sairo

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高らかな猫の一声が、薄暗い社の中に響き渡った。

「猫が来たぞ!猫の子らの力を必要とするのは誰だ?」

ちりん、と真鍮の鈴が鳴る。
蜘蛛に片割れの腕から音もなく降り立ち、無遠慮とさえ思えるほどに堂々と開け放たれた社の中に踏み入れた。だがその足はぴたりと止まる。
猫の視線が社の奥に座る少女の姿を捕らえ、苛立たしげに低く唸り尾を打ち据えた。
後に続く蜘蛛達も、程度の差はあれど同じように眉をひそめた。

「なんだオマエは。ニンゲンのくせにほとんど空っぽじゃないか。オマエが猫の子らの力を必要としているのならば、猫は拒否するぞ。どうせその望みは他のヤツの代弁だろう」

少女を睨めつけ吐き捨てる。
猫の眼には少女の呪は見えていない。だが人としては随分と希薄な気配や纏わり付く微かな死の匂いは、人よりも化生に近い。
人のようで化生のような中途半端な匂いが、猫の本能を騒つかせ警戒させる。

「猫の子?」
「なんだ、違うのか。それならばいい。いいが…ニンゲン。オマエの名は何だ?あと、好きなものを答えてみろ」

猫の言葉に困惑する少女の人の匂いが、少しだけ強くなる。おや、と首を傾げ、警戒しつつも変化に沸いた興味に矢継ぎ早に問いを重ね。
しかしそれを制すように、蜘蛛の腕が猫を抱き上げた。

「駄目だよ、日向《ひなた》。この子の名前はおそらく呼んではいけないものだ。それだけではないのだろうけれど、この子の虚ろは名前が強く関係しているように見えるよ」
「だな。しかも最近、何度か強く呼ばれて虚ろが広がってる。大方ここの祭神が不用意に呼んだんだろ」

そうか、と納得して警戒を解き、するりと蜘蛛の腕を抜け出して少女の目の前に座る。
そして蜘蛛が止めるよりも早く、同じ問いを繰り返した。

「オマエの名を答えろ。それで好きなものも言ってみろ」

猫は単純だ。だが愚かではない。
それを知っている蜘蛛達は、猫の意図を察せずとも静観する。猫の行動はいつも唐突だが、最悪にはならないはずだ。
問われた少女は眼を瞬かせ、首を傾げながらも名を答える。

「零《れい》」

その瞬間、ぞわりとした感覚に猫の毛が逆立った。

「なんだそれは!オマエはここに確かにいるのに、ないとはどういうことだ!だからいろいろが零れていくんだ。駄目だ。猫は気に入らない。だから猫はオマエを壱《いち》と呼ぶ事にする!」

猫の行動はいつでも唐突であり、それ故に誰にも止める事は出来ない。
不快な名が許せず新たに名付けた猫に、蜘蛛達は呆れ、気まずさに顔を覆い。名付けられた少女は壱、と何度か繰り返し痛みを堪えるような表情をした。
猫の叫んだその名に強制力はないが、人ならざるモノに呼ばれる名は呪のように人に絡みつき影響を及ぼす。特に真逆な意味を含んだ名だ。元の名と反発して痛みを生じているのかもしれない。
だが悲しい事に猫は感情の機微に疎く、少女を気にかける事もなく問いかけた。

「壱。好きなものはなんだ。ちゃんと答えてみろ。大事な事だぞ」
「好きなもの」

眉根を寄せつつ、少女は視線を彷徨わせる。記憶を辿り、けれど思い浮かばぬのか、ゆるりと首を振った。

「思い出せない。好きとは、何?」
「分からないのか。零れ落ちすぎて残りがまったくないな。ならば仕方ない。壱は今から猫の子だ!猫がオヤとして、しっかりと教えてやろう!」

猫とは突拍子もないモノである。
慌てる蜘蛛達を歯牙にもかけず、瞬く間にその姿を人の形へと変化させ少女の手を引き立ち上がらせた。

「ちょっと待て。勝手に子を増やすな。ここに来た目的は呼ばれたからだろうが!」
「猫は難しい事は分からない。そっちは銅藍《どうらん》と瑪瑙《めのう》に任せる。大丈夫だ、銅藍も瑪瑙もすごいからな。猫と違って難しい話も分かるし、何でも出来るから何も心配いらない。それに嫌な事は嫌と言えるんだ。壱も二人みたいに、しっかり好きと嫌いを言えるようにならないとな」

蜘蛛に答えながらも、猫は娘の手を引く事を止めない。
猫は一度決めた事は曲げない。それを知る蜘蛛の二人は諦めたように溜息を吐き、相変わらずな猫に苦笑した。
「気をつけてね。その子は人間なのを忘れないで」
「問題ない。後は銅藍も瑪瑙に任せるから、気に入らなければ戻ってくるといいぞ。そうしたら皆で帰ろう」

社を出て行く猫と少女を見送って、蜘蛛は不快に顔を顰め、憐憫さに目を細めた。

「おい、説明しろ。何だあれは。気持ち悪い」

ゆらりと空気が揺らめき、社に奉られた神が姿を現す。
腕を組み蜘蛛を見下ろすその表情は険しく、不機嫌さを隠しもしない。

「貴様らには関係のない娘だ。呼び寄せた狐は外におる故、疾く出て行け」
「日向が連れて行った。関係はあるだろうが。それにあんな生に執着した餓鬼の呪が、俺らの猫に危害を加えないとも限らないしな」
「口を慎め、土蜘蛛。妖に成ってまで生に縋ったのは貴様らも同じであろう」

忌々しいと舌打ちをし。殺気立つ蜘蛛に、しかしもう一人の蜘蛛は冷静に銅藍、と片割れの名を呼んだ。

「たぶん前提が違う。あの子は望んで呪を施されたわけではないよ」
「抵抗した感じはなかった。拒絶はしていないだろう」
「気づけないんじゃないかな。本質はずっと眠っているように見える。時々目覚めていたのかもしれないけれど。今のあの子は呪の後の伽藍堂に元の子の記憶と周りに応え続けた結果が入り込んで出来たものだよ」

蜘蛛の言葉に片割れの殺気は収まるが、嫌な事を聞いたと目を逸らす。
神は何も言わず。しかし幾分か険しさが和らいだ表情で、見定めるように蜘蛛を見ていた。

「それが日向が呼んだ名前によって、眼が開いた。まだ覚醒はしていないけれど、痛みを覚えるくらいだ。少しは満たされていくだろうね」
「目覚めを告げる猫ってか。恐ろしいな俺らの猫は」
「日向だからね」

くすりと笑い、神を見る。

「僕達の猫と片割れが失礼しました」
「構わぬ。外で狐が待っておる。行くとよい」

険しさも不機嫌さも消えた神は、一つ頷いて社の外を指し示した。
一礼し、社の外へと向かう。その背を見送り、神は静かに眼を閉じた。


「始まったか」

始まりを告げた猫は自由気ままに、娘を人へと引き戻し。
猫の子らである蜘蛛は、狐に連れられた人の子の望みに応えるだろう。

変わらない。娘と出会い、視た未来《さき》と何一つ。
これが最良かは、始まってしまった今となっては知りようがない。


せめて娘に訪れる別れが、その痛みが少しでも和らげばと思うのみだ。



20240907 『時を告げる』

9/8/2024, 5:28:10 AM