「ねぇ、いいでしょ?ねぇ、連れて行ってよぉ。ねぇ。ねぇ」
付き纏う声に嘆息する。
気づけば黄昏時。
朱く染まった空を見上げ、付き纏う声の主である犬を見下ろし。
帰り道の先、鳥居の下で踊る影を見て、思わず額に手を当てた。
誰もいない神社の掃除終わり。いつもならば家にいる時間帯。
時間を気にしながらも一通りの掃除を終えて、気づけばすでに辺りは薄暗くなっていた。
やってしまった、と焦り掃除用具を片付けて、帰ろうとした道の先には影がいて。どうしようかと悩んでいれば、このよく分からない犬が声をかけてきて今に至る。
「ボク、いい子だよ。ちゃんとお座りも、待ても出来るんだよ。だからねぇ。一緒に行こうよぉ」
「…飼い主は」
よく見れば、犬の首には白い首輪。飼われている、あるいはいたであろう犬は、首を傾げ鳥居の方へと向けた。
「あそこ」
前足を上げて鳥居の下で踊る影を指す。
遠目からははっきりと見えない影が、足を上げ、腕を伸ばして踊り続けている。ステップは無茶苦茶で激しく、手はゆらゆらと揺れて、手を振っているようにも見えた。
すぐ近くにいるのならばそちらへ行けばいいのに。そう思い横目で見た犬の目は、何故だか冷めているように見えた。
「ずっと足を焼かれて、首を括られて動けなくなっちゃったの。もう駄目だから、大丈夫」
何一つ大丈夫ではない。
目を凝らして影を見る。やはりはっきりとは見えないが、言葉通り、足は焼けた地の熱さから逃れようとして、手は括られた縄を探して藻掻いているようにも見える。
「ずっといい子にしてたんだよ。遊ぶのも、撫でてもらうのも我慢して。ご飯がもらえなくなっても吠えたりなんてしなかった。飼い主が苦しくてつらいのを知ってたから、ちゃんと我慢したの。お外に出て、頭を撫でてもらえて、ご飯ももらえると思って。やっと、食べられるって。なのに。何で。あんな」
影の動きが激しくなる。
首が絞まっているのか、手を首元にやって何かをしきりに引っ張っている。
「どうしてこんな寂しい所に埋めていったの。誰もボクを踏んでくれないから、呪いになれないのに」
つまりはあれだ。
犬神をつくろうとして不完全な呪いが出来上がり、返りの風で術師が死んで呪われた、と。
影を見て、犬を見る。
空を見上げれば、さっきよりも薄暗く夜が近くなってきている。
帰ろう。そう思った。
帰る道の先に影はいるが、何とかなるだろう。
「帰るの。一緒に行っていいよね。ねぇ、連れて行ってくれるよね」
「飼い主のところに行きなさい」
着いてこようとする犬を制す。どんな形であれ飼い主がいるのだから、そちらに行くべきだ。
お座りの体制で首を傾げる犬は、少し考えて飼い主の元へと走り出す。
ぎゃあ、と醜い悲鳴が上がった。
「はい。飼い主持ってきたよ。一緒に連れて行って」
何故こうなる。
飼い主だったであろう影の腕を咥えて引きずりながら戻ってきた犬を見て、何も言えずに口元を引き攣らせる。切実に止めてほしい。直視したくないものを取ってこいした覚えはないというのに。
横目で見下ろす影は、間近で見ても黒かった。
「家には猫がいるから」
だから無理だと、首を振る。
それでも犬は諦めない。
「ボク、いい子にするよ。ちゃんと仲良くする」
無理だろう。どう考えても。
そうは思うが口には出せず。仕方がないとスマホを取り出し、ロック画面を見せた。
ぎゃん、と鳴いて、飛び上がる。
「え。なにこれ。怖い。猫、怖い」
「いいか。よく聞け。我が家の頂点は猫だ。猫が望めば夜中だろうがご飯の時間になるし、仕事をしてようが遊びの時間になる。その日の猫の好みのご飯がなければ、その時点で買いに走らなければならない。家のすべては猫によって決まるんだ。つまりは、猫が捨てろと言ったら捨てなければならない。分かるな?」
「うん。分かっ、た」
