sairo

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8/27/2024, 10:30:39 PM

ひとつひとつ、荷物を箱に詰めていく。
どうして、と何度も繰り返した言葉を呟いて、溜息を吐いた。

箱に収められた私物。本家への集まりのための一時的な滞在であるため、箱一つで事足りる。
そういえば彼女は、旅行など滞在先に多くを持ち込まない性格であったなと思い出す。足りなければ滞在先で調達し、帰りの時には手荷物以外はすべて自宅へと配送する。いつだって身軽な彼女は最後も身一つでいなくなってしまった。

最後に残った文机の脇に置かれた本を手に取る。豪奢な飾りの付いた鍵付きの本は、どうやら日記帳であるらしかった。
時間を見れば、まだあれから一時間も経っていない。彼女もいない。ならば少しくらいのぞき見た所で、誰も怒りはしないだろう。

机の引き出しを開けて、鍵を探す。一番上の引き出しの奥。押し込むようにして入っていた小さな鍵を手に取り、鍵穴に差し込んだ。



――日。
とっても素敵な日記帳を買ったので、今日から日記をつけてみようと思う。
街外れにある、小さなお店。皆は行ってはダメだよと言っていたから内緒で行ってきた。
ドキドキしたけど、特におかしな所はない普通の?というか雑貨屋さん?とにかく私の好みの小物が多くて、勇気を出して行ってみてよかった。なんでダメなんだろう。
ただ店主さんがずっとニヤニヤ笑ってたのが気になった。よそものだから、そういう目で見られるのも分かってはいるけど、見世物みたいで嫌だなあ。
気になるものはたくさんあったけど、次に行くときはこの街に慣れてからにしようかな。


――日。
今日はやけについてない。
逆さまつげが目に入って痛いし、枝毛が何本も見つかるし。それに外に出ようと靴を履いたら中、敷きが裏返しになっていた。誰?いたずらしたの。
何だか体のあちこちも痛いし、今日はおとなしく部屋に籠もっていた。時間がもったいないから、何もしないでいるの好きじゃないんだけど。
明日には良くなりますように。


――日。
体が痛い。
食欲がわかない。食べてもすぐにはいてしまう。
なんで?どうしちゃったの?
あるくのも痛くて足をみたら、つめがうら返しになってた。
なにこれ。どうして。こんな。



――にち。
おかしい。同じ日をくりかえしている。
きのうかいた日にちが、きょうの日にちだ。
ここは、なんか、おかしい。
みぎめがみえなくなって鏡をみたら、目がうらがえしになっていた。
きもちわるい。なんで。
みんなわたしをみている。わたしをみて、わたしのはなしをしている。
やめて。わたしをみないで。


――にち。
いたい。きもちわるい。
みんながへん。わたしとわたしのにっきちょうだけがせいじょうだ。
あしたがこない。
みないで。


――。
いたい。くるしい。
みんな、
    みるの、
           いやだ。





くがねさま、がすくって、くれる。

――――行かないと。




あぁ、と声にならない呻きが漏れる。
これ以上見ていられなく、日記帳を閉じると箱へ投げ入れた。

自業自得だ。この街の禁忌を犯したのだから、こうなるのは仕方がない。
あれほど駄目だと言い聞かせたはずなのに、と今更な事を思ったところで彼女はもうどこにもいない。

この街は異常だ。
触れてはいけない多くの禁忌。本家の離れにいる化生の引き起こす空間の歪み。

化生――クガネ。
彼女に話した事はなかったが、日記に書かれていたのはまちがいなく離れの化け物だ。
古い記録では、本家の当主と契約し守り神としていたというが、今のあれにその面影は欠片もない。
ただ離れの奥の部屋に隠り、時折呪われた者を呼び寄せてその存在を消す危険な存在。
そんな化け物に呪われた彼女が呼ばれ、姿を消した。それは彼女が戻らず、誰の記憶からも無くなるという事を意味している。唯一残るのは、この本家で記された記録だけだろう。
きっと近い内に自分の記憶の中からも、彼女は何一つ残さず消えていくのだ。


