑う姉に笑顔を返し、食卓につく。隣には兄が座り、向かいには姉が座った。
いつもと変わらない、少なくとも父がいなくなったあの日からずっと変わる事のない、その位置。
いただきます、の言葉の後、それぞれ食べ始める。誰も何も言わない、静かな朝食の時間。
皆がそろう朝のこの時間が、一日の中で特に好きだった。
「あぁ、そうだ。今日は家の中で宵《よい》と一緒にいてね」
朝食後、お茶のおかわりを手渡されながら言われた姉のお願いに、またかと思いながらも頷いて肯定する。
「またお客様?」
問いかければ、ごめんね、と申し訳なさそうに微笑まれる。
それに首を振って大丈夫だと伝え、受け取ったお茶に口をつけた。
時折訪れるお客様と姉達が何を話しているのは知らない。
父の事か。この家の事か。それとも姉達の事か。
考えても意味のない事だ。姉達に聞いた所で答えが返ってくる事は一度もなかったのだから。
お茶を飲み干して、ごちそうさま、と一言。湯飲みを洗おうと立ち上がるより早く姉に湯飲みを取られ、空を切った手が代わりに兄の手と繋がれた。
「行くぞ」
言葉数の少ない兄に促され、ありがとう、と姉に声をかけて立ち上がり歩き出す。
向かう先が自室ではなく奥の書斎である事に気づいて、よほど知られたくないのだな、と何気なしに思った。
本を探すふりをしながら、横目で兄を見る。
あまり表情の変わらない兄が、今何を考え思っているのかは見ているだけでは分からない。聞いても答えてくれはしないのだろう。
聞きたい事ならばたくさんある。
客の事。父の事。夜と朝の事。
聞いた所で答えはなく、意味もない。知ったとしても忘れさせられてしまう疑問。
もう『何度目』になるのか。
「どうした?」
視線に気づいた兄が問う。それを笑って誤魔化して、目に付いた一冊の絵本を取り出した。
椅子ではなく、敷かれたラグに座って本を開く。
色鮮やかな絵と簡単な文字の書かれた間の、拙い落書きを指でなぞる。挿絵を真似したようにも、自由気ままに描かれたようにも見えるそれは、自分以外には分からないであろう暗号だ。
―― よい、はよる。あけ、はあさの、こまいぬ。
―― とうさんがむかえにくる。
―― かえれば、ふゆをこせない。
書庫の本や自室のノートに落書きされた暗号。
知ったかつての私が、記憶を消される前にと残したメッセージ。
あの日、本当は父ではなく私が消えたのだ。
余命半年と宣告された体。せめて最期は自宅で共にいようと選択した父に連れられ戻ったその夜に。
神社の狛犬達に、私は隠された。
それからずっと二人が作った朝と夜を繰り返している。
本を閉じる。元の場所へと戻し、様子を伺う兄の腰にしがみついた。
「姉さんは、まだ来ないの?」
小さな愚痴に、兄が宥めるように頭を撫でる。
その不器用な優しさに、目を閉じて擦り寄った。
訪れる客が招き入れられる事はない。
すべてを問いただす事がいいのか、このまま黙している事がいいのか分からない。
聞く度に記憶を消され、この場所でままごとの続きをする二人の意図が分からない。
でも兄も姉も私を大事にしてくれている事だけは確かだ。二人の優しさが本物なのは、痛いほどに分かっている。
だから私も二人を大事にしたかった。
「何かお話しして。姉さんが来るまで」
服の裾を引いてお願いをすれば、仕方がないと抱き上げられる。ラグの上に座る兄の膝に乗せられて、昔々、と静かに語り始める兄に凭れて目を閉じた。
何も知らない、無邪気な妹のふりをしていた。
20240921 『大事にしたい』
9/22/2024, 5:33:34 AM