sairo

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9/12/2024, 9:36:38 PM

目覚めてすぐに、テーブルの上の卓上カレンダーを確認する。
今日の日付に印はない。
少し気落ちしながら部屋を出て、朝の仕度を始める事にした。

またいつもと同じ、退屈な今日が始まり。未練がましくカレンダーを見ても、やはり日付にはなんの印も書いていない。
いつまで待てばいいのかと、愚痴をこぼしてカレンダーをつつき。いつもの時間通りに家を出た。


目が覚めてすぐにカレンダーを見る習慣は、どれくらい前から始まったのか。覚えていないそれは、けれども切っ掛けだけは今もはっきりと覚えている。

大切だった人からもらった贈り物。
花が好きなわたしのため、暦に合わせた花が彩りを添える、綺麗なカレンダー。
二人でカレンダーをめくり、笑い合いながら記念日に印をつけていったあの日の記憶は、忘れる事など出来るはずがない。
だから本当は、印をつけた日付はすべて覚えているし、あと何日後に何があるのかも分かっている。そもそも一月ごとにめくるカレンダーなのだから、確認するまでもなく印があるかないかは見えていた。
今日の日付に×印をつけ、なんの印もついていない日付をなぞる。
日めくりのカレンダーならば少しは空しくなくなるのかと、意味のない空想に耽りながら、変わらないであろう明日を思って目を閉じた。



目覚めてすぐ、カレンダーを確認する。
今日の日付に、ピンクのペンで可愛らしく丸がついていた。

記念日。ずっと待っていた特別な日。

うれしくなって、いつもよりも時間をかけて身だしなみを整え、お気に入りの白のワンピースに袖を通す。
カレンダーをバックに入れて、特別な赤い靴を履いて、跳ねるように家を飛び出した。


記憶をなぞるように思い出のカフェで朝食を取る。二人で何度も訪れた映画館へと足を運び、目に付いた映画を見た。
昼食は取らずに公園を散歩して、水族館で好きだったアシカのショーを見て。
夕方になって、花束を買った。色鮮やかな、夏と秋の合間に咲く花を手に、星がよく見えるようにと高い所へと上っていった。
一番高い所から、星空を見上げる。

今日は特別な日。ずっとずっと待っていた。

足を踏み出す。
空が近くなった気がして。そのまま、


「はい。そこまで」

腕を引かれる。
ぱちん、と何かが割れるような感覚がして、ふわふわとしていた意識がはっきりする。

今わたしが立っている場所を見て、ぞっとした。
マンションの屋上。フェンスの向こう側。
足下に広がる街の小さな景色に、足が竦んで動けなくなる。

「悪いな。少しだけ我慢してくれ」

腕を引いてくれた誰かの声に振り向くよりも早く、引き寄せられて浮遊感を感じ。
気づけばフェンスの内側で座り込んでいた。

「もう大丈夫か」

見上げれば、黒い男の人。
その手には見慣れたカレンダーがあり、半ば無理矢理奪うような形でカレンダーを取った。

日付を確認する。変わらずそこにはピンクの丸が書かれていて。
その丸がぐにゃりとゆがんで形を変え、文字を形作っていく。

落ちればよかったのに。

暗がりの中でも何故かはっきりと見える文字に、引き攣った声がもれてカレンダーを放り出した。
かさりと音を立てて落ちたカレンダーを男の人は拾い上げ、書かれた文字を見る。あぁ、と何かを納得したように小さく頷くと、文字を見せるようにしてカレンダーを差し出された。

「もう許してやってくれ。仕方のない事なのだから」

許すとは何を意味しているのだろう。
カレンダーを見れば、文字はまた形を変えて広がって、カレンダーを埋め尽くしていく。

許さない。落ちてしまえ。

「わ、たし。あの人に、恨まれている、の?」

怒りしか感じられないその文字達に、掠れた声がもれる。
あの人が怒っている所なんて今まで見た事がなかった。いつも怒るのはわたしの方で、あの人は少し困った顔をしながら、そんなわたしをなだめてくれていたから。
そんな優しいあの人をここまで怒らせた。憎み恨ませてしまったのか。

呆然とするわたしに、けれど男の人は静かに首を振って否定する。

「これは誰の文字だ?」

誰の。その言葉に文字を見る。
丸みを帯びた、少しクセのある字。あの人のお手本みたいに綺麗な文字とは、全然違う。
でもこの文字を、わたしはよく知っている。直そうとして、結局直す事の出来なかった文字をわたしは知っている。

