sairo

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絹糸のような細雨が降り続いている。

室内の手入れをしながら雨が止むのを待つが、今日はこのまま降り続けるようだ。
短く息を吐いて立ち上がり、傘を持って外に出た。


参道。手水場。社務所。社。
一通り確認して回る。大分手入れを行ってきたが、長らく人の絶えていた地だ。雨に濡れて腐食した部位から、簡単に崩れ落ちてしまいかねない。

一つ一つ確認していきながら、最後に社の裏へと向かう。その先に佇む藤の木に近づくと、そっとその幹に触れた。
一度は枯れかけたと思わしき、藤。乾いた枝に青々とした葉を茂らせてきてはいるが、それはまだ枝の半数にも満たない。数年は花を咲かす事が出来ないであろう藤に、それでもどうしようもなく心惹かれるのは何故なのか。

枯れかけた藤。死んだ村。
このまま森に淘汰されていくはずの人の絶えた地に、こうして居を構えてから半年過ぎた。時代に取り残された、今の世では不便でしかない暮らしは存外己にあっていたようで、苦ではない事は幸いだった。
何故この地なのか。理由は分からない。だがこの社に辿り着き、その裏の先の藤を見た刹那。帰ってきたのだと、そう確かに感じていた。

この藤に、己は愛されてきた事を知っている。譲れないものがあった。それ以上に強く望み願ったものがあり、そのすべてを藤は見届けてくれていた。戻って来れないと覚悟をし、けれども戻って来た際にはその生を祝福され、誰よりも愛された。
記憶にはない、本能がそれを知っている。だからこそ藤の元で生きたいと強く望み、こうして帰って来たのだと理解している。そしてそれはおそらく己だけではないのだろう。

ここに来てからの今までを思い返し、苦笑する。己が藤の元へ帰って来てから半年。呼応するかの如く、一人また一人と人が集まり、かつて村のあった地にまた住み始めた。お互い知らぬ者同士。されど旧知の仲の如く気が合い、互いに協力しながら生活してきた。
彼女もまた、この藤に惹かれ帰ってきた者の一人だった。


「あぁ、ここにいたの。お客人よ」
「客?珍しいな」

丁度思っていた彼女の声と、客の言葉に振り返る。この藤の元へ来たのだろうか。
見れば、傘を差した彼女の後ろに少女が二人。傘も差さず互いに手を繋ぎ、だがその視線は藤ではなく、その奥の禁足地である山へと向けられていた。

「宮司様。不躾ながらお願い申し上げます。禁足地へ足を踏み入れる無礼をお許しください」

凪いだ眼をした、不思議な気配のする少女は淡々と告げる。その背後で慌てるもう一人の少女とは手を繋いだままであるが、気にかける様子もない。
その慇懃無礼な様子に気圧され理由は問えず、楽しげに様子を伺う彼女にどうするべきかと視線を向けた。

「別にいいじゃない。禁足地だなんて大昔の事だもの」
「そうだな。それに俺は宮司ではない。許可なぞ必要ないだろう」
「ありがとうございます」

礼をしてそのまま山へと向かおうとする少女達を引き留め、己の差していた傘を手渡しながらだが、と忠告をする。
手入れをしていたのは、この藤のある場所までだ。山から先へはこの半年、一切足を踏み入れてはいない。

「人の手が入っていない山の中だ。とても歩ける状態ではないだろう。止めはしないが、気をつけろ」

己の言葉に、少女達は正反対の反応を見せた。後ろにいる少女は困ったような、焦ったような表情をして前にいる手を引く少女を見つめ。前にいた少女はやはり凪いだ眼をして、しかし小さく微笑みを浮かべ、大丈夫と答えた。

「狭間への道は分かります。まだ道は閉ざされていないので、心配しないでください」

囁くような声音は、どこか懐かしさを含み。
一礼して山へと向かうその背を、何を言わずに見送った。



「狭間、か。何だか懐かしい気がするわ」

目を細め、二人が去った方を見る彼女に、そうだなと言葉にはせずに同意した。
ここは懐かしい。そしてとても愛おしいものばかりだ。
村も。社も。藤も。
そして彼女も。

「なあ、鈴音《すずね》」
「なにかしら?」

ふわりと、己を見て微笑う彼女を引き寄せる。急な事に彼女が手放した傘が音もなく地に落ちるのを視線の端で捉えながら、目を閉じた。

「ずっとお前に触れたかったと言ったら、お前は笑うだろうか」
「別に笑ったりなどしないわ。私も望んでいたもの」

雨に濡れるのも構わず胸に擦り寄り、彼女がくすくすと笑う声がする。名の如く鈴の音のようなその声音は、初めて出会った時から何一つ変わらない。

「私もきっと待っていたのよ。白杜《あきと》」
「そうか」
「可笑しなものね。本当に」

笑う彼女の声に、帰って来たのだと実感し笑みが浮かぶ。

雨に濡れながらも、何よりも愛おしい彼女を腕に抱いて、しばらくその幸せを噛みしめていた。



20240828 『雨に佇む』

8/28/2024, 3:00:57 PM