sairo

Open App

海を見ていた。

立ち止まり動く事もなく、ただあの子の幻を探して海を見ていた。
涙はもう涸れ、叫ぶ声も嗄れた。何故を繰り返して、あの子の側まで来てしまった。

海の底はどんな所なのだろう。光のない暗闇で、走る事は出来るのだろうか。
あの子が追いかけてこれないのならば、先を急ぐ必要はない。あの子のいない地上は息苦しいだけで、もう歩く事すら苦痛だった。

追いかけて来れないのならば、こちらから迎えに行くのもいいのかもしれない。
ふと、そんな意味のない事を考える。けれどそれは何よりも甘く魅力的な誘惑だった。

一歩だけ、進んでみる。
この広い海で、たった一人のあの子を探すのはきっと骨が折れるだろう。だけど今まで振り返るでも、ましてあの子を待つ事などしてこなかったのだから、一度くらいはあの子を探しに行くのもいいのかもしれない。

一歩、また一歩と進んで、打ち寄せた波が足を誘う。生ぬるい海水が今はとても心地良い。
あの子が呼んでいるのかもしれない。私を見失ってどこにも行けずに泣いているのだと思うと、行かなければと気が逸る。

「まだ生きているのに、沈んでしまうの?」

女の人の声が聞こえ、隣を見る。いつの間にか隣に立つ濡れた女の人は、不思議で仕方がないといった表情で私を見ていた。

「あの子が待っているの」

途中で諦める事なく努力をし続けてきていた事を知っている。だからせめて迷っている間だけは、待っていてもいいだろう。立ち止まるくらいはしてもいいはずだ。

「追いかけないと」

けれど、続いた言葉は思っているものと逆だった。
言葉にして、納得する。
私はいつだって、先に進みながらもあの子を追いかけていた。
あの子が私の背中を追いかけるために続ける努力を、追いつかれないように追いかけ続けていた。
そうだ。だからあの子のいない今、追いかける目標を失って立ち止まるしかなかったのか。
思い出して、納得して。枯れたと思っていた涙がまた溢れてくる。

「寂しいの?会いたいの?」
「寂しいわ。逢いたいに決まっている」
「そう。じゃあ、これを貸してあげる」

逢いたいと泣きじゃくる私に女の人が差し出したのは、白い貝殻。海の音が聞こえるそれを受け取ると、耳を寄せて目を閉じた。

波の音。海から、貝殻から聞こえる音が混ざり合い、響き合う。音が絡まり、その絡まりの隙間からたくさんの声がざわざわと囁いている。
笑う声。嘆く声。願う声。
知らない誰かの声達が脳を揺さぶり、世界が歪む。波のように押し寄せるたくさんの想いが、私を呑み込み壊していく。
ぐらり、と傾く体。けれど倒れ込むその瞬間に聞こえた一つの声に、目を開いて足に力を入れた。

「もっと速く。あの星に追いつけるほどに疾く」

あぁ、あの子はまだ追いかけているのか。海の底で一人きりで。
貝殻を耳から離し、口を近づける。
届かないだろうけれど、あの子が今も追いかけてくるのならば、伝えたい事があった。

「もしもし。聞こえてないかもしれないけれど、ひとつ言っておきたいから勝手に言うわ」

出来るだけ冷静を保つ。最後まであの子の憧れでいたいから。泣いて立ち止まっているなんて、知られたくはない。

「私はこれからも進み続けるわ。あなたがいなくても、一人きりになっても立ち止まったりはしない。それが私だから。だからこれでさようなら」

進み続けると言いながら、きっともう進めない事は分かっている。
それでも別れを告げなければ、あの子はずっと私のいない場所で、私の幻を追いかけ続けるのだろう。
そんな事、たとえ幻であっても許せなかった。

ぎゅっと唇を噛みしめ、もう一度貝殻を耳に当てる。ざあざあと海の音に混じって、あの子の柔らかな声が聞こえてくる。

――さようなら、と。


別れの言葉を最後に、貝殻からは海の音しか聞こえなくなり。
耐えきれずに、その場に崩れ落ちた。

「大丈夫?」
「大丈、夫じゃ、ないっ。大丈夫じゃ、ないわよ」

溢れ落ちる涙を止める事が出来ない。しゃくり上げながら、心配そうに身を屈めた女の人に縋った。
別れの言葉がこんなにも苦しいものだとは知らなかった。追いかけて逝く事を許さないその五文字が、今は悲しく恨めしい。

「なん、で。なんでよ。なんで、いない、の。おい、ていか、ない、で、よっ!」

あの子のいない私はこんなにも弱い。行く先に伸びたあの子の影法師が、きっと私だったのだ。
影だけでは、あの子がいなければ、進む事など出来るはずがない。

「逢いに沈んでしまいたい?」
「いか、ない。いけない、わ」
「そう。偉いのね」

女の人の手が何度も背中を撫でる。逢いたくても逢いに逝かない私の選択を、偉い事だと褒めてくれていた。
その優しさに、彼女の海の匂いにさえあの子を重ねて、縋る手に力がこもる。

打ち寄せる波が、体を濡らす。
いっそこのままさらっていってくれればいいのに、と。
彼女に縋り、支えられながら、未練がましく馬鹿な事を思っていた。



20240906 『貝殻』

9/6/2024, 3:01:04 PM