sairo

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「捨ててきなさい」
「そこをなんとか」
「捨ててきなさい」

取り付く島もないとはこの事か。
冷たく見下ろすその視線は、一切の妥協を許そうとしない。低めだが艶のある声は、こちらの言い分を聞く事なく、すべてをはね除ける。

「だがすでに契約が」
「そんなもの。鋏で切ればいいでしょう」

ふん、と鼻をならし、苛立ちを表すように長くしなやかな尾が揺れる。
傍らにいる犬が小さくなりながら、しゅん、と項垂れた。

「分かった。ゴシュジン、ごめんね。ありがとう」
「ささら。すまんな」

屈んで犬の頭を撫でる。
予想はしていたが、こうも頑なだとは思わなかった。仕方なく買い物袋から缶詰を一つ取り出し、犬を供に玄関へと向かう。せめてもの餞別だ。本来は猫用ではあるが、ただの犬ではないのだから問題はないだろう。


「おい。ちょっと待て」

低い唸るような声が呼び止める。
先ほどまでの艶やかさは一切見られない、粗雑な声音。振り返れば、瞳孔の開いた金と青のオッドアイが手にした缶詰を見つめ、唸り声をあげた。
これは、もしかするといけるかもしれない。

「他にも買ってきているから、一つくらいは」
「何言ってやがる。それはこのわっちへの供物だろうが。一つたりとて畜生に与える事は許さんぞ」

我が儘である。
買い物袋の中にはまだ同じものが数個残っているというのに。一つすら惜しいというのか。
だが今回ばかりはこちらもすべてに頷く訳にはいかない。なにせ犬の今後がかかっているのだから。

「ささらのせめてもの餞別だ。捨てろと言われ捨てに行くのだから、これくらいはしても許されるはずだろう。況してこれは俺の給金で買ったものだ」
「わっちと交渉気取りか、餓鬼が。それでわっちが受け入れるとでも?」
「駄目ならば、別に部屋を借りるつもりではある。その場合、こちらとあちら交互に通う事になるが」

完全な思いつきであるが、良策かもしれない。
少しばかり懐が痛むが、この街で新しく部屋を借りるだけならば、とても簡単な事だ。
二重生活も、慣れれば何とかなるだろう。

「くだらない。わっちから離れた貴様がまともに生きられるものか」
「何もそう長い間離れるわけじゃない。精々が一日程度だろう」
「それほどまで、そこの畜生を気にかけるか。くそが」

吐き捨てて、したん、と長い尾が床を強く打つ。
それほどまでに嫌なのか。どうするべきか、と犬へと視線を移しかけ。

視界が反転、した。

「ゴシュジン!」

慌てる犬を手だけで制す。
頭を打ったためにぐらつく視界に、殺気立つ長身の美丈夫が映る。
金と青が忌々しげに細められ、首に手が触れた。
じわじわと甚振るように、その手に僅かに力が込められる。

「社の管理のために生かしている事を忘れるなよ、くそ餓鬼。貴様の変わりなんざ、いくらでもいる。このままこの首、へし折ってやろうか?」

完全にお怒りである。
だが悲しいかな。これも我が家の日常の一コマというやつだ。
この猫は、些細な事ですぐ気を悪くする。昨日までは良かったものが、今日急に駄目になる事などよくある事だ。
よくあるからには、当然宥め方も知り得ているわけで。

「千歳。またたびも、買ってきた。粉のやつと、木のやつ。両方」
「は?またたび…」

動きが止まる。金と青がゆっくりと瞬いて、次第に殺気も収まっていく。
買い物袋に視線を向ければ、同じように視線が動き。

ゆらり、と揺らめいて、美丈夫は元の猫の姿に戻る。

「今回は特別に見逃してあげましょう。次はない。努々忘れる事のないように」

視線は買い物袋に向いたまま、それだけを告げると音もなく元の定位置であるキャットタワーの上に戻っていく。
詰めていた息を吐き出して、ゆっくりと体を起こした。

「ゴシュジン。大丈夫?」
「問題ない。いつもの事だ」

殺気に当てられて未だ震えの止まらない犬を一撫でし、立ち上がる。
いつも、と呆然と呟く犬には申し訳ないが、ここで暮らす以上慣れてもらうしかない。

買い物袋から木の方のまたたびを取り出し、猫へと放る。綺麗に咥えて喉を鳴らす音を聞きながら、手にしていた缶詰と他に購入していたものをしまい、一息吐いた。

「そこの犬には言い聞かせておくように。ここはわっちの縄張り。気に入らぬ事があれば、すぐさま噛み殺します」
「大丈夫だ。話はここに来る前にしてある」

喉を鳴らして木に体をなすりつけている姿は、取りあえず見ないふりをする。機嫌を損ねる要素はできる限り取らない方が賢明だ。

「俺は部屋に戻る。食事は遅めで構わないな」
「いいわ。その間に躾けておきなさい」


犬を伴い、部屋へと戻る。
ベッドへと腰掛け、心配そうな犬を膝に乗せて大丈夫だと頭を撫でた。

「ボクの知ってる猫じゃなかった。恐かった」
「まぁ、猫の姿をしているが、中身はあの神社の神さんだからな」

人の絶えた神社にいた、荒魂の性格の強い神。
縁あって何故か我が家で猫の生活を満喫しているが、神である事には変わりはない。

「ここで生活していくならば、さっきの事はよくあるから慣れてくれ。機嫌を損ねると、すぐにああなるから」
「頑張ってみる。ゴシュジンと一緒にいるために、ボクちゃんといい子にする」

頑張れ、と思いを込めて背を撫でる。
犬が慣れる頃にはきっと、猫も慣れてくれるだろう。
些細な事ですぐに機嫌を損ねるが、一度懐にいれたものに対してはあれで優しい所もあるのだから。

それまでに少しでも好感度を上げておくべきかと思いつつ。
疲れ痛みを訴える体を休ませるため、犬を抱いて横になった。

「ゴシュジン?」
「少し、疲れた」

枕元にある時計のアラームを30分後にセットし、目を閉じる。
取りあえず、今は少しでも寝た方がいい。

「これが鳴って起きなかったら、起こしてくれ」

起きた後のやるべき事を思いながら、意識が遠のいていく。

「分かった。ボクに任せてゆっくり寝てね。お休み、ゴシュジン」

頼もしい返事に安心し、そのまま短い眠りについた。



20240904 『些細なことでも』

9/4/2024, 1:59:23 PM