これは、わたしの文字だ。

そう理解した途端、耐えきれなかった涙が溢れてきた。
思い出した。思い出してしまった。
今日がなんの日なのか。この場所がどこなのか。
カレンダーを見る習慣。その意味も全部。

「許してやれ。お前が悪い訳じゃない」

泣きじゃくるわたしに、男の人は優しく許してやれ、と繰り返す。
そんな事出来るわけがない。

わたしをわたしが一番許せないのに。


泣きながら、許さない、と声を上げる。わたしへの恨み言を何度も繰り返す。
繰り返して、けれど次第にそれは寂しい、の言葉に変わり。
結局の所、わたしはあの人がいない事が寂しいだけなのだと知った。


ごめんね。ありがとう。

カレンダーの文字が変わった事にも気づけずに、あの人がいない事にただ泣いていた。



20240912 『カレンダー』

9/11/2024, 3:23:36 PM

書庫の奥。今までなかったはずの戸を見つけ、男は怪訝に顔を顰めた。
戸に鍵などはなく。開けて中を確認すべきか否かを思案する。

ここの書庫に収まる本は、男が前の世で犯した罪のすべてだ。
様々な呪法が記された本。前の世の男が行ってきた呪の経過の記述。
目を背けたくなるほどの数々に、けれど男はその罪の償い方を、断ち切る術を探して足繁く通い書物を読み込んでいた。ただ一人の少女のために。

前の世の記憶は酷く曖昧だ。書庫さえ見つけなければ、書物を手に取らなければ、男は忘れたままでいられたのだろう。あるいは書庫を閉じ無かった事にしてしまえば、過去は過去として男を苛む事はなかったはずだ。
しかし男は過去を辿る道を選択した。それは偏に男の旧知の友が男に信を置き、縋るように彼の一人娘を託されたからだった。
初めて出会う、だが同時に懐かしさを感じる娘。原因の分からぬ病を抱え、常に死に引かれ続けていた彼女を最初は友の信に報いるためだけに手を尽くし。その過程で書庫に辿り着き、そこで得たのが前の世の記憶の断片であった。
思い出してしまった己に、声が聞こえた。娘の影から聞こえる複数の声に耳を傾ければ、それはかつての呪いを歌う少女達のものである事に気がつく。娘を現世に留め続けている少女達は変わらず己を慕い、娘についてすべてを教えてくれた。
かつて為し得なかったはずの外法。作られた狂骨。

すべてが前の世の己が犯した罪の結果だった。


戸に触れる。確かに存在している戸は、昨日まではなかったものだ。暫し迷う手は、それでも最後に戸を開ける選択をし、手をかける。
戸が現れた理由も、その先に何があるのかさえ男には分からない。だがこの書庫の奥にある部屋だ。娘を助けるための何かを求め、静かに戸を引いた。



そこは窓のない、薄暗い小さな部屋だった。
寝台と、文机と、書架。
寝台の側に置かれた灯り一つで、辺りが認識出来るほど狭い寝室。

違和感に男の表情が険しくなる。
灯りが、ついていた。
己以外が訪れる事のない、況してや男自身も今初めて入る部屋に、仄かな灯りが点っていた。

足を踏み入れる。
舞い上がる埃が、長い間誰の訪れもなかった事を示し、さらに男を警戒させた。
寝台。文机。書架。
視線を巡らせる。やはり何も、誰もいない。

当たり前だ。あの子はまだ帰ってきてはいないのだから。

不意に過る思いに、男の動きが止まる。
誰の事を言っているのか。思い出せない空白に、手がかりを求めて書架に収まる書物に手を伸ばし。

「開いてしまったのか。あの子の身が損なわれたか。否、見立てが崩れたか…どちらにしても、あの子の終わりは近いのだな」

呟く言葉に、そこで初めて文机に向かい座る誰かがいる事に気づく。

「誰だ?」

男の問いに答える事はなく。
おもむろに立ち上がり振り返る誰かの姿を認め、男は息を呑んだ。
凪いだ表情で男を見る誰かは、前の世の若かりし頃の男そのものだった。

「お前は、儂か…?」
「お前が言うのであれば、そうなのだろう。確かにお前は私に近い」

男の言葉を否定せず、しかしはっきりと肯定もしない誰かはだが、と言葉を続け目を伏せる。

「私はもう死んだのだな。ならばあの子はもう、ここを離れてしまったか」
「お前は、誰だ」
「記憶だよ」

再度の問いに、抑揚の薄い声音が答える。
記憶と名乗る誰かは視線を上げ凪いだ表情に薄い笑みを浮かべ、書架から一冊の書物を取り出した。

「この部屋で眠っていたあの子の経過を記した本を記憶に見立て、作られたものだ。最後の呪で私があの子を認識出来なくなった時のための保険だったが、部屋自体を閉じられてしまったから意味はなくなってしまったな」

