sairo

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9/8/2024, 5:28:10 AM

高らかな猫の一声が、薄暗い社の中に響き渡った。

「猫が来たぞ!猫の子らの力を必要とするのは誰だ?」

ちりん、と真鍮の鈴が鳴る。
蜘蛛に片割れの腕から音もなく降り立ち、無遠慮とさえ思えるほどに堂々と開け放たれた社の中に踏み入れた。だがその足はぴたりと止まる。
猫の視線が社の奥に座る少女の姿を捕らえ、苛立たしげに低く唸り尾を打ち据えた。
後に続く蜘蛛達も、程度の差はあれど同じように眉をひそめた。

「なんだオマエは。ニンゲンのくせにほとんど空っぽじゃないか。オマエが猫の子らの力を必要としているのならば、猫は拒否するぞ。どうせその望みは他のヤツの代弁だろう」

少女を睨めつけ吐き捨てる。
猫の眼には少女の呪は見えていない。だが人としては随分と希薄な気配や纏わり付く微かな死の匂いは、人よりも化生に近い。
人のようで化生のような中途半端な匂いが、猫の本能を騒つかせ警戒させる。

「猫の子?」
「なんだ、違うのか。それならばいい。いいが…ニンゲン。オマエの名は何だ?あと、好きなものを答えてみろ」

猫の言葉に困惑する少女の人の匂いが、少しだけ強くなる。おや、と首を傾げ、警戒しつつも変化に沸いた興味に矢継ぎ早に問いを重ね。
しかしそれを制すように、蜘蛛の腕が猫を抱き上げた。

「駄目だよ、日向《ひなた》。この子の名前はおそらく呼んではいけないものだ。それだけではないのだろうけれど、この子の虚ろは名前が強く関係しているように見えるよ」
「だな。しかも最近、何度か強く呼ばれて虚ろが広がってる。大方ここの祭神が不用意に呼んだんだろ」

そうか、と納得して警戒を解き、するりと蜘蛛の腕を抜け出して少女の目の前に座る。
そして蜘蛛が止めるよりも早く、同じ問いを繰り返した。

「オマエの名を答えろ。それで好きなものも言ってみろ」

猫は単純だ。だが愚かではない。
それを知っている蜘蛛達は、猫の意図を察せずとも静観する。猫の行動はいつも唐突だが、最悪にはならないはずだ。
問われた少女は眼を瞬かせ、首を傾げながらも名を答える。

「零《れい》」

その瞬間、ぞわりとした感覚に猫の毛が逆立った。

「なんだそれは!オマエはここに確かにいるのに、ないとはどういうことだ!だからいろいろが零れていくんだ。駄目だ。猫は気に入らない。だから猫はオマエを壱《いち》と呼ぶ事にする!」

猫の行動はいつでも唐突であり、それ故に誰にも止める事は出来ない。
不快な名が許せず新たに名付けた猫に、蜘蛛達は呆れ、気まずさに顔を覆い。名付けられた少女は壱、と何度か繰り返し痛みを堪えるような表情をした。
猫の叫んだその名に強制力はないが、人ならざるモノに呼ばれる名は呪のように人に絡みつき影響を及ぼす。特に真逆な意味を含んだ名だ。元の名と反発して痛みを生じているのかもしれない。
だが悲しい事に猫は感情の機微に疎く、少女を気にかける事もなく問いかけた。

「壱。好きなものはなんだ。ちゃんと答えてみろ。大事な事だぞ」
「好きなもの」

眉根を寄せつつ、少女は視線を彷徨わせる。記憶を辿り、けれど思い浮かばぬのか、ゆるりと首を振った。

「思い出せない。好きとは、何?」
「分からないのか。零れ落ちすぎて残りがまったくないな。ならば仕方ない。壱は今から猫の子だ!猫がオヤとして、しっかりと教えてやろう!」

