sairo

Open App

夜も明けきらぬ早朝。
深い谷底を見下ろして、一人声を上げた。

「参りました」
――まいりました

遅れて返る声に、僅かに眉を潜め。求めたものとは異なるそれに、確かめるよう再び声を上げる。

「参りました」
――まいりました

「主は居られぬのでしょうか」
――あるじはおられませぬ

「主はいつお戻りになられますか」
――あるじはまだおもどりにはなられませぬ

そうか、と呟いて、そうか、と返る声を聞きながら、はてさてどうしたものかと思案する。
主が不在であるのなれば、おとなしく出直すべきであろう。主が戻られた際に、改めて参れば良い。
しかしいつ戻られるか分からぬのであれば、出直すとしたとてそれがいつであれば良いのか分かりようがない。

此度の生は運良く頑健な体に産まれ落ちる事が出来たが、記憶を戻すまでに長い年月を要してしまった。
出直すにも限りがある。後数十の年月で体は弱り、そうしてまた死を迎える事になるのであろう。
況してや此処は深き山奥だ。暫くすれば雪に閉ざされ、春の雪解けを待たねばならぬ。
限られた日数で果たして主に参る事が出来るのか、一抹の不安を覚え。
そんな己を笑うように、ひょう、と風が通り抜ける。

「主に供はあるのでしょうか」
――あるじにともはありましょう

「主の供は声を聞く事が出来るでしょうか」
――あるじのともはこえをきくことができるでしょう

目を閉じる。瞼の裏の暗闇には何も見えず。
目を開ける。未だ夜の気配の残る薄暗い周囲は、瞼の裏とさほど変わりがないように思える。

「私の声は、主に届くでしょうか」
――あなたのいのりはあるじにとどくでしょう

息を吸い、吐く。冷えた空気が五臓六腑に染み込んで、惑う心を落ち着かせる。
もう一度目を閉じ、彼の主へ思いを馳せて声を上げた。

「主。我らが王よ。我らの滅びに抗い続けた尊き神よ。我が身は滅べど我が魂は、思いは潰える事なく。此度も遅ればせながら参りました」

声は返らない。応えは必要ない。

「此度の生も、許無く主を奉る無礼をお許し下さい。主の元へ参り、その眠りを妨げる我が罪を憐み下さい」

強く吹き抜ける風に、目を開ける。
谷間の向こうに見える光に目を細めた。

彼誰時。
まもなく夜が明ける。朝が訪れる。

「我が魂に刻まれた主の記憶は、時と共に薄れております。此度も戻すまで長い時を要しました。いずれは記憶を戻す事無く、主を忘れ生きる事でしょう」

それは次の生か。はたまたその次か。
いずれにせよ、忘却する結末に変わりはない。己はかつての虐げられた過去を忘れ、我らのために命を賭して戦い続けた主を忘れていくのだろう。

それは哀しい事だ。だがそれは哀しいほどに正しい事でもある。
歴史とは常に勝者が正しく、敗者は悪でしかない。そこにどんな思いがあれど、敗れ屍となった者が語る言葉は何一つないのだから。

「忘れるまでのこの一時を、主を奉り想う事で慰めとする、我が傲慢をお許し下さい」

記憶にも残らぬ、我らが在ったという証。
この谷底に眠るであろう数多の骸はすでに土に還り、残るものは何一つないのだろう。

「また参ります」

深く一礼する。
踵を返し、昇る日を背に歩を進め。

一陣の風が、吹き抜けた。

――いのりはとどきました
――あるじへこえはとどきました
――はなをつけぬつばきのおさめるちにおまいりください
――とじたせかいのそとがわのやしろにおまいりください
――こまいぬなきやしろにおまいりください


――あるじがおいでになられます

振り返る。そこには滲む日の光しかない。
姿はなく、形もない。

しかし返る言葉ではなく。はっきりと。
声が、聞こえていた。



20240925 『形の無いもの』

9/25/2024, 11:11:05 PM