sairo

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気づけば知らない場所の床で、横たわっていた。
痛む体を無理矢理起こす。狭い室内は調度品など何一つなく、やはり見覚えはない。

「目覚めたか、娘」

背後からかけられた声に振り返る。

「神様」

怒っているような、哀しんでいるような不思議な顔をした神が、音もなく近づき眼を覗き込まれる。
金に揺らめく瞳に映る自分は表情が抜け落ちて、まるで人形の様だ。

「望みを言え。お前が真に望むものは何だ?」
「彩《さい》が救われればそれでいい」
「救われるとは何を意味する?」

重ねて問われ、困惑する。
何を考えているのかが分からない。救いはそれ以上でもそれ以下でもないはずだ。
妖と成った彼女と、その一部でありながら人として生きている彼女。妖と人の間で繋がったままの糸を切り、それでいて人の方の彼女がそのまま人として生きられる事。それは救いではないのだろうか。

「娘が救いたいと望むものは人の方か?あの狂骨は救わぬのか?」
「狂骨は喰らうよ。一緒にいる」
「それは救いになるのか?」

その言葉に、考える。
一緒にいる事。それが救いになるのか否か。妖の彼女にとっての救いとは何であるのか。
考えて、悩んで。出てきた答えは否だった。

「ならない。きっとそれは救いではなく私の自己満足だ。けれどそれ以外の選択肢を、私は持っていない」
「なれば静観せよ。あれは人が作り上げたモノだ。作りし人が救うのが道理であろう…娘、改めて問う。娘の望みしものは何だ?」

改めて望みを問われ、同じ答えを返そうとして。揺らぐ金に口を閉ざす。
きっとそれは求めている答えではない。私自身の望みは他にあるのかもしれない。
他人事のように思いながら、答えを探し記憶を辿る。
過去の私は何を望んでいたのだろう。何を思い、感じて生きてきたのだったか。
金の中にいる今の私はまだ人形のままだ。

「分からない。思い出せない。今は彩が人として生きてくれればそれでいいと望んでいるだけ。それでは足りない?」
「あれが人として生きるとして、娘はそれからどうする?」
「どうしようか…でも彩にさようならはいいたい、かな」

その理由はうまく思い出せないけれど。
昔の記憶は擦り切れ過ぎて、思い出せない事の方が多い。
家族。仲間。寺。呪。
数珠のない今、留めておけなくなった記憶が溢れ落ちて、呪を施された意味すらも思い出せなくなってきた。もう少しすれば文字通りの存在のないものになるのかもしれない。

「我ではなく、椿なれば何を願う?」
「椿に?椿は願うものではないよ」
「願ったであろう。共に祈った子の、最期の時に願ったものがあるはずだ」

記憶を辿る。擦り切れた記憶の断片を掻き分けて、共に祈ったあの子との記憶を探す。
椿に意味を持たせた子。母と逸れ、幼い弟を連れて辿りついた強い子。母と弟を亡くし、泣き方を忘れてしまった悲しい子。
思い出を巡る。共に椿に祈り、あの子だけが成長し大人になって。妻になり母となっても、私を友と呼んで側にいた。最期の時も一緒にいて、狭間まで共をして。そして、すべてが終わった後。椿の所に行って。
あの子が眠れるように祈って。それから。

「願った。二度と心を傾けるような、そんな大切な人と出会いませんように、って」
「それは何故だ?」

金の中にいる私が、ようやく表情を崩す。泣くのを堪えるように顔を歪め、唇を噛みしめて。
胸の奥が痛くて、熱い。人形から迷子の子供になったみたいだ。

「何故そんな哀しい願いを口にした?」
「だって、嫌だったから。置いていかれるのは…一人になるのは嫌だった」
「そうか。よく言えたな」

ふわり、と優しく微笑んで、頭を撫でられた。
幼い子供にするように、いい子と繰り返し褒められる。
もう片方の手が目尻をなぞって涙を拭われ、そこで初めて泣いている事に気づいた。

「俺が共にいてやろう。お前の望む通りにあれを人として生かす術を与えてやる。だがそれだけだ。動くのは他に任せ、ただ見届けろ」
「でも、」
「他に動くものがいる。問題ない…すべて見届けたら、俺の眷属になれ」