猫とは突拍子もないモノである。
慌てる蜘蛛達を歯牙にもかけず、瞬く間にその姿を人の形へと変化させ少女の手を引き立ち上がらせた。

「ちょっと待て。勝手に子を増やすな。ここに来た目的は呼ばれたからだろうが!」
「猫は難しい事は分からない。そっちは銅藍《どうらん》と瑪瑙《めのう》に任せる。大丈夫だ、銅藍も瑪瑙もすごいからな。猫と違って難しい話も分かるし、何でも出来るから何も心配いらない。それに嫌な事は嫌と言えるんだ。壱も二人みたいに、しっかり好きと嫌いを言えるようにならないとな」

蜘蛛に答えながらも、猫は娘の手を引く事を止めない。
猫は一度決めた事は曲げない。それを知る蜘蛛の二人は諦めたように溜息を吐き、相変わらずな猫に苦笑した。
「気をつけてね。その子は人間なのを忘れないで」
「問題ない。後は銅藍も瑪瑙に任せるから、気に入らなければ戻ってくるといいぞ。そうしたら皆で帰ろう」

社を出て行く猫と少女を見送って、蜘蛛は不快に顔を顰め、憐憫さに目を細めた。

「おい、説明しろ。何だあれは。気持ち悪い」

ゆらりと空気が揺らめき、社に奉られた神が姿を現す。
腕を組み蜘蛛を見下ろすその表情は険しく、不機嫌さを隠しもしない。

「貴様らには関係のない娘だ。呼び寄せた狐は外におる故、疾く出て行け」
「日向が連れて行った。関係はあるだろうが。それにあんな生に執着した餓鬼の呪が、俺らの猫に危害を加えないとも限らないしな」
「口を慎め、土蜘蛛。妖に成ってまで生に縋ったのは貴様らも同じであろう」

忌々しいと舌打ちをし。殺気立つ蜘蛛に、しかしもう一人の蜘蛛は冷静に銅藍、と片割れの名を呼んだ。

「たぶん前提が違う。あの子は望んで呪を施されたわけではないよ」
「抵抗した感じはなかった。拒絶はしていないだろう」
「気づけないんじゃないかな。本質はずっと眠っているように見える。時々目覚めていたのかもしれないけれど。今のあの子は呪の後の伽藍堂に元の子の記憶と周りに応え続けた結果が入り込んで出来たものだよ」

蜘蛛の言葉に片割れの殺気は収まるが、嫌な事を聞いたと目を逸らす。
神は何も言わず。しかし幾分か険しさが和らいだ表情で、見定めるように蜘蛛を見ていた。

「それが日向が呼んだ名前によって、眼が開いた。まだ覚醒はしていないけれど、痛みを覚えるくらいだ。少しは満たされていくだろうね」
「目覚めを告げる猫ってか。恐ろしいな俺らの猫は」
「日向だからね」

くすりと笑い、神を見る。

「僕達の猫と片割れが失礼しました」
「構わぬ。外で狐が待っておる。行くとよい」

険しさも不機嫌さも消えた神は、一つ頷いて社の外を指し示した。
一礼し、社の外へと向かう。その背を見送り、神は静かに眼を閉じた。


「始まったか」

始まりを告げた猫は自由気ままに、娘を人へと引き戻し。
猫の子らである蜘蛛は、狐に連れられた人の子の望みに応えるだろう。

変わらない。娘と出会い、視た未来《さき》と何一つ。
これが最良かは、始まってしまった今となっては知りようがない。


せめて娘に訪れる別れが、その痛みが少しでも和らげばと思うのみだ。



20240907 『時を告げる』

9/6/2024, 3:01:04 PM

海を見ていた。

立ち止まり動く事もなく、ただあの子の幻を探して海を見ていた。
涙はもう涸れ、叫ぶ声も嗄れた。何故を繰り返して、あの子の側まで来てしまった。

海の底はどんな所なのだろう。光のない暗闇で、走る事は出来るのだろうか。
あの子が追いかけてこれないのならば、先を急ぐ必要はない。あの子のいない地上は息苦しいだけで、もう歩く事すら苦痛だった。