ゆるく頭を振り、箱を持って立ち上がる。
そろそろ行かなければ、庭では今頃皆が火を焚いて待っているはず。
部屋を見回し、彼女の私物が残っていないか確認する。これからすべて燃やすのに残っていては二度手間だ。
何も残っていない室内を見て、部屋を出る。
彼女の私物を燃やした後もやる事はある。自宅の荷物の処分。引っ越しの手続き。それらは業者に任せるとしようか。

彼女がクガネに喰われたのだから、きっと明日は来る。それに今後十年近くはこの忌々しい狂った繰り返す日を迎えずにすむだろう。しばらくは本家にやっかいになろうか。仕事もすでに退職届を受理してもらい、有休消化中だ。あちらに戻らなければいけない理由はない。


明日からの事を考えて、口角が歪む。
ありがとう、と口から溢れたのは、彼女への別離の言葉ではなく、感謝の言葉だった。



20240827 『私の日記帳』

8/26/2024, 4:07:48 PM

「おじさんっ!」

険しい表情をして早足で近づく少女に、叔父と呼ばれた赤ら顔の男は手酌を止めて振り向いた。
随分と余裕がなく忙しない。その様子に内心で疑問を持つが、彼女に手を繋がれている少女を認め、納得する。ここに来た時、少女に纏わり付いていた強い気配がない。切っ掛けは分からないが、どうやら一時的に離す事には成功したらしい。

「隠すやつか切るやつがほしいんだけど。どこにあるの?」
「は?あれは切れんだろうがよ、どうみても。隠すのも無駄だとは思うが…まあ、切るよりはマシか」

相変わらず向こう見ずな所が強い姪である。だがしかし今の閉じられたこの空間内では、普段抑えている本質が表に強く表れやすいため仕方がない事だと、男は苦笑した。
頭をかきながらゆらりと立ち上がると、棚の奥から古びた鍵を一つ取り出し、姪へと手渡す。

「離れんとこの奥。水鏡の間の押し入れに残ってるだろ。クガネ様には気をつけろよ」
「分かってる。ありがと」

来た時と同じように慌ただしく去って行く二人の背を見送り、男はやれやれと肩を竦めた。彼女の無謀とも言える行動力は疎遠になってしまった男の妹である、彼女の母を思わせる。
彼女の友だという、異端な空気を纏う少女に悪い影響がなければいいと、詮無き事を思いながら残りの酒を一気に煽った。





「よりにもよって離れか。やっかいだな」

舌打ちし、さらに歩く速度を上げる友に手を引かれながら、少女は少しでも自分の置かれている状況を知ろうと声をかける。

「ちょっ、と、待って。何が、なんだか」
「詳しくは後でね。時間がないだろうし」

振り返りもせずに後でと告げる友に、さらに困惑しながらもそれ以上は何も言わず。彼女がこんなにも急くのは、おそらく少女に纏わり付いていたなにかが戻ってくると知ったからなのだろう。

母屋の奥へと辿り着き、重厚な造りの扉を開ける。ぎぃ、と軋んだ音を立て見えた先は、母屋と異なり薄暗く、普段から人の出入りがほとんどない事を示していた。

「大丈夫だとは思うけれど、一応忠告。ここから先で、もし誰かに会っても眼を合わせない、口をきかない。出来るならこの離れでは声を上げないで」

何があるか分からないから、と呟く友のその表情は硬い。それはこの先から聞こえてくる声に関係があるのか問おうとして、結局は何も言えずに口を噤んだ。

薄暗い廊下を、迷いなく奥へと歩いていく。
隠すもの。水鏡の間。クガネ様。
何一つ分からないまま、流されるようにしてここまで来た。常であれば納得するまで友を問い詰めていたであろう少女はしかし、瞳に困惑と不安を乗せ、なされるがままだ。
心の底。冷静な部分が何かがおかしいと警鐘を鳴らしている。幾重にも膜を張って覆い隠してきた柔い部分を暴き立てられているような感覚に、くらり、と目眩がしそうだった。