眷属。神の。彼の。
泣いてぼんやりとする思考では、その言葉の意味が正しく理解出来ない。

「名を新しく与える事で、過去はなくなる。お前を構築してきたすべてがなくなる代わりに、お前の望む事、願う事すべてに応えよう。俺と共に生きろ。いいな」

頷いてはいけない。心の冷静な思考が警鐘を鳴らす。
頷いてしまえ。心の奥底の自分自身が叫びを上げた。
相反する二つに迷う私を、目の前の金はただ強く見据えている。

「どうして?」
「お前が他の誰よりも人であるからだ。誰かのために祈る事の出来るお前が、人として生きられぬ事を俺は認められない」
「祈る?」

首を傾げる。そんな事、きっと誰しもが出来るはずなのに。
何故それだけで、こんなにも優しくされているのか分からない。

「おいで」

促されて立ち上がる。涙で曇る視界に迷わぬよう、手を引かれ歩き出す。
部屋の奥。小さな扉を潜り抜けて、その先のさらに小さな部屋に入った。

「これ、って」
「俺だ。神体というやつだな」

奥にあるのは古い木箱。幾重にも縄で巻かれ、中の何かが外に出ないようにと封じている。
御神体だといった。神自身だとも。
涙を拭い、箱へと近づく。そっと触れた箱は、木だというのに酷く冷たい感じがした。

「昔、俺が生きていた頃、都の圧政に苦しむ国が多かった。俺の仕えていた男は郡司でな。民が苦しむ事を許せず、民のためにと兵を起こしたんだ。だがやはり地方の軍と都の軍とでは兵力差があり、結局は仕えた男も俺も討死にした。だがな死んだ俺の眼を惜しんだ都のやつらが首を持ち帰り、眼を扱うために術師に細工させたのさ。まあ扱いきれず、最終的にはここで奉るという名の封印をほどこされているわけだがな」

箱を撫でる。
酷い話だと思った。けれどそれを酷いと言葉にするのは、きっと彼にとってとても失礼な気がして口を噤む。
箱の中の人だった彼は、何を思って今もここに閉じ込められているのか。憎んでいるのか。それとも悲しんでいるのか。
どんな思いであれ、死後も無理矢理ここに留められているのは、苦しいはずだ。眠る事が出来ないのはつらい事を知っているから。

だから、せめて。少しでも安らげるように。
歌を口遊む。夜の歌を。帰れず迷う手を引く子守歌を。
箱の中の彼が刹那でも眠れるように。一人悲しい思いをしないように。
祈り、ただ歌う。


「やはりお前は優しい子だな。だからこそお前は人であるべきだ」

いつの間にか背後に来ていた彼が、優しく頭を撫でる。

「その心を殺してしまうな。お前の繊細な感情の、柔い思いの灯火が潰えてしまうのが俺は何より恐ろしい」
「恐いの?神様」
「そうだな。恐いさ。いつだって失う事は恐ろしいものだ。だから俺のために眷属として共にいてくれ」

振り返り、彼を見る。
その表情からは何を考えているのかを察する事が出来ない。
けれど頭を撫でる手は優しいから。微笑む金が綺麗だとそう思ったから。
理由なんて、それだけでいいはずだ。

「いいよ。一緒にいる。彼女にさよならを言えたら、眷属になってあげる」
「そうか」
「お別れはちゃんと言わせて。前は言葉を間違ってしまったから」

望みを口にし、思い出す。
そうだ。言葉を間違えたのだった。最後だと分かっていたのに、あの時は間違って「行ってきます」と言ったのだった。
帰れはしないのにその言葉はおかしいと、しばらくして気づいて落ち込んだのを思い出す。
今度は本当に最後になるのだろうから、間違えないようにしなければ。

「分かっている。お前の望みはすべて応えてやろう。約束だ」

手を差し出され、迷いなく手を重ね。
手を引かれるままに歩き出す。
どこに行くのか、あえて尋ねはしない。どこであれ、彼女は人として生きられる結果にきっと変わりはない。

胸の奥の熱はまだ引かない。
けれど今は、その熱が何よりも尊いものに思えていた。



20240903 『心の灯火』

9/3/2024, 2:49:08 PM