追いかけて来れないのならば、こちらから迎えに行くのもいいのかもしれない。
ふと、そんな意味のない事を考える。けれどそれは何よりも甘く魅力的な誘惑だった。

一歩だけ、進んでみる。
この広い海で、たった一人のあの子を探すのはきっと骨が折れるだろう。だけど今まで振り返るでも、ましてあの子を待つ事などしてこなかったのだから、一度くらいはあの子を探しに行くのもいいのかもしれない。

一歩、また一歩と進んで、打ち寄せた波が足を誘う。生ぬるい海水が今はとても心地良い。
あの子が呼んでいるのかもしれない。私を見失ってどこにも行けずに泣いているのだと思うと、行かなければと気が逸る。

「まだ生きているのに、沈んでしまうの?」

女の人の声が聞こえ、隣を見る。いつの間にか隣に立つ濡れた女の人は、不思議で仕方がないといった表情で私を見ていた。

「あの子が待っているの」

途中で諦める事なく努力をし続けてきていた事を知っている。だからせめて迷っている間だけは、待っていてもいいだろう。立ち止まるくらいはしてもいいはずだ。

「追いかけないと」

けれど、続いた言葉は思っているものと逆だった。
言葉にして、納得する。
私はいつだって、先に進みながらもあの子を追いかけていた。
あの子が私の背中を追いかけるために続ける努力を、追いつかれないように追いかけ続けていた。
そうだ。だからあの子のいない今、追いかける目標を失って立ち止まるしかなかったのか。
思い出して、納得して。枯れたと思っていた涙がまた溢れてくる。

「寂しいの?会いたいの?」
「寂しいわ。逢いたいに決まっている」
「そう。じゃあ、これを貸してあげる」

逢いたいと泣きじゃくる私に女の人が差し出したのは、白い貝殻。海の音が聞こえるそれを受け取ると、耳を寄せて目を閉じた。

波の音。海から、貝殻から聞こえる音が混ざり合い、響き合う。音が絡まり、その絡まりの隙間からたくさんの声がざわざわと囁いている。
笑う声。嘆く声。願う声。
知らない誰かの声達が脳を揺さぶり、世界が歪む。波のように押し寄せるたくさんの想いが、私を呑み込み壊していく。
ぐらり、と傾く体。けれど倒れ込むその瞬間に聞こえた一つの声に、目を開いて足に力を入れた。

「もっと速く。あの星に追いつけるほどに疾く」

あぁ、あの子はまだ追いかけているのか。海の底で一人きりで。
貝殻を耳から離し、口を近づける。
届かないだろうけれど、あの子が今も追いかけてくるのならば、伝えたい事があった。

「もしもし。聞こえてないかもしれないけれど、ひとつ言っておきたいから勝手に言うわ」

出来るだけ冷静を保つ。最後まであの子の憧れでいたいから。泣いて立ち止まっているなんて、知られたくはない。

「私はこれからも進み続けるわ。あなたがいなくても、一人きりになっても立ち止まったりはしない。それが私だから。だからこれでさようなら」

進み続けると言いながら、きっともう進めない事は分かっている。
それでも別れを告げなければ、あの子はずっと私のいない場所で、私の幻を追いかけ続けるのだろう。
そんな事、たとえ幻であっても許せなかった。

ぎゅっと唇を噛みしめ、もう一度貝殻を耳に当てる。ざあざあと海の音に混じって、あの子の柔らかな声が聞こえてくる。

――さようなら、と。


別れの言葉を最後に、貝殻からは海の音しか聞こえなくなり。
耐えきれずに、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫?」
「大丈、夫じゃ、ないっ。大丈夫じゃ、ないわよ」

溢れ落ちる涙を止める事が出来ない。しゃくり上げながら、心配そうに身を屈めた女の人に縋った。
別れの言葉がこんなにも苦しいものだとは知らなかった。追いかけて逝く事を許さないその五文字が、今は悲しく恨めしい。

