sairo

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この窓から見える景色が、彼女のお気に入りだった。

窓枠に手をつき、外を見る。
外は生憎の雨。重苦しい曇天が、音を立てて振る雨が視界を狭め、憂鬱な気分を連れてくるようだ。
ゆるりと頭を軽く振って、窓から離れる。彼女ではない自分には、この景色のどこに惹かれたのかは分からない。

――この窓を通して見る世界はね。淡い色彩を纏っているのよ。

くすくすと笑いながら、あの日彼女は窓を見た。つられて見た窓から見える景色は、やはり外に出て見る景色と何の変わりもないように見えていた。

――晴れの日にはね、風が楡のまわりで楽しそうに踊っているの。曇りの日には、雲が歌を歌っていてね。そして雨の日には、雨の絵の具が世界の色を少しだけ濃くしていくのよ。素敵でしょう?

どんなに時が流れようと、年月が彼女を大人にしようと、彼女の少女のような純粋さは変わらないままだった。頬を染めて楽しそうに、幸せそうに微笑む彼女の姿が瞼の裏に灼き付いて、今でも鮮やかに浮かび上がる。
けれどこうして同じように窓の外を見ても、彼女と同じものは一度も見えはしなかった。楡も、風の姿も、雲の声も、雨の色も。自分には何一つ見える事がない。

彼女の眼が特別なのか。この窓が特別なのか。あるいは両方か。
特別な彼女と、特別な窓。二つが重なり合う事で、その特別が見える形になったのか。
だから特別では無い自分は、彼女と同じものが見えないのだろうか。

窓の側に置かれたテーブルの縁をなぞり、椅子に座る。彼女が好んで過ごした場所に、同じように腰掛ける。
窓の外を見る。やはり雨に濡れてくすんだ景色が見えるだけだった。



「父さん」

いつの間にか、部屋の入り口に立っていた息子に呼ばれ、振り返る。時間になっても戻らぬ自分を呼びに来たのだろう。
時計を見れば、この部屋に訪れてからすでに三十分以上も時間が経っていた。

「すまない。もうこんな時間か」
「気にしないでいいさ。父さんこそ大丈夫か。なんせ、急な事だったし」

言葉を濁し曖昧に笑う息子になんと言葉を返したらいいか思いつかず、ただ首を振る。立ち上がり息子の側に寄れば、彼女によく似た琥珀色の瞳が僅かに赤く腫れているのが見て取れた。
人知れず泣いていたのだろう。目尻に残る滴を拭えば驚いたように目を瞬いて、恥ずかしげに目を細める息子の頭を軽く撫で引き寄せると、暫くして声を殺して泣き始めた。
こんな時でさえ自分に気を遣う息子に、申し訳ないと思う。まだ親の庇護が必要な子だというのに、頼りにするべき親がこんなでは素直に泣く事も出来ない。
頭を撫で背をさする。不器用なそれが少しでも慰めになれば良いと思いながら、彼女ならばこんな時にどうしたかを考える自分の弱さを嫌悪した。

「大、丈夫だって。お、れは大丈夫、だから」

腕を伸ばし無理矢理離れ、息子は涙の残る目で笑みを形作ってみせる。先ほどよりも赤みが増した目が痛々しい。

「無理はするな」
「だって、母さん。ほんと、に、寝てる、みたい、だった、から」

大丈夫だと。苦しんだわけではないのだろうからと、息子は笑う。
彼女の最期を目にして、それでも自分のために笑おうとする息子が只管に苦しかった。
息子から目を逸らして振り返る。窓の外を見、テーブルと椅子を見た。

そこで彼女は亡くなった。
眠っているようだったと息子は言う。午後の日差しに微睡んで、そのまま眠るように逝ったのだろうと、医者は言った。
そうか、と納得し。残ったのは虚ろな心と寂しさだった。
穏やかに時を止めた彼女。夢見る少女のような可憐な彼女は、もうどこにもいない。


「ごめっ、ちょっと、出てくる。父さん、は、まだ、ここに、いて」

気を遣い、出て行こうとする息子の手を取り引き止める。

「一緒に行こう。話がしたい」

驚く息子に、できる限り優しく笑ってみせる。
滅多に表情を変える事のない自分の笑みは相当可笑しなもののようだった。呆けたように口を開けて自分を見つめる息子にいたたまれなくなり、掴んだままの手を軽く引く。はっとしたように口を閉じ、気まずげに目を逸らした息子に、知らず笑みが深くなる。

「話、って。なに?」
「何でも良い。友達の事とか、学校の事とか。趣味でも何でもいいから、話をしよう」
「父さんは?何、話して、くれるの」

息子の問いに、考える。自分が話せるものなどあっただろうか。
思えば息子と二人きりで話す事など、数えるくらいしかない。普段は彼女が間に入り、自分は常に聞き役に回っていた。
考えて、部屋を見回す。この部屋で思い出せるのは彼女の事ばかりだ。

「昔の母さんの話、とか。後は、そうだな」

つまり惚気か、と呆れ笑う息子から視線を逸らすように窓を見る。
どこにでもある、窓。変わらない、外の景色。

彼女によく似た息子には、どんな風に映っているのだろうか。

「この窓の外の景色が、母さんには特別に見えて、俺には普通に見えるくらいだな」
「景色?」

つられて息子も窓の外を見る。
その横顔には、彼女と違い笑みはなく。凪いだ琥珀が、揺らいでいた。

「俺にも、普通の庭、に見える。大きな、楡の木のある。ただの、庭」
「…そうか」

呟いて、息子を促し部屋を出る。

閉まる扉の向こう側。あの窓の外で、彼女が微笑っている気がした。



20240926 『窓から見える景色』

9/26/2024, 11:40:45 PM