sairo

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海を見下ろしていた。
その虚ろな瞳には、何の感情も浮かばず。表情もなく、ただ海を見下ろし打ち寄せては砕ける白い波の音を聞いている。

一歩足が進む。不安定な足場であるにも関わらず、その足が竦む事も恐怖で顔が歪む様子もない。視線は海へと注がれたまま、足だけが前へと進んだ。

落ちてしまう。暫くすれば進む足が宙をかき、逆らう事も出来ないままに体は海へと沈む。沈んだ体は波に打たれて肉を削ぎ、瞬く間に骨をさらすのだろう。そして削がれた肉は海へと還り、新たな命の糧となるのか。


ひょう、と音がした。うねり響く風の音がどこからか聞こえている。
近くの海蝕洞が鳴いているのか。岩壁を打つ波とは異なる、反響した波の音が微かに鼓膜を揺らした。

動きが止まる。海まであと数歩。
虚ろな瞳が瞬き、僅かに光が灯る。己の置かれている状況を認識しようと視線が彷徨い、眼下に広がる海の碧と波の白を認め。
その表情が恐怖に彩られる。

打ち寄せる波に混じり、無数の腕が手を伸ばしていた。おいでおいでと手招いて、岩壁の上から墜ちる命を待っている。
呼んでいる。遍く命を海へと還すために。あるいは生を羨む亡者が道連れを求めて呼び続けているのか。

ひょう、と再び風が鳴く。
波の音を含むうねりが鼓膜を揺らし、脳を揺さぶる。僅かに灯る光はそのままに、体の自由だけを奪い去っていく。
気づけば音は風や波の音ではなく、呪詛を吐く亡者の声へ成り代わっていた。

恨み辛みを吐く声に導かれ、足が海へと進み。逆らえぬ恐怖に、迫り来る絶望にただ涙を流し続けた。
また一歩。海が近くなり。


「あぁ、そのまま海へと墜ちるのね。可哀想に」

耳元に直接囁きかけられた女の声に、劈く絶叫が辺りを震わせた。




泣きまろび去って行くその背を見送りながら、磯の香りのする女は途方に暮れる。
声をかけただけだった。海蝕洞に溜まった澱みに誘われ海へと向かう人の子に、墜ちてしまうと声をかけた。
それだけであったのに、他の何よりも怯え逃げていくなんて。

はぁ、と息を漏らし、踵を返した。
人の子もいなくなってしまった事であるし、これ以上ここにいても仕方がない。

ひょう、と鳴く海蝕洞の声が聞こえ、振り返る。
邪魔をするなと言いたげな、ざらりと粘つき澱んだ風が頬や首を撫ぜていく。五月蠅い雑音に顔を顰め、文句の一つでも言ってやろうかと口を開く。
だが女の唇から言葉が溢れ出すより早く、鳴く声は断末魔の絶叫へと変わる。

逃げ惑い、許しを請う声。恨み憎む声。悲鳴。


無音。

はて、と首を傾げて海へと近づく。
見下ろせば先ほどまで無数に手招いていた腕は一つも見えず。ただ繰り返す波の音だけが聞こえていた。

少し考え、あぁ、と声が漏れる。
そういえば今は、常世のモノが来ていたはずだった。

ここらにある、いくつかの海蝕洞に溜まったものでも回収に来たのだろう。
暫く前から洞内に入り込む波に乗り、海から来たものや海へといくものが混じり合って、大層な澱みを形成していたようであった。そこに混じり出れなくなった魂魄でもあったのだろう。ただでさえ人の子を惑わすほどの澱みだ。先ほどの人の子は本当に運が良かった。

もう一度、海を見下ろす。
亡者の腕はない。呪詛を吐く声もない。
そもそもあれは本当に亡者のものであったのか、それとも人の子の恐れ畏怖する想いが生み出したものか、女には判断が出来ないが。

ほぅ、と息を吐く。
何だかすごく疲れてしまった。気まぐれで人の子に声をかけては怯えられ、澱む声には恨まれて。
あげくに耳障りな断末魔を聞かされるなんて。

思い出して、すべてが面倒になってしまった。
帰るために元来た道を歩くのも億劫だ。幸いもう海には腕も声もいない。

海へと足を進める。迷う事なく、臆する事もなく。
進んだ足が、宙をかき。


女はそのまま、抗う様子もなく海へと落ちた。



20240824 『海へ』

8/25/2024, 2:06:41 AM