星も月も見えない、暗い夜。
先導するように少し先を行く蜘蛛の片割れを、人の形を取った猫に手を引かれ少女が追う。
三人の間に会話はない。不自然なほど静まりかえる獣道を、誰一人気にかける事もなくただ歩いていた。
不意に蜘蛛の足が止まる。
その視線の先、目的とした池の畔に佇む影を認め、蜘蛛の纏う空気が鋭くなる。少し遅れて追いついた猫も、影を見る眼が鋭くなり。
けれどただ一人、少女だけは表情を変える事なく真っ直ぐに影を見つめていた。
影に向かい足を踏み出し。しかし猫の手に引かれ、止められる。
「壱《いち》。駄目だぞ。あれからは人の匂いがしない」
「日向《ひなた》の後ろでおとなしくしていろよ。余計な事をすんな」
警戒する蜘蛛と猫に、少女は戸惑うように引かれた手を見つめ。
二人を見て、静かに微笑んだ。
「大丈夫。あの人はきっと私達の邪魔はしない。だから行かないと」
少女の言葉に猫は目を瞬かせ、もう一度影を見る。
こちらに気づいているが、何かを待つように動かない影に、なるほど、と頷いて少女と目線を合わせた。
「壱は平気か。後悔したり疵になったりはしないか?」
「しない。きっと行かない方が後悔するから」
「そうか。なら行っておいで。気をつけて」
小さく笑って手を離す。
それに蜘蛛は微かに眉根を寄せるが何も言わず、影へと向かう少女を静観した。
「来ると思っていたよ。来なければいいとも思っていたが、仕方がない事だ。彼女を取り込みに来たのだね」
哀しく微笑む影に、少女は首を振って否定する。
予想していたものとは違う答えに、影は少女を見守る猫と蜘蛛を見て僅かに表情を和らげた。
「そうか。ならば邪魔をしなくていいようだ。頑固者の君がよく考えを改めてくれた」
そっと頭を撫でる。幼子を褒めるように慈しむ手に、少女は目を細めて微笑んだ。
擦り切れた記憶の断片に残るそれと変わらない温もりに、懐かしい呼び名が唇から溢れ落ちる。
「おとうさん」
「まだ私を父と呼んでくれるのだね。愛しい子。記憶でしかない私には過ぎたる言葉だが、記憶であるが故に伝えられるものもある」
首を傾げる少女に影は――父と呼ばれた男は静かに笑い、目線を合わせた。
「あの悪夢の日に言えなかった言葉を返そう。――ただいま、玲《れい》」
瞬きを一つして。
記憶が巡る。熱と、痛みと、悲しみに落ちていく意識を繋ぎ止める、必死な声を思い出す。
男の言葉の意味を正しく理解して、少女は泣くように微笑った。
「おとうさん、おかえりなさい」
あの日の言葉を繰り返す。
腕を広げた男に抱きつき、いつかのようにその首元に擦り寄った。
優しく抱き留め髪を撫でられ、少女はおとうさん、と名を囁く。その表情に涙はない。あの日の再現には必要ないものを、少女はひた隠して目を閉じた。
「壱」
凜とした猫の声が少女を呼ぶ。
名残惜しい気持ちに気づかないふりをして男から離れ、振り返った。
少し離れた場所に座る本来の姿の猫の元まで近づき、その体を抱き上げる。目を細めて少女を見上げ、猫はなぁ、と小さく鳴いた。
「壱。瑪瑙《めのう》の準備が終わったと銅藍《どうらん》が言っている。始めるぞ」
「分かった。おとうさん、」
正しく名を呼べる記憶である男に対して、続く言葉に迷う。感謝か謝罪か、それともあの日の続きの言葉か。
逡巡し口を閉ざす少女に、男は静かに笑って首を振った。
「私にはもう別れの言葉だけでいい。それだけで十分だ」
その言葉に少女は一つ頷いて。
ふわり、と綺麗な微笑みを浮かべた。
「さようなら。おとうさん」
「あぁ、さよならだ」
優しい眼差しに別れの言葉を溢す。
縋るように猫を一撫でして、背を向ける。静観する蜘蛛の元まで戻るとお願いします、と頭を下げた。
それに蜘蛛は何も答えず。表情もなく男の佇む池まで歩き出した。
「申し訳ないが、水の底にいる彼女に私を届けてはくれないか。慰めくらいにはなるだろう」
「自己満足か。反吐が出るな」
頭を下げ差し出された本を、蜘蛛はくだらないと吐き捨てる。しかし猫の手前無碍には出来ず、半ば奪い取る形で本を受け取った。
「すまない。巻き込んでしまった事を深くお詫びする。しかしあの子のために力を貸して頂ける事に感謝する」
舌打ちしながら本を検め、害がない事を確認し。そして蜘蛛は侮蔑を浮かべた眼で、男に問う。
「あんたがあれの生に執着したのは、あれの言葉があったからか?」
「いや。ただ私が弱かったからだ。一人になる事に、目の前で喪う事に耐えられなかった。どんな形であれ、側で生きていてくれる事だけが、あの時の私の生きる理由だったのだ」
悲しく、空しく男は笑う。
それを蜘蛛は嘲笑し、男の罪を突きつけた。
「あんたに言っても仕方がないが、一つ教えておいてやるよ。あいつはもう二度と人には戻れない。あいつの魂は人を忘れ、呪になった。人に戻れず、妖にも成れない。あんたのくだらない執着の結果がこれだ」
息を呑み項垂れる男を、蜘蛛はそれ以上言葉を紡ぐ事なく見下ろし。
霞み消えていくその様に、表情一つ変える事なく背を向けた。
「それでも、私は認められなかったのだ。あの子の未来を、私のために泣く事を我慢して笑う優しい娘を諦めきれなかった」
噛みしめるような呟きを、蜘蛛はくだらない、と一蹴した。
池に向かい蜘蛛は立つ。
手には男から託された本と、小さな白磁の壺。
記憶である男の依代。水の底に沈んでいる娘の名を与えられた化生を封じた壺。
壺に繋いだ蜘蛛の糸を池に落とし、暫くしてから壺と本を落としていく。
沈んでいく二つを見下ろし、水の底の狂骨が壺を認識して取り込んだのを確認して残していた糸を切った。
ぽつり、と。
暗い空から細かな雨が降り始める。
蜘蛛を、少女と猫を濡らし、すべてを濡らしていく。
激しさはない。静かに降り続ける雨は、何故だか少女の泣く様を思い起こさせた。
振り返る蜘蛛の視線の先には、雨に慌てる猫とそれを宥める少女の姿。
雨に濡れてはいるが、その頬に涙はない。
一つ息を吐く。頭を振って雨を振り払い。
二人の元へと歩き出した。
2024917 『空が泣く』
9/18/2024, 6:47:58 AM