不意に、友の足が止まる。
だが目的地に辿り着いたようではないようだ。立ち止まる友の背越しに前を見遣る。廊下の先、袋小路に人の形をしたなにかが立ち尽くしていた。

前を見据えたまま、動揺したように友は一歩後退る。

「なんで…どうして、クガネ様が外に出てきているの?」

ぽつり、と小さく呟かれた言葉。離れてはいてもその声は聞こえたらしい。袋小路に佇むなにかはゆらり、とこちらを振り向き、酷く緩慢な動きで近づいてきた。
繋いでいる手に力が籠もる。戻る事も進む事も出来ずなにかが近づくのを見ていたが、様子がおかしい事に気づく。
地を擦る歩き方。彷徨う手。近づかれる事で見えた白濁した瞳。

見えていない。ならば、と繋いでいる手を引き友と廊下の端に寄った。

「……ろ…か、り…」

酷くざらついた声が、繰り返し誰かの名を呼んでいる。漆黒の長い髪を、擦り切れ汚れた元は白かったであろう着物の裾を引きずりながら、誰かを求めて彷徨っている。
探している。あれからずっと。永い間、一人きりで。



呼んでいる。行かなければ。


手を引かれた。
視線を向ければ、険しい顔をした友の姿。もう一つの手も取られ、向かい合わせの形を取る。
なにかがさらに近づくが、二人は無言でただお互いの目を見つめ。意識が引きずられる事がないように強く手を繋ぎ、なにかが通り過ぎるのを待った。

「ふじしろ。かがり」

近くで聞こえる声。立ち止まる気配。


沈黙。無音。静寂。



布ずれの音。通り過ぎていく気配。
息を殺して、ただ音が消えるのを待つ。手は離さず、向かい合わせのまま。


音が過ぎ、ゆっくりと片手だけを離す。もう片方は繋いだまま。
音を立てぬよう静かに歩きながら、袋小路へと向かう。

左右の障子戸には目もくれず、正面の木戸に鍵を差し込む。
かちり、と小さな音を立てて開いた戸を引き、急いで木戸の中へと入り込んだ。


「ごめん。声出しちゃった」
「ううん。逆にありがとう。危なく引きずられる所だった」

友の謝罪を礼で返す。お互い深く息を吐いて、緊張が少しだけ和らいだのを感じた。

「あれはクガネ様。元は本家の守り神みたいだったらしいけど、今はここで一番のやばいやつ。この裏の日も、クガネ様が引き起こしてるってさ…普段は右の部屋に籠もって出てこないんだけどね」

なんでだろう、と首を傾げ。さぁ、と答える少女の意識の片隅で、数日前の泣いている少年の声を思った。

「まあいいや。さっさと札を取ってこのまま出ようか」

小さく笑って押し入れへと向かう。六畳ほどの和室には何もなく、友が求めているものが本当にここにあるのか疑問に思いつつ、友の後を追った。



20240826 『向かい合わせ』

8/25/2024, 3:47:33 PM

「どうした?黄《こう》」

空を見上げ佇む弟の姿を認め、声をかける。

「兄者か。いや、何もない」

視線を空から下ろし兄に答える声は、常とは異なり覇気がない。
悔やむような哀しむような表情をして頭を振る弟に、おいで、と優しく微笑い手招いた。
素直に側による弟の頭を撫で手を取る。手を引き社の上り口に座らせると、同じように兄もまたその隣に座った。

「兄者」
「少し休憩しような。兄ちゃんは黄のようなすごい眼も、神様の力もないからこれくらいしかしてあげられなくてごめんな」

きゅっと、唇を噛みしめ俯く。その様子をあえて視界に入れないようにして空を見ていれば、兄者、と再び小さな声が兄を呼んだ。

「人に戻す事の出来ない子が少しでも人に近い生き方をするには、どのように在り方を変えたら良いのだろうか」

おや、と予想のしていなかった言葉に内心で首を傾げる。神社に訪れた者の望みに応えて視えたものに気疲れしているのだと思っていたが、どうやら思っていた事よりも深刻であるらしい。だがその困惑を表情には出さずに、弟の言葉の続きを待った。