表紙を撫でながら自嘲する記憶に、一切を思い出す事の出来ぬ事に胸が痛みを覚えた。
欠落し空いた穴を、無理矢理塞いで見えないようにするような、そんな錯覚を覚え吐き気がする。

「あの子、とは」
「忘れているのであれば、そのままでいる事がお前にとっては幸せだろう」

吐き気を堪え問う男の言葉に、けれど記録は答える事を否定する。

「何故?」
「知った所で、あの子は帰らぬからだ」
「そんなはずはない」

淡々と告げられた言葉に、男は反射的に否定する。
胸の痛みが段々に強くなり、眩む視界に膝をつきながらも思い出せない欠落を、その隙間に僅かに残る断片を必死にたぐり寄せた。

「違う。あの子は帰ってくるはずだ。あの子が最後に口にしたのは別れの言葉ではなかったのだから。だから帰ってこなければいけないのだ」


行ってきます。そうあの子は言ったのだから。

あの子が誰かも思い出せず、それでも否定する男を記憶はただ凪いだ瞳で見つめ。
暫くして、手にしていた書物を男へと差し出した。

「あの子を思い出したとて、何も変わらない。この記録がすべて読めるのならばあの子はすでに亡く、読めぬともここを離れたあの子をこれ以上留める術はない。それでもよいのか?」
「構わない。知らなければならないものだ」
「そうか」

手渡された書物を開き無心で読み始める男を見、記憶は静かに立ち上がる。

男とあの子の間に何があったのか。呪を施したあの子はどうしたのか。
この部屋以外の記録を、記憶は有していなかった。

戸の外へと視線を向ける。書架とそこに収まる書物を認め、部屋を出た。
この部屋を閉じた後の記録があるはずだと、書物を探す。
すぐに見つかった書物を手に取り、表紙をめくる。

その記録の先に男の罪がある事を、記憶は知らない。
同じように男の読み耽るその記録が、すべての始まりだと男はまだ気づけない。


そうして記録を読み終えた二人が得たものは、望んでいたものではなく。
愛しい娘をなくした喪失感だった。



20240911 『喪失感』

9/10/2024, 4:37:53 PM

「世界に一つだけ。あなただけの特別を」

繰り返される言葉と、にこにこと笑う店員に腕を引かれ、少女は店内へと足を踏み入れた。

白磁のティーセット。青の宝石の美しいネックレス。分厚い装飾の本。
外からは何の店かは分からなかった店内には様々なものが所狭しと並べられ、やはり何の店なのかは分からない。
古いからくり時計。牡丹の紋様の描かれた振り袖。黒いリボンの麦わら帽子。
店員に促され、腕を引かれて奥へと進む。物言わぬ店内の商品が店員と少女を見ている気がした。


「さて。ここは世界に一つだけの、あなただけの特別と出会える、特別な場所でございます」

変わらぬ笑みを浮かべる店員は、少女を椅子に座らせて奥の棚から一つの箱を取り出す。
蓋を開けて少女の目の前に中身を置くと、店員は笑みを深めて囁いた。

「これはあなたの特別。あなた以外の誰のものでもない、唯一の特別ですよ」

長い黒髪を一つに結った、あどけない微笑みを浮かべた人形。箱から出され足を投げ出して座る人形は、その虚ろなガラスの眼で少女をただ見つめていた。

「いかがでしょう。お代はあなたの灯火を少々。たったそれだけでこれがあなたの特別になるのです」

にたにたと笑みを貼り付け、店員は尋ねる。
けれど少女は表情一つ変えず、何も言わずに人形へと手を伸ばし。

「いらない。これは私の特別なんかじゃないわ」

否定の言葉と共に指先で人形の額を押し、座る人形を倒した。

ぴしり、と音がなる。
何かがひび割れたような、小さな音が店内に響く。
動きを止めた店員の顔が歪み、亀裂が走る。

「私のあの子はこんな木偶じゃない。偽物なんかいらない」

ぴしりぴしり、と音が響く。
少女が否定を口にする度に音は大きく、店内のあちらこちらから聞こえ始め。

気づけば店内にあるものすべてがひび割れ、店員は音もなく崩れ落ちていった。


「あの子以外は何もいらないのよ」

崩壊する店内には目もくれず、少女は出口へ向かい歩き出す。
ひび割れ崩れていく商品達の、恨む言葉は彼女には届かない。突き刺さる嫉妬の視線を、彼女は意にも介さない。
縋る多くの腕を振り払い、少女は一度も足を止める事なく店を出た。



