sairo

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「いいか。屋根の上とか、縁側とか。あとこういった草原が昼寝には最適だ」

真面目な顔をして、猫はごろりと寝転がる。

「ほら。壱《いち》もちゃんとやってみろ」

促されて、戸惑いながらも少女は猫と同じように寝転んだ。
草の香りが鼻腔をくすぐり、思わず深く息をする。

「これが、好き?」
「猫は好きだ。暖かくて、気持ちがいいからな」
「暖かくて、気持ちがいい」

猫の言葉を繰り返して、目を閉じる。
もう一度深く息をして。日の暖かさと草の柔らかな匂いに、ともすればすぐにでも眠ってしまえそうな心地よさに小さく微笑んだ。

「うん。私もたぶん好き」
「そうか。いいぞ。それは壱の好きだ。他にもたくさん探さないとな」

体を起こし少女を見つめ、猫は満足そうに頷く。

「あとは、おいしいとか、楽しいとかも好きだな。目が覚めてきている今の壱なら、分かるはずだ」
「目が覚めた?」

音を開け猫を見て不思議そうな顔をする少女に、気づいていないのか、と猫は笑う。

「壱の匂いが人間に近づいている。変な名のせいで否定されていた壱が表に出てきているんだ」

猫の言葉に少女は瞬きを一つして、腕を伸ばし両手を見つめる。手を握り、開いてから腕を下ろし、自身を包む草に触れて、確かに、と小さく呟いた。

「今まで壁越しに感じていたものと違って近く感じる」
「壁があったのか?」
「壁、というか仕切りのような。見て聞いているものを、映像として見ているような感じかな。こうして何かに触れていても、柔らかいとか暖かいとかの情報として伝わるから好きとかはきっと分からなかった」
「そうだな。変な名だった時の壱なら、猫が好きだから好きとか答えていただろうな」

ふん、と鼻をならし、酷い名をつけるなんて酷いやつもいたものだ、と猫は憤慨する。
それを違うよ、と笑って少女は否定して。記憶を辿るように空を見上げた。

「きっとね、それしか方法がなかったんだよ。ずっと謝る声が聞こえていたから」

呟いて、目を細める。記憶を懐かしむように、愛おしむようにあのね、と猫に囁いた。

「思い出せた事があるんだ。お母さんの作るご飯がおいしいとか。お兄ちゃん達が教えてくれる遊びの楽しさとか。お父さんが帰ってきて、ただいまって抱き上げてくれる事が一番うれしいとか」
「壱は家族が好きなんだな」

ぽつりと呟いた猫に、少女は体を起こして首を傾げる。
好き、と繰り返す少女はまだその意味を理解しきれていないのだろう。猫はそうだと頷いて、猫の大切な子らを思いながら口を開いた。

「猫は銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》も好きだ。ずっと側にいたいし、大切にしたい。二人が楽しいと猫も楽しいし、二人が悲しいと猫も悲しくなる。そういったきらきらした気持ちが好き、というやつだ」
「そっか。私は皆が好きなんだ。何か、すごく暖かい」
「好きは暖かいものだからな」

段々に人の匂いの強くなっていく少女に、猫は上機嫌で喉を鳴らす。
少女を構成するほとんどが零れ落ち、空っぽだった中身が暖かいもの、優しいもので埋まっていく。それは水の中で光を反射して光る石のように、きらきらと煌めいて猫の目を楽しませた。
新しいものを知っていく少女のその表情は、初めて見た時とは大きく違い、穏やかでありながらも鮮やかで。子の成長はいいものだ、と蜘蛛の二人が聞けば呆れ苦笑する言葉を呟いて、少女へと腕を伸ばす。
いい子いい子と頭を撫でてやれば、けれど少女はどこか苦しげに眉根を寄せた。

「撫でられるのは嫌いか?」

思っていたのとは異なる表情。猫は目を瞬き尋ねれば、少女は首を振って否定しながらも、眉を寄せたまま己の胸元に手を当てた。

「分からない。暖かくて気持ちがいいのに、それと同じくらい胸が苦しくて痛くなる」

痛みを訴える少女を覗き込み。少女の言葉と微かに聞こえる鼓動に、そういうことかと猫はにんまり笑う。

「当たり前だ。壱は生きているのだから。生きるのは痛いんだ」

ゆらりと揺らめいて、人から猫の姿へと戻り。
背筋を伸ばして少女の目の前に座り、尾を揺らす。

「ほら、猫を抱いてみろ。猫は妖だが、猫だからな。暖かくて気持ちがいいぞ」
「え。でも」

戸惑う少女の膝に前足を乗せ、その手に擦り寄った。
早くしろ、と催促されて猫へと伸びる手は、恐る恐る猫の頭を一撫でしゆっくりと体を抱き上げる。

「暖かい」
「そうだろう。猫とはそういうものだ。短い生を全力で生きている。猫は長く生きすぎて妖に成ってしまったが、猫である限りそれは変わらない。壱も生きているから、ちゃんと暖かいぞ。痛くて暖かいのが命だからな」

抱き上げられて強く聞こえるようになった鼓動に、耳を澄ます。猫よりは遅く、それでも人の常よりは速い音は、生きていると叫びながらも、寂しい苦しいと泣き喚いているようにも聞こえた。

「私、まだ生きているんだ」
「生きているな。疲れたのか?」
「そうだね。少し疲れたかもしれない。でも最後まで見届けないと。それに神様と約束もしたし」

疲れた、と言いながらも、まだ動き続けようとする少女を見上げ、猫は体を伸ばしてその頬を舐める。
ざらりとした猫の舌の感覚に驚いたように体を震わせ。猫を見る少女の目に虚ろがない事を確認して、猫はもう一度頬を舐めた。

「な、に?なんか、ざりざりする」
「猫の舌はそういうものだ。それよりもそれはちゃんと壱の望みなんだな。それならば猫は壱の手助けとなろう。猫は壱のオヤだからな」

最後に少女の頬に擦り寄ってから、腕を抜け出し人の姿へと変わる。

「ほら、戻るぞ」
「親って…まあ、いいか」

差し出された手に、少女は諦めたように息を吐いてからその手を重ね、立ち上がる。
体中についた草を気にするよりも早く、駆け出す猫に手を引かれながら。

いつの間にか痛みの治まった胸に、繋いでいない手をそっと当てた。



20240909 『胸の鼓動』

9/9/2024, 10:22:10 PM