「俺でも分かるほど支離滅裂な呪を施された娘がいる。複雑に絡み合った呪はその魂を歪め、人から逸脱しかけていたが、まだ引き戻せるように傍目からは見えていた。だが、」

口を噤み、目を閉じる。一度深く息を吐くと、目を開けて自嘲に近い笑みを浮かべた。

「永きに渡り己が内に溜め込であろう呪は娘のすべてを浸食していた。あれは最早人ではなく呪そのものだ」

娘の夢を渡り垣間見た光景を思う。破れ寺。怨嗟の声。娘の黒く染まった四肢。
娘の隠し通していたものを暴き立て、尚且つ隠されていた事に怒りさえ覚えてしまう己自身を度し難いと思いながら。なんとも言えないやるせない気持ちを抱え、弟は兄者、と縋るような声音で兄を呼ぶ。

「黄はその子を救いたいんだな。分かった。兄ちゃんも一緒に考えてみるから、黄はまず少し休もうな」

いい子、と優しく頭を撫ぜて弟に笑いかけ。目を閉じされるがままに頭を撫ぜられる弟を見ながら、さてどうしたものかと考える。
元は人であろうと今は呪そのものだというその娘。妖として成る事は難しく、成ったとしても化生に堕ちる可能性は高い。化生に堕ちればいずれ自我を亡くし、そうなれば弟の望む人に近い生き方を送れぬだろう。
弟の言う娘に直接会った事もない身としては、判断に足る情報が圧倒的に少ない。まずは会ってみるべきか、と悩む兄の視線の端で、下の弟がこちらに気づき近づいてくるのを捉えた。
頭を撫でられ続けている覇気のない彼の下の兄の様子に目を瞬かせ、やっぱりか、と頷いた。

「寒《かん》。何がやっぱりなんだ?」
「あれだろ?嬢ちゃんの呪の事なんだろ。一度夢を渡って正しく視た方がいいとは言ったんだが…この様子じゃあ、駄目だったみたいだな」
「寒は知っているんだな。兄ちゃんにも教えてくれないか?」

いいぜ、と下の弟は屈託なく笑う。

「この前、兄貴が無茶苦茶な呪いに呼ばれて、その対価に依代にしてる娘がいるんだけどよ。その嬢ちゃんが一昔前の戦で使われた呪い巫女なんだ。といっても他にも滅茶苦茶に呪を施されてて、それが混じり合って変質しちまって、呪いを撒くんじゃなくて呪いを喰う方に反転してんだけどな」

まるで直接見てきたように語る下の弟に、兄は手を止め首を傾げた。記憶にある限り、彼は主に彼の姉と共に行動していたはずである。いつその娘と出会っていたのかと疑問に思っていれば、上の弟が撫でていた手を外しながら不機嫌そうに呟いた。

「寒緋《かんひ》は昔、娘に会った事があるらしい」
「握り飯をもらったんだ。自分はもう食べる必要がないからって。あん時から結構滅茶苦茶だったから嫌な予感はしてたからなぁ…んで?兄貴は何でそんなに悄気てるんだ?まさか呪の状態を教えてくれなかったからって、拗ねて嬢ちゃんに八つ当たりしてきたんじゃあないだろうな」

目を逸らされる。どう見ても図星を指された様子に、下の弟は溜息を吐いた。
存外子供っぽい弟を見て笑みが溢れそうになるが、それでは益々弟の機嫌が悪くなると必死に耐え。兄は表情を取り繕い弟達を宥めた。

「それくらいにしてやってほしいな。黄も気にしているようだし…そうだ。寒も手伝ってやってくれないか?二人のいう娘の人に近い在り方について、黄が悩んでいるんだ」
「嬢ちゃんの在り方?」

首を傾げ、目を瞬かせる。心底不思議で仕方ないというように、下の弟は兄達を交互に見つめた。

「そんなん、兄貴の眷属にしちまえばいいじゃん。兄貴は神様なんだから、それくらい簡単だろう?」
「…は?」

怪訝な顔をする弟に、同じように困惑した顔をしながら、だってと理由を告げる。

「人に近いって事は、もう戻せないくらい呪が浸食して人には戻せないんだろ?そんなんで妖になんざ成れないし、化生に堕ちさせるわけにもいかない。なら眷属にして、時間かけて呪を解いていくしかなくね?」

それか姉ちゃん達みたいに空間を閉じちまうか、と付け足されるが、それはもはや弟の耳には届いていないようであった。
眷属、眷属か、と繰り返し呟いて。考えもしなかった選択肢の可能性を探る。