「なん、で。なんでよ。なんで、いない、の。おい、ていか、ない、で、よっ!」

あの子のいない私はこんなにも弱い。行く先に伸びたあの子の影法師が、きっと私だったのだ。
影だけでは、あの子がいなければ、進む事など出来るはずがない。

「逢いに沈んでしまいたい?」
「いか、ない。いけない、わ」
「そう。偉いのね」

女の人の手が何度も背中を撫でる。逢いたくても逢いに逝かない私の選択を、偉い事だと褒めてくれていた。
その優しさに、彼女の海の匂いにさえあの子を重ねて、縋る手に力がこもる。

打ち寄せる波が、体を濡らす。
いっそこのままさらっていってくれればいいのに、と。
彼女に縋り、支えられながら、未練がましく馬鹿な事を思っていた。



20240906 『貝殻』

9/5/2024, 2:38:31 PM

紺色の夜空に流れる星を見つけ、駆けだした。

もっと速く。あの星に追いつけるほどに疾く。
けれどもどんなに速く走ろうと、星は遠く離れていき。瞬きのままに消え失せた。

限界を迎えた手足が動くのを止め、その場に崩れ落ちる。
荒い息を整えながら、仰向けになり見上げた空は、どこまでも遠い。

もう何度繰り返したのだろうか。届くはずのない星を追いかける、この意味のない行為を。
十を超え、百を超えて。もう千すら超えただろうか。もう分からない。
届かない。今までも、これからも。それこそ永遠に届かなくなってしまった。
本当は諦めてしまうべきだと知っている。星を見ないように目を閉じてしまうのは簡単で。けれど追いかける事を止めてしまうのはとても恐かった。

星がまた一つ流れて行く。
あともう一度。もう一度だけ追いかけたら、今度こそ終わりにしよう。
ゆっくりと体を起こし、星を探す。燦めく無数の星が、今は何故かぼやけて見えた。


星が流れる。
それを追いかけようとして。けれど流れて行く先が、自分の方だと気づいて足を止める。
近づいてくる。自分には追いつけなかった、風のような、光のような疾さで星が向かってくる。

強い白の光に目を灼かれ、思わず閉じる。
赤に染まる暗闇の中、ずっと追いかけていた声が聞こえた。

「もしもし。聞こえてないかもしれないけれど、ひとつ言っておきたいから勝手に言うわ」

淡々とした声音。どんな時も冷静に状況を判断していた常に前を行く頼もしい背を思う。
振り返る事のない、油断していればすぐに見えなくなってしまう、流星のように燦めき先へ行く彼女の背はいつだって自分の憧れであり、目標だった。

「私はこれからも進み続けるわ。あなたがいなくても、一人きりになっても立ち止まったりはしない。それが私だから。だからこれでさようなら」

一方的な言葉は、いかにも彼女らしい。
くすり、と笑みを溢し、ゆっくりと目を開けた。
白の世界の遙か遠くに、追いかけ続けた彼女の背。最後まで振り返る事がないのだなと思うと、寂しさよりも安堵に似た気持ちがこみ上げ、そっとその背に向けて呟いた。

「うん。どこまでも先に進んで行って。誰よりも憧れた、燦めく星のようなあなたでいてね。次があるとしたら、きっとまた追いかけるから。だから今はさようなら」

別れを口にして、そして初めて自分から彼女に対して背を向けた。

白の世界から離れていき、元の紺色の夜の世界まで歩いていく。久しぶりにゆっくりと歩いたような気がして、なんだかとても不思議な感覚だった。

道の先、小さな少女に目を止めて。
お迎えを待たせていたなと、少しだけ小走りになる。

「ごめんなさい。待たせてしまった」
「いいの…もう、大丈夫?」
「うん。大丈夫」

小首を傾げて問われた言葉に、苦笑して答える。
もうだいぶ待たせてしまっていたのに、文句ではなく心配の言葉なのが申し訳ない。
差し出された手に、手を重ね。導かれるままに歩き出す。


