sairo

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懐かしさすら感じる香り。色鮮やかな蒼と翠の色彩に目を細めた。
思わず口角が上がる。うまくいったという達成感と、出し抜けたという優越感。

やっと屋敷から抜け出す事が出来た。あの現世から隔離され閉じられていた空間から、屋敷の主を欺いて出たのだ。


声を上げて笑いそうになり慌てて口を押さえると、急いで森を駆け抜けた。



久しぶりに戻った我が家は、見た目は特に変わらず。鼻につく埃臭さに、慌てて窓を開け換気する。
冷蔵庫を開け、水しか入っていない事に落胆し、同時に安堵した。一ヶ月以上も家を空けていたのだ。食べれるものがあったとして、それはすべて廃棄処分になっていた事だろう。
空腹を覚えど、今は外に出る気にはならず。仕方ないかと、ベッドに腰掛けそのまま横になった。
埃っぽさには、この際気にしない事にする。

「あ、いけね」

ズボンの違和感に、ポケットに入れたままだった小瓶を取り出す。中の透明な液体が揺れて、微かに音を立てた。
蓋を開け左手首に吹きかける。ふわりと香る爽やかなりんごと、次第に変化する凜とした睡蓮の花の香りが鼻腔をくすぐり、先ほどまでの高揚感を思い起こさせる。

「今頃、慌ててるのかな」

想像して、隠しきれなかった笑い声が漏れる。
いつもはこちらを振り回してばかりの屋敷の主が狼狽えているのを考えるだけで、楽しくて仕方がなかった。
もしくは怒っているのかもしれない。勝手に屋敷を出たのだから、それも当然と言えば当然だ。しかし何も言わないで様々を勝手に事を進めようとしていたのだから、これくらいの意向返しは許されて然るべきである。

「にしても、こんな女の香り一つで誤魔化されるなんて」

手にした瓶を弄ぶ。髪を下ろし、着崩していた服をしっかりと着て。そして女性ものの香水を振りかけ、自分を女と見立てただけで、あれだけ強固に閉じていた屋敷は外へと続く玄関の扉を開いた。
たったそれだけで自分を認識されなくなるなんて、と少しばかり複雑な気持ちはあるが。出れるのならばと切り替えて、こうして久しぶりの自宅に戻ってきたのだ。


「馬鹿だなあ」

いつかの言葉を繰り返す。
あの時は化かし合いだと思った。お互いの本心を引きずり出すための駆け引きだと、そう思っていた。
だが今は。
屋敷の主の思惑は駆け引きの範疇を超えていて。その思惑を知った自分は、それに反抗し戻ってきた。

これはすでに化かし合いではなくなっている。

本当に馬鹿だなあ、と呟いて、少しだけ眠ってしまおうかと目を閉じた。


あの屋敷の違和感に気づいたのは、実は始めからだったりする。
妙に馴染む和室。広大な屋敷の中で一度も迷う事はなく。
幼い頃に足繁く通った屋敷に対する思いは、懐かしさよりも戻れたという安堵感に近かった。

違和感が確実になったのは、現世から隔離された頃だった。
何度も打った式が帰らない。境界を超えられずにいる事は分かっていたが、その後の式は行方が知れず戻ってくる事はなかった。
それに比例して段々に馴染んでいく屋敷の感覚。目を閉じると自分が人なのか屋敷なのかが曖昧になっていく気がしていた。

そして枕元に置かれた小さな麦わら帽子。
あの夏の日に置き忘れた麦わら帽子は、すでに屋敷の一部となっていて。
その麦わら帽子がすべての答えだった。
屋敷に取り込むのか。あるいは新たな『迷い家』にするのか。
どちらにしても、それは人ではなくなるという事だ。
そこに自分の意思などない。

それを知った時、最初に感じたのは恐怖でも怒りでもなく、純粋な呆れだった。
一言くらい言えばいいのに、それが素直な感想である。
何も言われず、じわじわと追い込まれるのは気に入らない。何を思っての行動なのかが何一つ見えていないのは、徒に不安をかき立てるだけだ。

すべて話してくれたのなら。本心をさらしてくれたのならば。
まずそこで一悶着はあるだろうが、それでもここまで意地を張り続けるつもりなどはなかったのに。


寝返りを打って、考えを霧散させる。
これ以上は意味のない事だ。まずは寝て頭をすっきりさせる必要がある。
何せこれからやることはたくさんあるのだから。
部屋の整理。スマホの買い換え。親しくしてくれた数少ない友人達への連絡。あとは折角だから無駄に貯まった金銭を使い切ってしまおうか。

そしていつか屋敷の主が迎えに来てくれたのならば。
そのときは思い切り言いたい事を言い切って、最後に足りなかった一番重要な事を教えてやろう。

自分が一番嫌いな、自分の名前。
屋敷の主が知っているのは姓の方だ。昔から女みたいな名前が嫌いで、あの夏の日も名乗るのに姓を使っていた。
それを知った時、驚くだろうか。それとも悔しがるだろうか。
どちらにしても、女のような名前を笑われなければそれでいい。

凜とした睡蓮の香りに微かに混じり始めた白檀に、あの屋敷を重ねて苦笑する。
緩やかに沈んでいく意識の端で。

馬鹿だなあ、ともう一度繰り返した。



20240831 『香水』

8/31/2024, 10:39:12 PM