「礼を言う。嫌がるだろうが、謀ったのだから文句は言わせぬ」

楽しげに笑みを浮かべ礼を言う弟に、下の弟はうわぁ、と引きつった声を漏らす。兄としても思うところはあるものの、二人と違い詳しく娘を知らぬのだからと結局は何も言わず、立ち上がる弟の背をただ見つめていた。だが楽しげであった弟の表情が、険しさを帯びる。

「どうした、兄貴?」
「あの阿呆めが。いや、今の娘では断りきれんか」

千里を視る眼が娘と娘の友人の姿を捉える。半ば強引に娘の手を引く友の姿に、忌々しいと舌打ちが漏れた。
その光景が不意に掻き消える。隠された事に気づけば、益々その顔は険しくなった。

「兄者。寒緋。すまんが暫し留守にする。娘が拐かされた」

正確には拐かされてなどいないが、視えていない二人には分かりようがない。
表情を険しくする下の弟を横目に、兄は至極冷静に弟に声をかけた。

「御衣黄《ぎょいこう》。すぐ突っ走るのはお前の悪い癖だ。落ち着いて、相手の話をちゃんと聞くんだよ」
「分かっている。行ってくる」
「行っておいで。気をつけて」

弟の姿が消え、苦笑する。
少しでも落ち着いて話し合ってくれれば、と血の気の多い弟を思いながら、険しい表情をしながらも困惑しこちらを見つめる下の弟に声をかけた。

「たぶん大丈夫な気がするよ。黄は視えたものに対してすぐ反応してしまうから」
「あぁ、うん。そうだな…兄貴だもんな」

落ち着き、代わりにげんなりとする下の弟の姿に小さく笑い。

「まずは黄が戻ってくるまで待とうか」

立ち上がり、帰ろうと手を差し出した。



20240825 『やるせない気持ち』

8/25/2024, 2:06:41 AM

海を見下ろしていた。
その虚ろな瞳には、何の感情も浮かばず。表情もなく、ただ海を見下ろし打ち寄せては砕ける白い波の音を聞いている。

一歩足が進む。不安定な足場であるにも関わらず、その足が竦む事も恐怖で顔が歪む様子もない。視線は海へと注がれたまま、足だけが前へと進んだ。

落ちてしまう。暫くすれば進む足が宙をかき、逆らう事も出来ないままに体は海へと沈む。沈んだ体は波に打たれて肉を削ぎ、瞬く間に骨をさらすのだろう。そして削がれた肉は海へと還り、新たな命の糧となるのか。


ひょう、と音がした。うねり響く風の音がどこからか聞こえている。
近くの海蝕洞が鳴いているのか。岩壁を打つ波とは異なる、反響した波の音が微かに鼓膜を揺らした。

動きが止まる。海まであと数歩。
虚ろな瞳が瞬き、僅かに光が灯る。己の置かれている状況を認識しようと視線が彷徨い、眼下に広がる海の碧と波の白を認め。
その表情が恐怖に彩られる。

打ち寄せる波に混じり、無数の腕が手を伸ばしていた。おいでおいでと手招いて、岩壁の上から墜ちる命を待っている。
呼んでいる。遍く命を海へと還すために。あるいは生を羨む亡者が道連れを求めて呼び続けているのか。

ひょう、と再び風が鳴く。
波の音を含むうねりが鼓膜を揺らし、脳を揺さぶる。僅かに灯る光はそのままに、体の自由だけを奪い去っていく。
気づけば音は風や波の音ではなく、呪詛を吐く亡者の声へ成り代わっていた。

恨み辛みを吐く声に導かれ、足が海へと進み。逆らえぬ恐怖に、迫り来る絶望にただ涙を流し続けた。
また一歩。海が近くなり。


「あぁ、そのまま海へと墜ちるのね。可哀想に」

耳元に直接囁きかけられた女の声に、劈く絶叫が辺りを震わせた。




泣きまろび去って行くその背を見送りながら、磯の香りのする女は途方に暮れる。
声をかけただけだった。海蝕洞に溜まった澱みに誘われ海へと向かう人の子に、墜ちてしまうと声をかけた。
それだけであったのに、他の何よりも怯え逃げていくなんて。