「追いつきたかったな」

不意に、ぽつりと溢れた本音。
立ち止まりこちらを見上げる少女に、なんでもないと首を振った。

「ごめん。大丈夫だから。ただやっぱり追いつけなかったのは少し悔しくて」
「悔しい?」
「悔しい。だから次に行く」

たとえその先で会えなくても構わない。
このまま進む事の出来ないこの場所で、追いつけない星を追いかけるよりはずっといいから。
彼女は先に進むのだと、立ち止まる事はしないと言ったのだから。

だからちゃんと前に進まなければ。

「行こう。悔しさも憧れも全部、ここに置いていくから。大丈夫、ちゃんと一人で進めるから」

もうこんな所で迷わない。そう笑って告げれば、少女は頷いて手を引き歩き始める。
今度は止まらない。空を見上げて星を探す事もない。
進むために邪魔なものは捨てていける。

少女に手を引かれる先。その暗闇は、どこか優しくて。
終わりとはこんなにも穏やかなのかと、初めて知る夜の暖かさに目を細めた。



20240905 『きらめき』

9/4/2024, 1:59:23 PM

「捨ててきなさい」
「そこをなんとか」
「捨ててきなさい」

取り付く島もないとはこの事か。
冷たく見下ろすその視線は、一切の妥協を許そうとしない。低めだが艶のある声は、こちらの言い分を聞く事なく、すべてをはね除ける。

「だがすでに契約が」
「そんなもの。鋏で切ればいいでしょう」

ふん、と鼻をならし、苛立ちを表すように長くしなやかな尾が揺れる。
傍らにいる犬が小さくなりながら、しゅん、と項垂れた。

「分かった。ゴシュジン、ごめんね。ありがとう」
「ささら。すまんな」

屈んで犬の頭を撫でる。
予想はしていたが、こうも頑なだとは思わなかった。仕方なく買い物袋から缶詰を一つ取り出し、犬を供に玄関へと向かう。せめてもの餞別だ。本来は猫用ではあるが、ただの犬ではないのだから問題はないだろう。


「おい。ちょっと待て」

低い唸るような声が呼び止める。
先ほどまでの艶やかさは一切見られない、粗雑な声音。振り返れば、瞳孔の開いた金と青のオッドアイが手にした缶詰を見つめ、唸り声をあげた。
これは、もしかするといけるかもしれない。

「他にも買ってきているから、一つくらいは」
「何言ってやがる。それはこのわっちへの供物だろうが。一つたりとて畜生に与える事は許さんぞ」

我が儘である。
買い物袋の中にはまだ同じものが数個残っているというのに。一つすら惜しいというのか。
だが今回ばかりはこちらもすべてに頷く訳にはいかない。なにせ犬の今後がかかっているのだから。

「ささらのせめてもの餞別だ。捨てろと言われ捨てに行くのだから、これくらいはしても許されるはずだろう。況してこれは俺の給金で買ったものだ」
「わっちと交渉気取りか、餓鬼が。それでわっちが受け入れるとでも?」
「駄目ならば、別に部屋を借りるつもりではある。その場合、こちらとあちら交互に通う事になるが」

完全な思いつきであるが、良策かもしれない。
少しばかり懐が痛むが、この街で新しく部屋を借りるだけならば、とても簡単な事だ。
二重生活も、慣れれば何とかなるだろう。

「くだらない。わっちから離れた貴様がまともに生きられるものか」
「何もそう長い間離れるわけじゃない。精々が一日程度だろう」
「それほどまで、そこの畜生を気にかけるか。くそが」

吐き捨てて、したん、と長い尾が床を強く打つ。
それほどまでに嫌なのか。どうするべきか、と犬へと視線を移しかけ。

視界が反転、した。

「ゴシュジン!」

慌てる犬を手だけで制す。
頭を打ったためにぐらつく視界に、殺気立つ長身の美丈夫が映る。
金と青が忌々しげに細められ、首に手が触れた。
じわじわと甚振るように、その手に僅かに力が込められる。