「すごいな。何も持たずに出てこれたのか」

店から去って行く少女のその背を見送り、思わず苦笑する。
化生に誘われ店に入っていった時はどうするべきかと悩んだが、程なくして身一つで出てきたのだから、それは感嘆に値するものだ。

「あれにとって、必要なものがはっきりしていたというだけの事。執着は時として人間を妖と成らせるのですから、入れ込まぬように」
「さすがにこれ以上、しかも人を増やしはしないさ」

腕にしなだれかかる彼女の頭を撫でながら、大丈夫だと宥め。若干ではあるが機嫌の直ったらしい彼女は、鼻を鳴らしそっぽを向いた。

「それならばいいのです。お前はおとなしくわっちの望む通りに動きなさい」

分かっている、と肯定する。
あえて言われなくとも、こうして望むままに彼女の供をしているのだから今更な事だ。
小さく笑みを浮かべ、ふと改めて少女が出てきた店を見る。

色あせた、テナント募集の張り紙が、ここが長い間無人であった事を伝えていた。

「世界に一つだけの、自分だけの特別ねぇ」
「意味が分かりません。世界には唯一が溢れているというのに、何故人間はこうも愚かなのでしょう」

金と青の瞳が嘲るように歪む。
己自身が唯一であるにも関わらず、新たに己だけの特別を求める事が心底理解出来ないのだろう。

「まぁ、世界に一つとか、特別とかの言葉が魅力的に聞こえるんじゃないか?優越感というやつだ」
「くだらない。人間という矮小なものが優劣を競った所で、何になるというのですか。まったく嘆かわしい」

神である彼女には、人の繊細ともいえる感情の機微を理解できない。くだらないと一蹴したそれが、人を鼓舞し、嫉妬を生み、時には人を簡単に変えてしまう事を、知り得ない。
たとえ理解した所で結局は愚かだと嘲るのだろうなと、意味のない事を考えながら腕を軽く引いた。

「そろそろ行こうか。まだ行きたい所があるんだろう?」
「そうですね。行きましょうか」

しなだれかかっていた腕を掴み、先導して歩き出す。
久しぶりの遠出。行きたい所は決まっているのか、彼女の足は迷う事はない。
彼女に連れられながら、意識を切り替え歩き出す。

足早に遠ざかる二人の影がゆらりと揺れて。
いつしか猫を抱く一人の影に変わっていった。



20240910 『世界に一つだけ』

9/9/2024, 10:22:10 PM

「いいか。屋根の上とか、縁側とか。あとこういった草原が昼寝には最適だ」

真面目な顔をして、猫はごろりと寝転がる。

「ほら。壱《いち》もちゃんとやってみろ」

促されて、戸惑いながらも少女は猫と同じように寝転んだ。
草の香りが鼻腔をくすぐり、思わず深く息をする。

「これが、好き?」
「猫は好きだ。暖かくて、気持ちがいいからな」
「暖かくて、気持ちがいい」

猫の言葉を繰り返して、目を閉じる。
もう一度深く息をして。日の暖かさと草の柔らかな匂いに、ともすればすぐにでも眠ってしまえそうな心地よさに小さく微笑んだ。

「うん。私もたぶん好き」
「そうか。いいぞ。それは壱の好きだ。他にもたくさん探さないとな」

体を起こし少女を見つめ、猫は満足そうに頷く。

「あとは、おいしいとか、楽しいとかも好きだな。目が覚めてきている今の壱なら、分かるはずだ」
「目が覚めた?」

音を開け猫を見て不思議そうな顔をする少女に、気づいていないのか、と猫は笑う。

「壱の匂いが人間に近づいている。変な名のせいで否定されていた壱が表に出てきているんだ」

猫の言葉に少女は瞬きを一つして、腕を伸ばし両手を見つめる。手を握り、開いてから腕を下ろし、自身を包む草に触れて、確かに、と小さく呟いた。

「今まで壁越しに感じていたものと違って近く感じる」
「壁があったのか?」
「壁、というか仕切りのような。見て聞いているものを、映像として見ているような感じかな。こうして何かに触れていても、柔らかいとか暖かいとかの情報として伝わるから好きとかはきっと分からなかった」
「そうだな。変な名だった時の壱なら、猫が好きだから好きとか答えていただろうな」