はぁ、と息を漏らし、踵を返した。
人の子もいなくなってしまった事であるし、これ以上ここにいても仕方がない。

ひょう、と鳴く海蝕洞の声が聞こえ、振り返る。
邪魔をするなと言いたげな、ざらりと粘つき澱んだ風が頬や首を撫ぜていく。五月蠅い雑音に顔を顰め、文句の一つでも言ってやろうかと口を開く。
だが女の唇から言葉が溢れ出すより早く、鳴く声は断末魔の絶叫へと変わる。

逃げ惑い、許しを請う声。恨み憎む声。悲鳴。


無音。

はて、と首を傾げて海へと近づく。
見下ろせば先ほどまで無数に手招いていた腕は一つも見えず。ただ繰り返す波の音だけが聞こえていた。

少し考え、あぁ、と声が漏れる。
そういえば今は、常世のモノが来ていたはずだった。

ここらにある、いくつかの海蝕洞に溜まったものでも回収に来たのだろう。
暫く前から洞内に入り込む波に乗り、海から来たものや海へといくものが混じり合って、大層な澱みを形成していたようであった。そこに混じり出れなくなった魂魄でもあったのだろう。ただでさえ人の子を惑わすほどの澱みだ。先ほどの人の子は本当に運が良かった。

もう一度、海を見下ろす。
亡者の腕はない。呪詛を吐く声もない。
そもそもあれは本当に亡者のものであったのか、それとも人の子の恐れ畏怖する想いが生み出したものか、女には判断が出来ないが。

ほぅ、と息を吐く。
何だかすごく疲れてしまった。気まぐれで人の子に声をかけては怯えられ、澱む声には恨まれて。
あげくに耳障りな断末魔を聞かされるなんて。

思い出して、すべてが面倒になってしまった。
帰るために元来た道を歩くのも億劫だ。幸いもう海には腕も声もいない。

海へと足を進める。迷う事なく、臆する事もなく。
進んだ足が、宙をかき。


女はそのまま、抗う様子もなく海へと落ちた。



20240824 『海へ』

8/23/2024, 9:51:34 PM

「ごめんね。こうなるとはさすがに思ってなかった」

突然の少女の謝罪の言葉に、少女の友は困惑に目を瞬かせた。

「え、と。どういう意味?」
「いろいろ。巻き込んだ事。守れなかった事。逃げられた事」

指折り数えて挙げられていくいくつかに、さらに困惑した表情が浮かぶ。そのほとんどが、身に覚えのないものだ。僅かに覚えのある事でも、逆に心当たりが多すぎてどれを指しているのかは分からない。
そんな友人の表情を見て、少女はごめんねと繰り返した。

「ここに来て最初に『ころも様』を一緒にしたいって言った事覚えてる?ほら、従兄弟の自転車の話のやつ」

少女の言葉に頷いて肯定を示す。僅かに眉根を寄せ嫌そうにするのは、自転車の状態やその後に訪れた事故現場である坂へと赴いたからなのか。その内心は少女には察する事は出来ない。

「やらないって言われるとは思っていたし、あたしもやるつもりはなかった。ただ少しだけでも揺さぶりをかけられたらなって思ってたんだよ」
「揺さぶり?」
「そ。クラスで『ころも様』をやった子たちに巻き込まれた後からずっと付き纏ってる変なやつに」

彼女の背後を指させば、驚きに息を呑む音が聞こえた。気づかれてはいないと思っていたのだろう。普通に接しているだけでは、分からないものだ。だが親友として常に側にいる少女には、その違和感を最初から感じていた。

「あたしはそういうのはまったく分からないからさ。従兄弟の事故をダシにしてのお泊まり会で、それがどういうものか分かればって思って。んで、もしもヤなものだったら、ここに置いていっちゃおって考えてた」
「え、何それ。初耳」
「だって言ったら警戒されちゃうだろうし、ここにも来なかったでしょ?」

