姿のない声が聞こえていた。
男の少し後ろをついて歩く。どこに向かうかは何も知らず。
ただ姿のない声が、楽しげにこの先に何があるのかを伝えてくれていた。
「疲れたか?」
静かな問いに、首を振って否を答える。
少しだけ開いた距離を、疲れだと思われたようだった。首を振り、声の聞こえる方へ視線を向ければ、それだけで言いたい事は伝わったのだろう。一つ頷くと、また背を向け歩き出した。
「もう少しだ」
背越しの言葉に、見えてはいないと知りながらも頷きを返す。思うように意思を伝えられぬ事に歯がゆさを感じながら、せめて遅れるわけにはいかないと追う足を少しだけ速めた。
声を失ったのは、もう一年も前の事だ。
朝目覚めると、唇からは掠れた吐息しか出ず。どんな薬を煎じても、どんな祈祷を行っても声が返ってくる事はなかった。
姿のない声達が、奪われたのだと囁いていた。夜に紛れて声を奪ったのだと。
楽しげに、悲しげに、歌うように奪われたと繰り返す。
途方に暮れていれば、師であり、父であり、兄である男に促され、出立の準備を整えて。
あれからずっと、当てのない旅を続けている。
「ここだ」
男の足が止まる。
追いつき背越しに見れば、巨木の根元に半ば埋まるようにして在る石碑。
一歩、男が歩を進めたその刹那。
視界が揺らぎ、すべてが変わる。
「やぁやぁ、ごきげんよう。どこぞのまつろわぬ神よ。此度は何用で参られた」
男のような、女のような、美しい誰かが巨木の枝に座り声をかける。
「この子の声を、返して頂きたく」
男は一言それだけを告げ、臆する事なく誰かを見据えた。
男の答えが以外だったのか。枝に座る人物はこてり、と首を傾げ。
次の瞬間には、声を上げて笑い出した。
「そうかそうか、斯様な事で参られたか。だがそれの声は、我らにとって害あるもの。我らを惑わせ、狂死させる呪い。簡単に返すわけにはいかぬ」
笑いながらもこちらを見るその眼は、鋭く冷たい。下手に動けば一瞬で切り裂かれてしまいそうな危うさに、本能的な恐怖で体が震え出す。
「なれば致し方なし」
震え硬直する体を引き寄せられ、視界が男の体で塞がれる。見られたくないものがある時の行為に、慣れたように耳を塞ぐ。塞いだ耳越しに尚聞こえる声に、顔を顰めさらに耳を塞いで只管に聞こえないふりをした。
促され、耳から手を離し男から離れると、そこにはもう誰もおらず。
黒に染まった石碑と、焦げ落ちた巨木の枝があるばかりであった。
「何?」
「戻ったな」
言われ、気づく。
いつの間にか声が戻ってきていた。
「行くぞ」
それだけを告げ、男は歩き出す。
その背を追って同じように歩き出した。
声はかけない。問う事もしない。
聞いた所で答えてくれた事はない。それにあの人物が言った言葉が不用意に声を出す事を躊躇わせた。
―― 惑わせ、狂死させる呪い。
呪いだと、あの人物は言った。誰かを狂わせるのだと。それが人ならざるモノだとしても、誰かに害をなすその事実が酷く胸を締め付ける。
少しだけ声が戻った事を後悔して、男の行為を徒爾にする事に気づき頭を振って否定する。
「心を砕くな。詮無き事だ」
「はい」
男の言葉に返事を返す。
ただそれだけの行為に、訳もなく嬉しくなって小さく笑みを溢した。
答える事が出来る。その手段が一つでも多くある事で、不安定な心が落ち着いた。
ふと、先ほどからいつも聞こえていた姿のない声が聞こえない事に気づく。
思わず立ち止まり、周囲を見渡す。見えはしないと分かっていても、それでも何か見えはしないかと目を凝らす。
立ち止まった事に気づいた男が同じように立ち止まり、けれど振り返る事なく声をかける。
「膜を張った。声は聞こえず、届く事もない」
「膜?」
手を伸ばす。見えないそれは、やはり触れる事も出来ないようだ。
「声の対価だ」
首を傾げ、少し遅れてその意味を理解する。
声を返してもらう代わりに、声の呪いを届かぬようにしたのか。聞こえない事に一抹の寂しさはあるものの、それならば仕方がない。
頷いて、少し開いた男との距離を早足で縮め。男は再び歩き出す。
「ありがとうございます」
感謝の言葉に返る言葉はない。しかし幾分か歩みが緩やかになった事に、心の内で感謝の言葉を繰り返す。
声は聞こえない。どこへ向かうか何も知らず。
けれど不安は何一つなく。
ただ男の後を着いて歩く。促されるままに、旅を続けていく。
20240923 『声が聞こえる』
9/23/2024, 11:40:51 PM