悲しげに目を伏せる犬には申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。
今度こそ帰ろうとスマホを仕舞い、犬を見ると。
大きな目から一筋涙が零れていた。
泣いていた。犬が。視線を向けなければ分からないくらい静かに。
高級な猫缶を帰りに買おう。そう決めた。
連れ帰る事は決定だが、さてどうしようかと考える。
このままでは周りの目が痛い。非日常が日常な街であっても、さすがに目立ってしまうだろう。
そこらのうねうね動く影とは違う。
取りあえず犬を呼び寄せる。
「ささら」
「え」
「ささら。犬の名前」
呼びかける。名前を認識させる。
「ささら。ボク、ささら」
何度か名を繰り返す。その度に犬の姿が変わる。
肉がつき。皮が張り。毛が生える。
「うん。ボクはささら」
ふさふさした尾を一つ振って、茶色い毛並みの小型犬は綺麗にお座りをした。
よし。と頷く。
思わず使役してしまったが、これで捨てろなどと言われ難くなるだろう。
不完全で未熟な犬神とはいえ、一度契約したモノだ。破棄は簡単には出来ないはず。
だが一応機嫌取りで念のため、またたびも追加で買う事にする。
「ささら。帰りに店で猫缶とまたたびを買わないといけない。急ぐぞ」
「分かった!ゴシュジン、これどうするの」
「明日、近くの社にでも捨てとく」
影は放置だ。街とはいえ、田舎の店は閉まるのが早い。
急がなければと、犬を抱えて走り出す。
空にはもう宵の明星が光り輝いていた。
20240901 『不完全な僕』
懐かしさすら感じる香り。色鮮やかな蒼と翠の色彩に目を細めた。
思わず口角が上がる。うまくいったという達成感と、出し抜けたという優越感。
やっと屋敷から抜け出す事が出来た。あの現世から隔離され閉じられていた空間から、屋敷の主を欺いて出たのだ。
声を上げて笑いそうになり慌てて口を押さえると、急いで森を駆け抜けた。
久しぶりに戻った我が家は、見た目は特に変わらず。鼻につく埃臭さに、慌てて窓を開け換気する。
冷蔵庫を開け、水しか入っていない事に落胆し、同時に安堵した。一ヶ月以上も家を空けていたのだ。食べれるものがあったとして、それはすべて廃棄処分になっていた事だろう。
空腹を覚えど、今は外に出る気にはならず。仕方ないかと、ベッドに腰掛けそのまま横になった。
埃っぽさには、この際気にしない事にする。
「あ、いけね」
ズボンの違和感に、ポケットに入れたままだった小瓶を取り出す。中の透明な液体が揺れて、微かに音を立てた。
蓋を開け左手首に吹きかける。ふわりと香る爽やかなりんごと、次第に変化する凜とした睡蓮の花の香りが鼻腔をくすぐり、先ほどまでの高揚感を思い起こさせる。
「今頃、慌ててるのかな」
想像して、隠しきれなかった笑い声が漏れる。
いつもはこちらを振り回してばかりの屋敷の主が狼狽えているのを考えるだけで、楽しくて仕方がなかった。
もしくは怒っているのかもしれない。勝手に屋敷を出たのだから、それも当然と言えば当然だ。しかし何も言わないで様々を勝手に事を進めようとしていたのだから、これくらいの意向返しは許されて然るべきである。
「にしても、こんな女の香り一つで誤魔化されるなんて」
手にした瓶を弄ぶ。髪を下ろし、着崩していた服をしっかりと着て。そして女性ものの香水を振りかけ、自分を女と見立てただけで、あれだけ強固に閉じていた屋敷は外へと続く玄関の扉を開いた。
たったそれだけで自分を認識されなくなるなんて、と少しばかり複雑な気持ちはあるが。出れるのならばと切り替えて、こうして久しぶりの自宅に戻ってきたのだ。
「馬鹿だなあ」
いつかの言葉を繰り返す。
あの時は化かし合いだと思った。お互いの本心を引きずり出すための駆け引きだと、そう思っていた。
だが今は。
