sairo

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「留学するの」

いつものように訪れた彼に、彼女はスケッチブックから目を離す事なく淡々と告げる。

「ふうん。いつから?」
「来年の春から一年間」
「そう」

適当な相づちを打ちながら、彼は描き終わったばかりのスケッチブックを一枚一枚めくっていく。
一つとして同じもののない夕日をめくり、一枚だけ異なる陽の絵に目を留めた。

「朝日?」

白黒の世界に広がる、柔らかな朝の日差し。目覚め始めた街の光景。
目を細めて見入る彼に気恥ずかしさを覚え。彼女は彼の手の中のスケッチブックに手を伸ばす。

「返してよ」
「いいじゃん。一年も会えなくなるんだし、俺にちょうだい?」
「やだ」

欲しいと強請られ、さらに恥ずかしくなる。無理矢理取ろうとするその手は、しかし彼との身長差もあり届く事はなく。背伸びをしたり、飛び跳ねたりと必死になる彼女に小さく笑い、また一枚ページをめくった。

夕日。様々な場所で描かれた、白黒の太陽。
それでも見入れば色鮮やかな光景が、ともすれば音が聞こえてくるようで。恐れにも似た感情に彼は微かに息を吐いた。

また一枚、ページをめくる。
だがそこに描かれたものを見て、彼から笑みが消え動きが止まった。

「なに、これ」
「え?…っ、それ、は」

呟く声にスケッチブックを見て、彼女の表情が変わる。
止まる彼の手から無理矢理スケッチブックを取り上げ胸に抱きながら、気まずげに俯いた。

「人物画、苦手だって言ってなかった?」
「これ、は。違うの。悪いと、思ってたし。謝ったから」

欠けた月の照らす夜道。鳥籠を抱いて歩く一人の人物。
今まで彼女が描いてきたものとは、少なくとも彼が見てきたものとは全く違う絵。

彼は以前彼女が言った人物画を描かない理由の嘘に、静かな怒りを覚え。
彼女はその絵が許可を取ったものではない事に対して、言い訳を繰り返す。
微妙にすれ違う言葉に、お互い気づく事はない。


「ねぇ。俺の事も描いてよ」

不意に彼が彼女の腕を掴み、視線を合わせて囁いた。
彼の手の熱にぎくり、と固まり。逃れようと視線が彷徨う。

「春までの半年間。俺の事を描いて」

重ねて願う言葉に、スケッチブックを抱く腕に力が籠もる。
頷く事は出来なかった。春が来るまでの半年間、肯定する事で訪れる彼との時間が怖かった。
しかし否定する事も出来ず、唇を噛みしめて黙り込む彼女に、彼は静かに描いて、と繰り返す。

「俺に嘘ついて、置いていくんだから、これくらいいいだろ?」
「それは。そう、だけど」
「じゃあ、描いて。いい加減にちゃんと俺を見てよ」

戸惑いに彷徨い続ける視線を、掴んだ腕を引かれて合わせられる。
間近で見る彼に顔が赤くなりながら、久しぶりに顔を見たと、どこか冷静な部分で思う。
最後にちゃんと見たのは、姉が彼以外の人と付き合う前だったか。もしかしたら高校生だった時かもしれない。

「ちょっと、近いって」
「駄目。一度も俺の事見なかったんだから、逃げないで。自分の気持ちに区切りをつけるためだけの最低な告白した事、まだ許してないからね」

真っ直ぐな彼の視線と言葉に、体が強張る。
自覚はない。いつだって彼を目で追っていたはずだ。ただ確かに独りよがりな告白をしたのは事実で、意味が分からず混乱する。
それを見て、彼は小さく息を吐いたようだった。

「あの時、断られる事を期待した告白をされて、俺がどんな気持ちだったか分かる?」
「あ、ぅ」
「ずっと側にいても、見てもらえないし。挙げ句の果てに嘘をつかれて、知らないやつの絵を見てる、今の俺がどんなに惨めなのか気にもしないよね」

首を振る。違うのだと、いつでも気になるのだと声にならないながらも否定をする。
何か言わなければと思いながら、何を言えば分からずに、意味の伴わない呻きが漏れ。
結局は謝る言葉しか出てはこなかった。

「ごめん、なさい」

俯きそうになる顔を、視線を逸らす事を、けれども許してはもらえずに。
涙の膜の向こうで滲む彼を、彼女は必死で見つめ返していた。

「なら、春までの半年。俺にその時間をちょうだい。あんなすぐに沈んでいくだけの夕日じゃなくて、俺や俺と一緒に見た景色だけを描いていて」
「え、と。それっ、て」
「それで春が来たら、もう一度俺に告白してよ。半年間、一緒にいた俺に気持ちを聞かせて」

言葉の意味を理解して、先ほど以上に顔が赤くなる。
何も言えない彼女にいいね、と答えを促して。小さく頷く彼女に、彼もまた満足げに頷いて笑った。


「今度の休み、出かけようよ。紅葉の綺麗な所があるんだ」
「それって。一緒、に?」
「当たり前だろ。今更何言ってんの」

彼女の小さな呟きは、呆れた彼の言葉にかき消される。

逃げられないこれからの半年間を思って、暴れ出しそうな心臓をスケッチブック越しに押さえつけた。



20240922 『秋恋』

9/23/2024, 5:25:30 AM