「社の管理のために生かしている事を忘れるなよ、くそ餓鬼。貴様の変わりなんざ、いくらでもいる。このままこの首、へし折ってやろうか?」

完全にお怒りである。
だが悲しいかな。これも我が家の日常の一コマというやつだ。
この猫は、些細な事ですぐ気を悪くする。昨日までは良かったものが、今日急に駄目になる事などよくある事だ。
よくあるからには、当然宥め方も知り得ているわけで。

「千歳。またたびも、買ってきた。粉のやつと、木のやつ。両方」
「は?またたび…」

動きが止まる。金と青がゆっくりと瞬いて、次第に殺気も収まっていく。
買い物袋に視線を向ければ、同じように視線が動き。

ゆらり、と揺らめいて、美丈夫は元の猫の姿に戻る。

「今回は特別に見逃してあげましょう。次はない。努々忘れる事のないように」

視線は買い物袋に向いたまま、それだけを告げると音もなく元の定位置であるキャットタワーの上に戻っていく。
詰めていた息を吐き出して、ゆっくりと体を起こした。

「ゴシュジン。大丈夫?」
「問題ない。いつもの事だ」

殺気に当てられて未だ震えの止まらない犬を一撫でし、立ち上がる。
いつも、と呆然と呟く犬には申し訳ないが、ここで暮らす以上慣れてもらうしかない。

買い物袋から木の方のまたたびを取り出し、猫へと放る。綺麗に咥えて喉を鳴らす音を聞きながら、手にしていた缶詰と他に購入していたものをしまい、一息吐いた。

「そこの犬には言い聞かせておくように。ここはわっちの縄張り。気に入らぬ事があれば、すぐさま噛み殺します」
「大丈夫だ。話はここに来る前にしてある」

喉を鳴らして木に体をなすりつけている姿は、取りあえず見ないふりをする。機嫌を損ねる要素はできる限り取らない方が賢明だ。

「俺は部屋に戻る。食事は遅めで構わないな」
「いいわ。その間に躾けておきなさい」


犬を伴い、部屋へと戻る。
ベッドへと腰掛け、心配そうな犬を膝に乗せて大丈夫だと頭を撫でた。

「ボクの知ってる猫じゃなかった。恐かった」
「まぁ、猫の姿をしているが、中身はあの神社の神さんだからな」

人の絶えた神社にいた、荒魂の性格の強い神。
縁あって何故か我が家で猫の生活を満喫しているが、神である事には変わりはない。

「ここで生活していくならば、さっきの事はよくあるから慣れてくれ。機嫌を損ねると、すぐにああなるから」
「頑張ってみる。ゴシュジンと一緒にいるために、ボクちゃんといい子にする」

頑張れ、と思いを込めて背を撫でる。
犬が慣れる頃にはきっと、猫も慣れてくれるだろう。
些細な事ですぐに機嫌を損ねるが、一度懐にいれたものに対してはあれで優しい所もあるのだから。

それまでに少しでも好感度を上げておくべきかと思いつつ。
疲れ痛みを訴える体を休ませるため、犬を抱いて横になった。

「ゴシュジン?」
「少し、疲れた」

枕元にある時計のアラームを30分後にセットし、目を閉じる。
取りあえず、今は少しでも寝た方がいい。

「これが鳴って起きなかったら、起こしてくれ」

起きた後のやるべき事を思いながら、意識が遠のいていく。

「分かった。ボクに任せてゆっくり寝てね。お休み、ゴシュジン」

頼もしい返事に安心し、そのまま短い眠りについた。



20240904 『些細なことでも』

9/3/2024, 2:49:08 PM

気づけば知らない場所の床で、横たわっていた。
痛む体を無理矢理起こす。狭い室内は調度品など何一つなく、やはり見覚えはない。

「目覚めたか、娘」

背後からかけられた声に振り返る。

「神様」

怒っているような、哀しんでいるような不思議な顔をした神が、音もなく近づき眼を覗き込まれる。
金に揺らめく瞳に映る自分は表情が抜け落ちて、まるで人形の様だ。

「望みを言え。お前が真に望むものは何だ?」
「彩《さい》が救われればそれでいい」
「救われるとは何を意味する?」

重ねて問われ、困惑する。
何を考えているのかが分からない。救いはそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。
妖と成った彼女と、その一部でありながら人として生きている彼女。妖と人の間で繋がったままの糸を切り、それでいて人の方の彼女がそのまま人として生きられる事。それは救いではないのだろうか。