屋敷の主の思惑は駆け引きの範疇を超えていて。その思惑を知った自分は、それに反抗し戻ってきた。
これはすでに化かし合いではなくなっている。
本当に馬鹿だなあ、と呟いて、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じた。
あの屋敷の違和感に気づいたのは、実は始めからだったりする。
妙に馴染む和室。広大な屋敷の中で一度も迷う事はなく。
幼い頃に足繁く通った屋敷に対する思いは、懐かしさよりも戻れたという安堵感に近かった。
違和感が確実になったのは、現世から隔離された頃だった。
何度も打った式が帰らない。境界を超えられずにいる事は分かっていたが、その後の式は行方が知れず戻ってくる事はなかった。
それに比例して段々に馴染んでいく屋敷の感覚。目を閉じると自分が人なのか屋敷なのかが曖昧になっていく気がしていた。
そして枕元に置かれた小さな麦わら帽子。
あの夏の日に置き忘れた麦わら帽子は、すでに屋敷の一部となっていて。
その麦わら帽子がすべての答えだった。
屋敷に取り込むのか。あるいは新たな『迷い家』にするのか。
どちらにしても、それは人ではなくなるという事だ。
そこに自分の意思などない。
それを知った時、最初に感じたのは恐怖でも怒りでもなく、純粋な呆れだった。
一言くらい言えばいいのに、それが素直な感想である。
何も言われず、じわじわと追い込まれるのは気に入らない。何を思っての行動なのかが何一つ見えていないのは、徒に不安をかき立てるだけだ。
すべて話してくれたのなら。本心をさらしてくれたのならば。
まずそこで一悶着はあるだろうが、それでもここまで意地を張り続けるつもりなどはなかったのに。
寝返りを打って、考えを霧散させる。
これ以上は意味のない事だ。まずは寝て頭をすっきりさせる必要がある。
何せこれからやることはたくさんあるのだから。
部屋の整理。スマホの買い換え。親しくしてくれた数少ない友人達への連絡。あとは折角だから無駄に貯まった金銭を使い切ってしまおうか。
そしていつか屋敷の主が迎えに来てくれたのならば。
そのときは思い切り言いたい事を言い切って、最後に足りなかった一番重要な事を教えてやろう。
自分が一番嫌いな、自分の名前。
屋敷の主が知っているのは姓の方だ。昔から女みたいな名前が嫌いで、あの夏の日も名乗るのに姓を使っていた。
それを知った時、驚くだろうか。それとも悔しがるだろうか。
どちらにしても、女のような名前を笑われなければそれでいい。
凜とした睡蓮の香りに微かに混じり始めた白檀に、あの屋敷を重ねて苦笑する。
緩やかに沈んでいく意識の端で。
馬鹿だなあ、ともう一度繰り返した。
20240831 『香水』
男にとって、家族とは唯一であり絶対でもあった。
美しい妻と、優秀な二人の息子。そして心優しい末娘。
裕福ではなくとも皆笑顔を絶やさず、不満も不安も何一つなかった。
妻の作る料理を食べ、息子達の話を聞き、怖がりな末娘と共に眠る。
男にとっては、そのささやかな幸せこそが何よりも尊いものだった。
――始まりであり、すべての根源の糸を歪めたのは、赤い炎だった。
渦を巻き、天をも焦がし、形あるものを等しく灰燼に帰する。強大な炎が男が住まう村の悉くを焼いていた。
男が勤めを終えて戻った時にはすでに手遅れで。炎はすべてを燃やし尽くしていた。
妻は家のあった場所で、建物と共に炭と化し。息子達は家のすぐ側で折り重なって息絶えていた。
そして、末娘は。
――歪んだ糸に絡まったのは、末娘の微かな命の灯火だった。
息子達の亡骸の下で、守られるように生きていた末娘。体の大半を炎に焼かれ、浅い呼吸を繰り返し。
生きている事が奇跡だと思うほど、娘は死のすぐ近くにいた。
だがそれでも。死の淵にあろうと娘は。
男の呼びかけに薄く目を開き、静かに微笑みを浮かべて。