ふん、と鼻をならし、酷い名をつけるなんて酷いやつもいたものだ、と猫は憤慨する。
それを違うよ、と笑って少女は否定して。記憶を辿るように空を見上げた。

「きっとね、それしか方法がなかったんだよ。ずっと謝る声が聞こえていたから」

呟いて、目を細める。記憶を懐かしむように、愛おしむようにあのね、と猫に囁いた。

「思い出せた事があるんだ。お母さんの作るご飯がおいしいとか。お兄ちゃん達が教えてくれる遊びの楽しさとか。お父さんが帰ってきて、ただいまって抱き上げてくれる事が一番うれしいとか」
「壱は家族が好きなんだな」

ぽつりと呟いた猫に、少女は体を起こして首を傾げる。
好き、と繰り返す少女はまだその意味を理解しきれていないのだろう。猫はそうだと頷いて、猫の大切な子らを思いながら口を開いた。

「猫は銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》も好きだ。ずっと側にいたいし、大切にしたい。二人が楽しいと猫も楽しいし、二人が悲しいと猫も悲しくなる。そういったきらきらした気持ちが好き、というやつだ」
「そっか。私は皆が好きなんだ。何か、すごく暖かい」
「好きは暖かいものだからな」

段々に人の匂いの強くなっていく少女に、猫は上機嫌で喉を鳴らす。
少女を構成するほとんどが零れ落ち、空っぽだった中身が暖かいもの、優しいもので埋まっていく。それは水の中で光を反射して光る石のように、きらきらと煌めいて猫の目を楽しませた。
新しいものを知っていく少女のその表情は、初めて見た時とは大きく違い、穏やかでありながらも鮮やかで。子の成長はいいものだ、と蜘蛛の二人が聞けば呆れ苦笑する言葉を呟いて、少女へと腕を伸ばす。
いい子いい子と頭を撫でてやれば、けれど少女はどこか苦しげに眉根を寄せた。

「撫でられるのは嫌いか?」

思っていたのとは異なる表情。猫は目を瞬き尋ねれば、少女は首を振って否定しながらも、眉を寄せたまま己の胸元に手を当てた。

「分からない。暖かくて気持ちがいいのに、それと同じくらい胸が苦しくて痛くなる」

痛みを訴える少女を覗き込み。少女の言葉と微かに聞こえる鼓動に、そういうことかと猫はにんまり笑う。

「当たり前だ。壱は生きているのだから。生きるのは痛いんだ」

ゆらりと揺らめいて、人から猫の姿へと戻り。
背筋を伸ばして少女の目の前に座り、尾を揺らす。

「ほら、猫を抱いてみろ。猫は妖だが、猫だからな。暖かくて気持ちがいいぞ」
「え。でも」

戸惑う少女の膝に前足を乗せ、その手に擦り寄った。
早くしろ、と催促されて猫へと伸びる手は、恐る恐る猫の頭を一撫でしゆっくりと体を抱き上げる。

「暖かい」
「そうだろう。猫とはそういうものだ。短い生を全力で生きている。猫は長く生きすぎて妖に成ってしまったが、猫である限りそれは変わらない。壱も生きているから、ちゃんと暖かいぞ。痛くて暖かいのが命だからな」

抱き上げられて強く聞こえるようになった鼓動に、耳を澄ます。猫よりは遅く、それでも人の常よりは速い音は、生きていると叫びながらも、寂しい苦しいと泣き喚いているようにも聞こえた。

「私、まだ生きているんだ」
「生きているな。疲れたのか?」
「そうだね。少し疲れたかもしれない。でも最後まで見届けないと。それに神様と約束もしたし」

疲れた、と言いながらも、まだ動き続けようとする少女を見上げ、猫は体を伸ばしてその頬を舐める。
ざらりとした猫の舌の感覚に驚いたように体を震わせ。猫を見る少女の目に虚ろがない事を確認して、猫はもう一度頬を舐めた。

