sairo

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書庫の奥。今までなかったはずの戸を見つけ、男は怪訝に顔を顰めた。
戸に鍵などはなく。開けて中を確認すべきか否かを思案する。

ここの書庫に収まる本は、男が前の世で犯した罪のすべてだ。
様々な呪法が記された本。前の世の男が行ってきた呪の経過の記述。
目を背けたくなるほどの数々に、けれど男はその罪の償い方を、断ち切る術を探して足繁く通い書物を読み込んでいた。ただ一人の少女のために。

前の世の記憶は酷く曖昧だ。書庫さえ見つけなければ、書物を手に取らなければ、男は忘れたままでいられたのだろう。あるいは書庫を閉じ無かった事にしてしまえば、過去は過去として男を苛む事はなかったはずだ。
しかし男は過去を辿る道を選択した。それは偏に男の旧知の友が男に信を置き、縋るように彼の一人娘を託されたからだった。
初めて出会う、だが同時に懐かしさを感じる娘。原因の分からぬ病を抱え、常に死に引かれ続けていた彼女を最初は友の信に報いるためだけに手を尽くし。その過程で書庫に辿り着き、そこで得たのが前の世の記憶の断片であった。
思い出してしまった己に、声が聞こえた。娘の影から聞こえる複数の声に耳を傾ければ、それはかつての呪いを歌う少女達のものである事に気がつく。娘を現世に留め続けている少女達は変わらず己を慕い、娘についてすべてを教えてくれた。
かつて為し得なかったはずの外法。作られた狂骨。

すべてが前の世の己が犯した罪の結果だった。


戸に触れる。確かに存在している戸は、昨日まではなかったものだ。暫し迷う手は、それでも最後に戸を開ける選択をし、手をかける。
戸が現れた理由も、その先に何があるのかさえ男には分からない。だがこの書庫の奥にある部屋だ。娘を助けるための何かを求め、静かに戸を引いた。



そこは窓のない、薄暗い小さな部屋だった。
寝台と、文机と、書架。
寝台の側に置かれた灯り一つで、辺りが認識出来るほど狭い寝室。

違和感に男の表情が険しくなる。
灯りが、ついていた。
己以外が訪れる事のない、況してや男自身も今初めて入る部屋に、仄かな灯りが点っていた。

足を踏み入れる。
舞い上がる埃が、長い間誰の訪れもなかった事を示し、さらに男を警戒させた。
寝台。文机。書架。
視線を巡らせる。やはり何も、誰もいない。

当たり前だ。あの子はまだ帰ってきてはいないのだから。

不意に過る思いに、男の動きが止まる。
誰の事を言っているのか。思い出せない空白に、手がかりを求めて書架に収まる書物に手を伸ばし。

「開いてしまったのか。あの子の身が損なわれたか。否、見立てが崩れたか…どちらにしても、あの子の終わりは近いのだな」

呟く言葉に、そこで初めて文机に向かい座る誰かがいる事に気づく。

「誰だ?」

男の問いに答える事はなく。
おもむろに立ち上がり振り返る誰かの姿を認め、男は息を呑んだ。
凪いだ表情で男を見る誰かは、前の世の若かりし頃の男そのものだった。

「お前は、儂か…?」
「お前が言うのであれば、そうなのだろう。確かにお前は私に近い」

男の言葉を否定せず、しかしはっきりと肯定もしない誰かはだが、と言葉を続け目を伏せる。

「私はもう死んだのだな。ならばあの子はもう、ここを離れてしまったか」
「お前は、誰だ」
「記憶だよ」

再度の問いに、抑揚の薄い声音が答える。
記憶と名乗る誰かは視線を上げ凪いだ表情に薄い笑みを浮かべ、書架から一冊の書物を取り出した。

「この部屋で眠っていたあの子の経過を記した本を記憶に見立て、作られたものだ。最後の呪で私があの子を認識出来なくなった時のための保険だったが、部屋自体を閉じられてしまったから意味はなくなってしまったな」

表紙を撫でながら自嘲する記憶に、一切を思い出す事の出来ぬ事に胸が痛みを覚えた。
欠落し空いた穴を、無理矢理塞いで見えないようにするような、そんな錯覚を覚え吐き気がする。

「あの子、とは」
「忘れているのであれば、そのままでいる事がお前にとっては幸せだろう」

吐き気を堪え問う男の言葉に、けれど記録は答える事を否定する。

「何故?」
「知った所で、あの子は帰らぬからだ」
「そんなはずはない」

淡々と告げられた言葉に、男は反射的に否定する。
胸の痛みが段々に強くなり、眩む視界に膝をつきながらも思い出せない欠落を、その隙間に僅かに残る断片を必死にたぐり寄せた。

「違う。あの子は帰ってくるはずだ。あの子が最後に口にしたのは別れの言葉ではなかったのだから。だから帰ってこなければいけないのだ」


行ってきます。そうあの子は言ったのだから。

あの子が誰かも思い出せず、それでも否定する男を記憶はただ凪いだ瞳で見つめ。
暫くして、手にしていた書物を男へと差し出した。

「あの子を思い出したとて、何も変わらない。この記録がすべて読めるのならばあの子はすでに亡く、読めぬともここを離れたあの子をこれ以上留める術はない。それでもよいのか?」
「構わない。知らなければならないものだ」
「そうか」

手渡された書物を開き無心で読み始める男を見、記憶は静かに立ち上がる。

男とあの子の間に何があったのか。呪を施したあの子はどうしたのか。
この部屋以外の記録を、記憶は有していなかった。

戸の外へと視線を向ける。書架とそこに収まる書物を認め、部屋を出た。
この部屋を閉じた後の記録があるはずだと、書物を探す。
すぐに見つかった書物を手に取り、表紙をめくる。

その記録の先に男の罪がある事を、記憶は知らない。
同じように男の読み耽るその記録が、すべての始まりだと男はまだ気づけない。


そうして記録を読み終えた二人が得たものは、望んでいたものではなく。
愛しい娘をなくした喪失感だった。



20240911 『喪失感』

9/11/2024, 3:23:36 PM