「ぉ、と、さん…お、かえ、り、なさ、」
痛みに泣く事も、苦しむ事もせず。
ただ一言。おかえりなさい、といつものように帰ってきた男を出迎えて、力なく目を閉じた。
――絡まる糸を解けぬように結びつけたのは、男に呪の心得があった事だった。
最愛の娘の消えゆく命を絶やさぬために、男は手段を選ばなかった。
薬を煎じ、呪を施し、外法にすら手を染める事を厭わなかった。
どんな姿であろうと、どのような形であろうと構わなかった。末娘が生きてさえいてくれればと願い続けた。
「おやすみ、玲《れい》」
優しく髪を撫で、一人を怖がる事がないように小さな体を抱きしめ眠りにつく。
答える声はない。それでも構わなかった。ただ側にいて、こうして生きてさえいてくれれば、それだけで。
目覚めぬ末娘の隣で、その生を感じながら眠る。それだけが男に残された最後の、そして唯一の幸せだった。
だがどんなに願おうと、呪を施そうと、終わるはずの命を留めておく事など出来はしない。
いくら足掻いたとして、終わりは確実に近づいていた。
――固く結んだ幾重にも絡まる糸を黒に染めたのは、ただ一つの誤りだった。
男の持てるすべてを費やしても、末娘の命の灯火は次第に弱くなり。
追い詰められた男は、選択肢を誤った。だが同時にその方法だけが、唯一娘を留め続けるものだった。
「すまない。それでも愛しているよ」
男は一筋涙を流し、彼の末娘に最後の呪を施す。
それは末娘の存在を否定する、禁呪。
存在を否定された事で、訪れるはずの死を否定し。
呪を施された事でそれは末娘ではなくなると知りながら、男は最後の望みに縋った。
眼が開く。感覚を確かめるようにゆっくりと体を起こし。
虚ろな瞳が男を見つめ、静かに笑みを浮かべた。
「気分はどうだ。不具合はあるか」
「もんだいありません。おこころづかい、ありがとうございます」
男に答えたのは、末娘ではなく。
娘の死は否定され。男の末娘はどこにもいなくなっていた。
そうして季節が一つ巡り。
男と存在しない娘の、奇妙でありながらも穏やかだった生活は、ある日を境に形が変わっていく。
――黒に染まった糸を切り離して呪いに変えたのは、作為のある言葉だった。
男の元に訪れた者は、表面上は取り繕いながらこう告げた。
「村を焼き、あなたの家族を奪ったものを知っている。国のために力を貸してくれるのならば、教えよう」
男にはすでに守るべき者も、愛すべき者もなく。喪った家族の復讐のために、男がその者を受け入れるのは当然の事であった。
国を守るため、柱と依代を用意した。そのために孤独に終わる命を掬い上げ、慈しんで大事に育て上げて。呪を施して、最期を看取った。
掬い上げた子らは男を慕い、それでも男は慈しみこそすれ愛す事は出来なかった。
国に仇なす者を屠るため、呪い巫女を作り上げた。少女達は従順に男に従い、呪いを歌った。
彼女達の事もやはり愛す事は出来なかった。
国のためと呪を施しながら、それでも男は愚かではなかった。
村を焼き、家族を奪ったものが誰の指示に従っていたのか。始めから知り得た上であえて受け入れていた。
最後に何もかもを終わらせるために。
復讐のために、国に従う哀れな男を演じ続けていた。
しかし終わらせるための呪を施した少女は、男の心を揺さぶった。共にいた時間が他の子らよりも長かったためか、それとも少女が末娘に似ていたためか。
愛しい末娘の面影を少女に重ね、それがいつしか少女自身を見るようになり。
終わりが近くなって、男は初めて自身の呪で喪う事を恐怖した。
今残っているのは少女と、存在のない娘。
いつからか男の側におり、施された呪によるものか死ぬ事のない不思議な娘。それならばと柱や形代、呪い巫女の呪を試し、最後の呪の繋ぎに使おうと思っていた娘の元へ早足で向かう。