「娘が救いたいと望むものは人の方か?あの狂骨は救わぬのか?」
「狂骨は喰らうよ。一緒にいる」
「それは救いになるのか?」

その言葉に、考える。
一緒にいる事。それが救いになるのか否か。妖の彼女にとっての救いとは何であるのか。
考えて、悩んで。出てきた答えは否だった。

「ならない。きっとそれは救いではなく私の自己満足だ。けれどそれ以外の選択肢を、私は持っていない」
「なれば静観せよ。あれは人が作り上げたモノだ。作りし人が救うのが道理であろう…娘、改めて問う。娘の望みしものは何だ?」

改めて望みを問われ、同じ答えを返そうとして。揺らぐ金に口を閉ざす。
きっとそれは求めている答えではない。私自身の望みは他にあるのかもしれない。
他人事のように思いながら、答えを探し記憶を辿る。
過去の私は何を望んでいたのだろう。何を思い、感じて生きてきたのだったか。
金の中にいる今の私はまだ人形のままだ。

「分からない。思い出せない。今は彩が人として生きてくれればそれでいいと望んでいるだけ。それでは足りない?」
「あれが人として生きるとして、娘はそれからどうする?」
「どうしようか…でも彩にさようならはいいたい、かな」

その理由はうまく思い出せないけれど。
昔の記憶は擦り切れ過ぎて、思い出せない事の方が多い。
家族。仲間。寺。呪。
数珠のない今、留めておけなくなった記憶が溢れ落ちて、呪を施された意味すらも思い出せなくなってきた。もう少しすれば文字通りの存在のないものになるのかもしれない。

「我ではなく、椿なれば何を願う?」
「椿に?椿は願うものではないよ」
「願ったであろう。共に祈った子の、最期の時に願ったものがあるはずだ」

記憶を辿る。擦り切れた記憶の断片を掻き分けて、共に祈ったあの子との記憶を探す。
椿に意味を持たせた子。母と逸れ、幼い弟を連れて辿りついた強い子。母と弟を亡くし、泣き方を忘れてしまった悲しい子。
思い出を巡る。共に椿に祈り、あの子だけが成長し大人になって。妻になり母となっても、私を友と呼んで側にいた。最期の時も一緒にいて、狭間まで共をして。そして、すべてが終わった後。椿の所に行って。
あの子が眠れるように祈って。それから。

「願った。二度と心を傾けるような、そんな大切な人と出会いませんように、って」
「それは何故だ?」

金の中にいる私が、ようやく表情を崩す。泣くのを堪えるように顔を歪め、唇を噛みしめて。
胸の奥が痛くて、熱い。人形から迷子の子供になったみたいだ。

「何故そんな哀しい願いを口にした?」
「だって、嫌だったから。置いていかれるのは…一人になるのは嫌だった」
「そうか。よく言えたな」

ふわり、と優しく微笑んで、頭を撫でられた。
幼い子供にするように、いい子と繰り返し褒められる。
もう片方の手が目尻をなぞって涙を拭われ、そこで初めて泣いている事に気づいた。

「俺が共にいてやろう。お前の望む通りにあれを人として生かす術を与えてやる。だがそれだけだ。動くのは他に任せ、ただ見届けろ」
「でも、」
「他に動くものがいる。問題ない…すべて見届けたら、俺の眷属になれ」