確かに、と納得する友人に少女は笑いかけ。しかしその表情は次の瞬間には苦々しいものへと変化する。

「でも失敗した。逃げられるなんて…様子見なんてするんじゃなかった。ごめん」
「大、丈夫、だよ?逃げたとかじゃないから。うん」

歯切れの悪い様子に、少女の表情は険しいものになる。どうやら嘘は言っていないようではあるが、すべてを語っているわけでもないようだ。

「それよりも、ここに置いていくってどういう事?ここは一体何?」

話を逸らされた、とは思うが、彼女の疑問はもっともである。何一つ話さずに、騙すような形で連れて来たのだから知りたいと思うのは当然の事だろう。
正しくは分からないから話せないけれど、と前置きして、少女は語る。

「ここはね。説明出来ないなにかが至る所にいるんだよ。人を隠す屋敷。体が裏返る店。存在を奪われる神社。化かされ惑う坂道。魂が入れ替わる奥座敷…挙げれば切りがない」

非日常が常であり、逆に日常的なものを探す方が難しいくらいだ。

「場所が悪いのか。本家…あたしのママの実家なんだけどね。そこが大昔に何かやらかしたのか。とにかく変なものがどこにでもいるような場所。だから今更変なのが増えた所で変わらないかなって思ってたんだ」
「そんな犬猫じゃないんだから…出来るわけがないよ」

呆れを滲ませて嘆息する友人に、少女は小さく笑みを浮かべた。
この場所を知っても怯える様子がない事に、密かに安堵する。嫌われてしまうかもとは一応覚悟をしていたが、どうやら一番の最悪は避けられたらしい。

「計画ではこの裏の日に置いていくつもりだったんだけどね」
「裏の日?」
「今同じ日を繰り返しているでしょ?同じ日が続いて段々といろんなものが裏返っていくから、裏の日。本家の敷地内であれば、影響は少ないけど」

窓を見る。カーテンで見えない外は、おそらく悲惨な光景が広がっているのだろう。
捻じれた道路。縦に裂け幹が剥き出しの木。外に開いた家。醜悪な見目の肉の塊。地を這い呻く亡者。
裏返るのは形あるものだけではない。人の精神にも影響を与え、今まで隠してきた内を暴きたてる。

視線を友人へと戻す。目を伏せ何かに耐えるように唇を噛む彼女は、普段とは違いとても弱々しい。屋敷にいれど、幾分かは裏返りの影響を受けてしまう。きっとこれが本当の彼女なのだと思うと胸が痛んだ。

「いなくなる前にあれに何か言われた?」
「…繰り返す日の中で、戻るまではおとなしくしてろって」

ぽつりと呟かれる言葉に、なるほどと頷く。ということはあれは近い内に戻ってくるという事だ。繰り返し続けて閉じるこの地に、入り込めるほどの強さを持つという意味でもある。
想像していたよりもやっかいな相手に、内心で舌打ちした。

「一応聞くけど、あれの言う事を聞いておとなしくしている?それとも裏の日から抜け出して帰る?」
「出れるの?」
「そりゃあ毎年来ているからね。まあ何もしなくても本家の人たちが戻してくれるから、あまり使う事がないけど」

選択に迷う友人に、手を差し伸べる。

「詳しくは知らないし、無理矢理聞き出す事もしないけど。目的があるんでしょ?ここを出ても一日しか経ってないけどさ。あれの言う事を聞いて、やりたい事は出来るの?」

迷う眼が揺れる。涙の薄い膜が張られていくのを見て、この子の本当は強がる泣き虫なんだ、と学校では知る事が出来ないはずの本質を垣間見て、少しだけ後悔した。

「でも神様が」
「あれは関係ない。あたしは零《れい》に…あたしの親友に聞いているの!」

びくりと肩を震わせる、まるで幼い子供のような友人を少女は強い眼差しで射抜く。差し出していた手で彼女の左手を掴んで引いた。

「えっ。ちょっ、と」
「行くよ。ほらぐずぐずしない」

友人の手を掴んだまま、少女は部屋を出て歩き出す。掴んだ左手が控えめに引かれたが、気にしている余裕はなかった。
猪突猛進。勇往邁進。成長し、幾分か落ち着いてきたとはいえ、本質はそう変わりはしない。

繰り返しの日々を抜け出して、それから何をするのか。明日《さき》の事は何も考えず、ただ今日《いま》を抜け出すためにひたすら突き進んだ。



20240823 『裏返し』

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