少女を生かすためには、娘をここから離す必要があった。
娘は多くを語らない。ただ少女には懐き、素を見せる事もあるらしいが、男に対しては従順である事がほとんどであった。
こうして新たに呪を施され、ここから離れろと告げられても、娘は何も言わずに頷いた。
呪を施し終わり、娘はやはり何も言わずに立ち上がる。そのまま外へと向かう娘に、男は反射的にその手を掴んで引き留めた。
きょとん、と幼さの残る顔で娘は男を見つめ。掴まれたままの手を軽く引くと、男は何かを耐えるように唇を噛みしめ、掴んだその細い手首に自身の数珠を巻き付けた。
その理由は男にも分からない。ただこのまま一人で去って行く娘が帰れるようにと願い、その手をそっと離した。
数珠に触れ、男を見て。
娘は静かに微笑んだ。
「行ってきます。――」
柔らかな懐かしい響きを含む声音。
その最後の言葉は聞き取れず。聞き返そうにも、すでに娘は去った後だった。
――呪いとなった絡まる糸は二度と解ける事はないまま。
男の始まりを覚えている者はなく。娘の元の存在を知る者もいない。
唯一、気怠げな緋色の妖だけが。
こうしてすべてを記憶し、物語として語るのみだ。
20240830 『言葉はいらない、ただ・・・』
「ようやく静かになったのに、あれよりも酷いじゃじゃ馬がきたわねぇ。それも呪いの娘なんかを連れてきて」
そう言って緋色の妖は気怠げに煙管をふかし笑う。
突然の訪問者に対し驚きもせず、相手の素性も問わないその様子は、まるで最初からその訪問を知っていたようで。訪れた二人はそれぞれ妖の態度に、あるいはその存在自体に顔を顰めた。
「うわっ、本当にいた。おばあちゃんが言ってた妖」
「失礼な子だこと。訪ねて来たのはあなた達の方だというのに」
失礼だと言いながらも、妖の表情はとても楽しげだ。かつて幾度も妖の元に訪れ物語を強請ったあの子に似た懐かしい気配に、目を細める。
「無駄足ご苦労様。お迎えが来るまで好きにしていればいいわ」
「迎え?…まさか」
表情を険しくする呪いを纏う娘の胸元を指さす。慌てて取り出された呪符は黒く変色し四隅が焦げ、もはや意味をなしていないようであった。
「これって、もうバレてる?」
「だろうね…面倒くさい」
焦りを隠そうともしない子と異なり、娘は随分と落ち着いている。だが溜息を吐きながらも、その瞳には隠しきれない怯えの色が浮かんでいるのを認めて妖は笑みを濃くすると、煙管を仕舞い二人に手を差し出した。
「せっかく来たのだから、少しくらいは付き合ってあげるわ。聞きたい事があるのでしょう?」
警戒する二人を言葉巧みに誘い引き寄せ。緋色の妖は望みを言えと、その鈍色の瞳を弧に歪めた。
言い淀む娘を見て、子は決意を宿した強い眼をして娘よりも前に出る。そして怯えも迷いもなく、高らかに告げた。
「この子に憑いてる変なやつを何とかして」
「ちょっと、何言ってるのさ」
「あと、この子がずっと探してるものを探してあげてよ。何でも知ってるんでしょう?」
遠慮の欠片もない、我が儘にさえ聞こえるその言葉。懐かしいあの子とは正反対の、けれどその実よく似ている本質に、堪らず緋色は声を上げて笑った。
不機嫌に眉間に皺を寄せ、さらに言い募ろうとする子の頭を乱雑に撫ぜて制す。仕方ないわね、と嘯いて、鈍色を煌めかせながら、語る事の出来るただ一つを二人に差し出した。
「あの坊やはどうにも出来ないわよ。その娘にとって必要だもの。探している答えは坊やの眼が視ているのだから、おとなしく待ちなさいな。でもまぁ、坊やはもう覚悟は決めてしまっているようだし、あなたもその答えの対価を差し出す覚悟を決めなさいね」
「対価はもう差し出したと思っていたけど」
「足りないわよ。あなた、何か坊やに言われて行動した事はある?」
首を振り、否定する娘にでしょうね、と頷く。