眷属。神の。彼の。
泣いてぼんやりとする思考では、その言葉の意味が正しく理解出来ない。

「名を新しく与える事で、過去はなくなる。お前を構築してきたすべてがなくなる代わりに、お前の望む事、願う事すべてに応えよう。俺と共に生きろ。いいな」

頷いてはいけない。心の冷静な思考が警鐘を鳴らす。
頷いてしまえ。心の奥底の自分自身が叫びを上げた。
相反する二つに迷う私を、目の前の金はただ強く見据えている。

「どうして?」
「お前が他の誰よりも人であるからだ。誰かのために祈る事の出来るお前が、人として生きられぬ事を俺は認められない」
「祈る?」

首を傾げる。そんな事、きっと誰しもが出来るはずなのに。
何故それだけで、こんなにも優しくされているのか分からない。

「おいで」

促されて立ち上がる。涙で曇る視界に迷わぬよう、手を引かれ歩き出す。
部屋の奥。小さな扉を潜り抜けて、その先のさらに小さな部屋に入った。

「これ、って」
「俺だ。神体というやつだな」

奥にあるのは古い木箱。幾重にも縄で巻かれ、中の何かが外に出ないようにと封じている。
御神体だといった。神自身だとも。
涙を拭い、箱へと近づく。そっと触れた箱は、木だというのに酷く冷たい感じがした。

「昔、俺が生きていた頃、都の圧政に苦しむ国が多かった。俺の仕えていた男は郡司でな。民が苦しむ事を許せず、民のためにと兵を起こしたんだ。だがやはり地方の軍と都の軍とでは兵力差があり、結局は仕えた男も俺も討死にした。だがな死んだ俺の眼を惜しんだ都のやつらが首を持ち帰り、眼を扱うために術師に細工させたのさ。まあ扱いきれず、最終的にはここで奉るという名の封印をほどこされているわけだがな」

箱を撫でる。
酷い話だと思った。けれどそれを酷いと言葉にするのは、きっと彼にとってとても失礼な気がして口を噤む。
箱の中の人だった彼は、何を思って今もここに閉じ込められているのか。憎んでいるのか。それとも悲しんでいるのか。
どんな思いであれ、死後も無理矢理ここに留められているのは、苦しいはずだ。眠る事が出来ないのはつらい事を知っているから。

だから、せめて。少しでも安らげるように。
歌を口遊む。夜の歌を。帰れず迷う手を引く子守歌を。
箱の中の彼が刹那でも眠れるように。一人悲しい思いをしないように。
祈り、ただ歌う。


「やはりお前は優しい子だな。だからこそお前は人であるべきだ」

いつの間にか背後に来ていた彼が、優しく頭を撫でる。

「その心を殺してしまうな。お前の繊細な感情の、柔い思いの灯火が潰えてしまうのが俺は何より恐ろしい」
「恐いの?神様」
「そうだな。恐いさ。いつだって失う事は恐ろしいものだ。だから俺のために眷属として共にいてくれ」

振り返り、彼を見る。
その表情からは何を考えているのかを察する事が出来ない。
けれど頭を撫でる手は優しいから。微笑む金が綺麗だとそう思ったから。
理由なんて、それだけでいいはずだ。

「いいよ。一緒にいる。彼女にさよならを言えたら、眷属になってあげる」
「そうか」
「お別れはちゃんと言わせて。前は言葉を間違ってしまったから」

望みを口にし、思い出す。
そうだ。言葉を間違えたのだった。最後だと分かっていたのに、あの時は間違って「行ってきます」と言ったのだった。
帰れはしないのにその言葉はおかしいと、しばらくして気づいて落ち込んだのを思い出す。
今度は本当に最後になるのだろうから、間違えないようにしなければ。

「分かっている。お前の望みはすべて応えてやろう。約束だ」

手を差し出され、迷いなく手を重ね。
手を引かれるままに歩き出す。
どこに行くのか、あえて尋ねはしない。どこであれ、彼女は人として生きられる結果にきっと変わりはない。

胸の奥の熱はまだ引かない。
けれど今は、その熱が何よりも尊いものに思えていた。



20240903 『心の灯火』

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