「な、に?なんか、ざりざりする」
「猫の舌はそういうものだ。それよりもそれはちゃんと壱の望みなんだな。それならば猫は壱の手助けとなろう。猫は壱のオヤだからな」

最後に少女の頬に擦り寄ってから、腕を抜け出し人の姿へと変わる。

「ほら、戻るぞ」
「親って…まあ、いいか」

差し出された手に、少女は諦めたように息を吐いてからその手を重ね、立ち上がる。
体中についた草を気にするよりも早く、駆け出す猫に手を引かれながら。

いつの間にか痛みの治まった胸に、繋いでいない手をそっと当てた。



20240909 『胸の鼓動』

9/8/2024, 10:07:50 PM

指先が空を撫で上げ、つま先は地を抉る。
地を蹴り、空を求め彷徨うその様は、まるで踊っているかのように見えた。
実際、踊っているのだろう。雲を、雨を呼び寄せるそれは、雨乞いの儀で執り行われる人間の舞によく似ている。
遙か遠くの空に雨雲を見て、そのまま地に横になる。
見上げる空はまだ暗く、朝は当分来そうにもない、


「どうした?」

欠けた月をぼんやりと見つめていれば不意に月が陰り、見慣れた顔に覗き込まれる。
終わったのかと無感情に思う。出迎えるべきだったのだろうが、何故か今は何もする気が起きなかった。

「終わったの」
「そうだな。まだ遠いが」
「まだ続けるの?」

溢れ落ちた問いは想定外のもののようだった。当たり前か、と胸中で呟いて目を閉じる。
それが役目であり、そのため在る存在にいつまでと聞くのは詮無き事だ。

「どうした。何かあったか?」
「何も。ただひとりで行う事に意味があるのかなって。そう思っただけ」
「そうだな。皆いなくなってしまったからな。だがそれが役目だ」

優しく頭に、頬に触れる手は何一つ変わらず心地良い。

「丙《ひのえ》。こうして一緒にいられる事がとてもうれしい。でも一緒にいられる時間が長くなればなるほど、人間に必要とされなくなっている事を思い知って悲しいの」
「人はもう己一人の足で歩いていけるほどに、賢く強くなったのだ。その過程で不必要となったモノは消えるのが定めだろう」
「それならわたしが先に消えればよかった。辛《かのと》が残ればよかったのに」

消えた兄弟を思う。己とは違い役目に忠実だったのだから、己のように疑問など抱かず最後までいられたであろうに。

「庚《かのえ》」

穏やかで優しい声が呼ぶ。
それでも今は目を開けて顔を見るのは出来なかった。
その優しさはひとりの己には毒にしかならない。その痛みに泣いてしまう。

「このまま皆いなくなって。四節が巡らなくても、人間は生きていけるのかな」
「どうだろうな。だがすべて等しく終わりはあるだろう。それが人であっても、世界であってもだ」
「寂しいよ。全部がなくなってしまうのが。わたしたちを愛し、尊んでくれた人間の想いも何もかもが終わってしまう事が哀しいよ」
「庚」

再び呼ばれ、観念して目を開ける。
呆れているのではとも思ったが、声と同じく優しい顔が静かに己を見ているだけだった。

促されて立ち上がる。
見上げる空は雨雲が広がり、暫くすれば細い雨を降らせるのだろう。

「庚。季を移そう。丙から庚へ。夏から秋へ。此度も実り多き秋となる事を願っているよ」

頬を包まれて額に口づけられる。
内に灯る仄かな温もりが、役目が来た事を告げていた。

「丙。季は移った。緩やかな眠りをもたらす冬が来るまでは、しっかりとお役目を果たすよ」

頬を包んでいた手が頭に触れ、髪を撫ぜられる。
その心地よさに目を細めて、ありがとう、と小さく呟いた。

「季は無事に移ったが、帰り道は開かんな。まだしばらくは庚と共にいよう」
「彼岸の時には開くかな」
「どうだろうな。開いてくれればいいのだが」

帰れない事を憂う顔を見ないふりをしながら、強く手を握りしめる。
共にいられる時間をうれしいと思ってしまう己の弱さに呆れ、嫌悪する。
そんな己の手に気づき、両の手で丁寧に解かれ、大丈夫だとそっと手を撫でられた。
不安に思っているのだと、そう思われている事に苦笑して、大丈夫だよと答えを返す。

「行っておいで」

そっと背中を押され、駆けだした。
ぽつりと落ちた水滴が頬を濡らし、次々に振る雨が体を濡らす。
その冷たさに浸りながら、腕を伸ばして地を蹴った。

指先で雨を従えて、つま先で育まれた命を実らせる。
やがて訪れる冬を迎えるために、少しでも多くの恵みを。

季を巡らせる己の様はきっと、踊るように見えるのだろう。
いつかの人間の子らが奉納した神楽のように。

それが何故だかおかしく思えて、小さく笑みが浮かんだ。



20240908 『踊るように』

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