「最初は釣り合いを探っていただけのようだけど。今は少し意地になっているようね。精々頑張りなさい」
刹那、娘の体が強く背後に引かれ。
振り返る娘の視線が不機嫌な神の姿を捉え、反射的に逃れようとその身が藻掻く。その小さな抵抗すら気に障るのか、舌打ちをすると娘の顎を掴み無理矢理に眼を合わせた。
「零《れい》」
びくりと体が震え、抵抗が止まる。
その余裕のない強引な様に、妖は呆れたように溜息を吐いた。
「可哀想に。落ち着いて、相手の話を聞くのではなかったのかしらねぇ」
「覗き見とは。相変わらず趣味が悪いな、煙々羅よ」
「見られたくないというのなら、煙を立てないことね」
今にも飛びかかりそうな様子の子の口を塞ぎ動きを制しながら、妖は可哀想に、と繰り返す。
焦っている自覚はあるのだろう。忌々しげに顔を歪め妖を睨めつけながらも何も言わぬその様は、余裕がないながらも自制は効いているようだ。
「別に止めやしないけれど、まずは娘の話を聞きなさい。泣かせて後で後悔するのは坊やの方よ」
「分かっておるわ。我とて娘を泣かせるつもりなどない。いちいち気に障る妖よな」
舌打ちし、その視線が子へと移る。険しさを増す瞳から隠すように子を抱き上げると、妖は一言囁いた。
「花が今の坊やを見たら、何を思うのかしらね」
鈍色が揺らめく金を見据え。険しい表情に戸惑いや微かな怯えの色が滲む。
それは親に叱られる前の子供の表情に似て。
逃げるように娘を連れて消えた神に憐れみすら覚えながら、未だ落ち着かぬ子を制していた手を離した。
「何で止めたの!」
「あの娘には必要だったからよ。坊やの眼も、その存在自体も」
「意味が分かんない!あんな変なのが零に必要なわけないじゃない」
納得がいかないと掴みかかる子を宥め、妖は考える。
この子は何も知らない。娘の呪いの事も、神の眼の事も何一つ。
「そうね。あなたにひとつ、お話をあげましょうか。ただ一つの願いのために呪いを抱えて生きてきた、強がりな泣き虫の女の子のお話を」
「っ、それは」
息を呑む。
迷うように視線が揺れ。それは、でも、と誰にでもない呟きが溢れ落ちた。
「知らないままでいたいのならば、静観することね。何も知らないまま手を出そうとするのは、相手の邪魔をするのと同じことよ」
知らないながらも娘の助けになろうとする、その想いは尊いものだ。だが知らぬままでは何も出来はしない。
無知とは時に罪になる事すらあるのだから。
妖の言葉の真意をくみ取ったのだろう。迷いはあるものの、妖を見るその眼は逸らす事なく真っ直ぐで。
「聞かせて。零の事、ちゃんと知りたい。その上であたしに何が出来るのか、考えたいから」
覚悟を決めた強さを含んだ言葉に頷きを返し、緋色の妖は子を膝に乗せた。
懐かしいあの子にしたように、一つの物語を語り出す。
それは遠い昔。一つの誤りを切っ掛けに始まり。
永い旅を続けている一人の少女の、終わりのまだない物語だった。
20240829 『突然の君の訪問。』
絹糸のような細雨が降り続いている。
室内の手入れをしながら雨が止むのを待つが、今日はこのまま降り続けるようだ。
短く息を吐いて立ち上がり、傘を持って外に出た。
参道。手水場。社務所。社。
一通り確認して回る。大分手入れを行ってきたが、長らく人の絶えていた地だ。雨に濡れて腐食した部位から、簡単に崩れ落ちてしまいかねない。
一つ一つ確認していきながら、最後に社の裏へと向かう。その先に佇む藤の木に近づくと、そっとその幹に触れた。
一度は枯れかけたと思わしき、藤。乾いた枝に青々とした葉を茂らせてきてはいるが、それはまだ枝の半数にも満たない。数年は花を咲かす事が出来ないであろう藤に、それでもどうしようもなく心惹かれるのは何故なのか。
枯れかけた藤。死んだ村。
