sairo

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男にとって、家族とは唯一であり絶対でもあった。
美しい妻と、優秀な二人の息子。そして心優しい末娘。
裕福ではなくとも皆笑顔を絶やさず、不満も不安も何一つなかった。
妻の作る料理を食べ、息子達の話を聞き、怖がりな末娘と共に眠る。

男にとっては、そのささやかな幸せこそが何よりも尊いものだった。



――始まりであり、すべての根源の糸を歪めたのは、赤い炎だった。

渦を巻き、天をも焦がし、形あるものを等しく灰燼に帰する。強大な炎が男が住まう村の悉くを焼いていた。

男が勤めを終えて戻った時にはすでに手遅れで。炎はすべてを燃やし尽くしていた。
妻は家のあった場所で、建物と共に炭と化し。息子達は家のすぐ側で折り重なって息絶えていた。
そして、末娘は。



――歪んだ糸に絡まったのは、末娘の微かな命の灯火だった。

息子達の亡骸の下で、守られるように生きていた末娘。体の大半を炎に焼かれ、浅い呼吸を繰り返し。
生きている事が奇跡だと思うほど、娘は死のすぐ近くにいた。
だがそれでも。死の淵にあろうと娘は。
男の呼びかけに薄く目を開き、静かに微笑みを浮かべて。

「ぉ、と、さん…お、かえ、り、なさ、」

痛みに泣く事も、苦しむ事もせず。
ただ一言。おかえりなさい、といつものように帰ってきた男を出迎えて、力なく目を閉じた。



――絡まる糸を解けぬように結びつけたのは、男に呪の心得があった事だった。

最愛の娘の消えゆく命を絶やさぬために、男は手段を選ばなかった。
薬を煎じ、呪を施し、外法にすら手を染める事を厭わなかった。
どんな姿であろうと、どのような形であろうと構わなかった。末娘が生きてさえいてくれればと願い続けた。

「おやすみ、玲《れい》」

優しく髪を撫で、一人を怖がる事がないように小さな体を抱きしめ眠りにつく。
答える声はない。それでも構わなかった。ただ側にいて、こうして生きてさえいてくれれば、それだけで。
目覚めぬ末娘の隣で、その生を感じながら眠る。それだけが男に残された最後の、そして唯一の幸せだった。

だがどんなに願おうと、呪を施そうと、終わるはずの命を留めておく事など出来はしない。
いくら足掻いたとして、終わりは確実に近づいていた。



――固く結んだ幾重にも絡まる糸を黒に染めたのは、ただ一つの誤りだった。

男の持てるすべてを費やしても、末娘の命の灯火は次第に弱くなり。
追い詰められた男は、選択肢を誤った。だが同時にその方法だけが、唯一娘を留め続けるものだった。

「すまない。それでも愛しているよ」

男は一筋涙を流し、彼の末娘に最後の呪を施す。

それは末娘の存在を否定する、禁呪。
存在を否定された事で、訪れるはずの死を否定し。
呪を施された事でそれは末娘ではなくなると知りながら、男は最後の望みに縋った。


眼が開く。感覚を確かめるようにゆっくりと体を起こし。
虚ろな瞳が男を見つめ、静かに笑みを浮かべた。

「気分はどうだ。不具合はあるか」
「もんだいありません。おこころづかい、ありがとうございます」

男に答えたのは、末娘ではなく。

娘の死は否定され。男の末娘はどこにもいなくなっていた。


そうして季節が一つ巡り。
男と存在しない娘の、奇妙でありながらも穏やかだった生活は、ある日を境に形が変わっていく。



――黒に染まった糸を切り離して呪いに変えたのは、作為のある言葉だった。

男の元に訪れた者は、表面上は取り繕いながらこう告げた。

「村を焼き、あなたの家族を奪ったものを知っている。国のために力を貸してくれるのならば、教えよう」

男にはすでに守るべき者も、愛すべき者もなく。喪った家族の復讐のために、男がその者を受け入れるのは当然の事であった。

国を守るため、柱と依代を用意した。そのために孤独に終わる命を掬い上げ、慈しんで大事に育て上げて。呪を施して、最期を看取った。
掬い上げた子らは男を慕い、それでも男は慈しみこそすれ愛す事は出来なかった。

国に仇なす者を屠るため、呪い巫女を作り上げた。少女達は従順に男に従い、呪いを歌った。
彼女達の事もやはり愛す事は出来なかった。

国のためと呪を施しながら、それでも男は愚かではなかった。
村を焼き、家族を奪ったものが誰の指示に従っていたのか。始めから知り得た上であえて受け入れていた。

最後に何もかもを終わらせるために。
復讐のために、国に従う哀れな男を演じ続けていた。


しかし終わらせるための呪を施した少女は、男の心を揺さぶった。共にいた時間が他の子らよりも長かったためか、それとも少女が末娘に似ていたためか。
愛しい末娘の面影を少女に重ね、それがいつしか少女自身を見るようになり。
終わりが近くなって、男は初めて自身の呪で喪う事を恐怖した。

今残っているのは少女と、存在のない娘。
いつからか男の側におり、施された呪によるものか死ぬ事のない不思議な娘。それならばと柱や形代、呪い巫女の呪を試し、最後の呪の繋ぎに使おうと思っていた娘の元へ早足で向かう。
少女を生かすためには、娘をここから離す必要があった。


娘は多くを語らない。ただ少女には懐き、素を見せる事もあるらしいが、男に対しては従順である事がほとんどであった。
こうして新たに呪を施され、ここから離れろと告げられても、娘は何も言わずに頷いた。

呪を施し終わり、娘はやはり何も言わずに立ち上がる。そのまま外へと向かう娘に、男は反射的にその手を掴んで引き留めた。
きょとん、と幼さの残る顔で娘は男を見つめ。掴まれたままの手を軽く引くと、男は何かを耐えるように唇を噛みしめ、掴んだその細い手首に自身の数珠を巻き付けた。
その理由は男にも分からない。ただこのまま一人で去って行く娘が帰れるようにと願い、その手をそっと離した。

数珠に触れ、男を見て。
娘は静かに微笑んだ。

「行ってきます。――」

柔らかな懐かしい響きを含む声音。
その最後の言葉は聞き取れず。聞き返そうにも、すでに娘は去った後だった。



――呪いとなった絡まる糸は二度と解ける事はないまま。

男の始まりを覚えている者はなく。娘の元の存在を知る者もいない。


唯一、気怠げな緋色の妖だけが。
こうしてすべてを記憶し、物語として語るのみだ。



20240830 『言葉はいらない、ただ・・・』

8/30/2024, 2:59:58 PM