このまま森に淘汰されていくはずの人の絶えた地に、こうして居を構えてから半年過ぎた。時代に取り残された、今の世では不便でしかない暮らしは存外己にあっていたようで、苦ではない事は幸いだった。
何故この地なのか。理由は分からない。だがこの社に辿り着き、その裏の先の藤を見た刹那。帰ってきたのだと、そう確かに感じていた。
この藤に、己は愛されてきた事を知っている。譲れないものがあった。それ以上に強く望み願ったものがあり、そのすべてを藤は見届けてくれていた。戻って来れないと覚悟をし、けれども戻って来た際にはその生を祝福され、誰よりも愛された。
記憶にはない、本能がそれを知っている。だからこそ藤の元で生きたいと強く望み、こうして帰って来たのだと理解している。そしてそれはおそらく己だけではないのだろう。
ここに来てからの今までを思い返し、苦笑する。己が藤の元へ帰って来てから半年。呼応するかの如く、一人また一人と人が集まり、かつて村のあった地にまた住み始めた。お互い知らぬ者同士。されど旧知の仲の如く気が合い、互いに協力しながら生活してきた。
彼女もまた、この藤に惹かれ帰ってきた者の一人だった。
「あぁ、ここにいたの。お客人よ」
「客?珍しいな」
丁度思っていた彼女の声と、客の言葉に振り返る。この藤の元へ来たのだろうか。
見れば、傘を差した彼女の後ろに少女が二人。傘も差さず互いに手を繋ぎ、だがその視線は藤ではなく、その奥の禁足地である山へと向けられていた。
「宮司様。不躾ながらお願い申し上げます。禁足地へ足を踏み入れる無礼をお許しください」
凪いだ眼をした、不思議な気配のする少女は淡々と告げる。その背後で慌てるもう一人の少女とは手を繋いだままであるが、気にかける様子もない。
その慇懃無礼な様子に気圧され理由は問えず、楽しげに様子を伺う彼女にどうするべきかと視線を向けた。
「別にいいじゃない。禁足地だなんて大昔の事だもの」
「そうだな。それに俺は宮司ではない。許可なぞ必要ないだろう」
「ありがとうございます」
礼をしてそのまま山へと向かおうとする少女達を引き留め、己の差していた傘を手渡しながらだが、と忠告をする。
手入れをしていたのは、この藤のある場所までだ。山から先へはこの半年、一切足を踏み入れてはいない。
「人の手が入っていない山の中だ。とても歩ける状態ではないだろう。止めはしないが、気をつけろ」
己の言葉に、少女達は正反対の反応を見せた。後ろにいる少女は困ったような、焦ったような表情をして前にいる手を引く少女を見つめ。前にいた少女はやはり凪いだ眼をして、しかし小さく微笑みを浮かべ、大丈夫と答えた。
「狭間への道は分かります。まだ道は閉ざされていないので、心配しないでください」
囁くような声音は、どこか懐かしさを含み。
一礼して山へと向かうその背を、何を言わずに見送った。
「狭間、か。何だか懐かしい気がするわ」
目を細め、二人が去った方を見る彼女に、そうだなと言葉にはせずに同意した。
ここは懐かしい。そしてとても愛おしいものばかりだ。
村も。社も。藤も。
そして彼女も。
「なあ、鈴音《すずね》」
「なにかしら?」
ふわりと、己を見て微笑う彼女を引き寄せる。急な事に彼女が手放した傘が音もなく地に落ちるのを視線の端で捉えながら、目を閉じた。
「ずっとお前に触れたかったと言ったら、お前は笑うだろうか」
「別に笑ったりなどしないわ。私も望んでいたもの」
雨に濡れるのも構わず胸に擦り寄り、彼女がくすくすと笑う声がする。名の如く鈴の音のようなその声音は、初めて出会った時から何一つ変わらない。
「私もきっと待っていたのよ。白杜《あきと》」
「そうか」
「可笑しなものね。本当に」
笑う彼女の声に、帰って来たのだと実感し笑みが浮かぶ。
雨に濡れながらも、何よりも愛おしい彼女を腕に抱いて、しばらくその幸せを噛みしめていた。
20240828 『雨に佇む』