窓辺に座り、空を見上げる。
久しぶりの雲一つない快晴。空の向こう、遠くに飛ぶ鳥の影を見つけ、目を細めた。
あの鳥のように、空を飛べたのならば。
そんな意味のない夢物語を考える。
そうすればすべてから逃げられるだろうか。家族からも、過去からも、逃げて忘れられるのか。
馬鹿馬鹿しいと苦笑する。逃げた所でどこへ行くのか。そもそも逃げたいとも思っていないくせに。
どうしたの?
あまり外を見てはいけないわ。こちらにいらっしゃい。
部屋に施された術によって形を持った影達が手を引いた。
もう少しだけとも思うが、影達を不安がらせては彼を呼ばれてしまいかねない。手を引かれるままに窓から離れ、ベッドへと戻される。
過保護だな、とぼんやり思う。いくら外に惹かれても、私一人では外には出られないというのに。
いつもより長い病院生活の後、退院先は自宅ではなく住職の住むこの屋敷の見慣れた一室だった。両親は、特に父はよほど住職の事を信頼しているらしい。仕事で家を空ける事が多いのも、その理由の一つではあるのだろう。発作や普段とは違う何かが起きる度両親に連れられ預けられて、最近では家にいるよりも長くこの部屋にいる気もする。
無理をするものではないわ。休む事も大切よ。
大丈夫。眠っている間はずっと手を繋いでいてあげるからね。
「まだ眠くはないよ」
太陽は高く、夜は遠い。それに少し前に起きたばかりだと伝えれば、影達は納得したように頷いた。
それならばと、サイドテーブルを引き寄せてお茶の用意をし始めるその様子に、やはり過保護だなと笑った。
小腹が満たされれば、眠気は訪れるものらしい。
うとうととする意識の中。窓から見える空を、高く飛ぶ鳥を思い描く。
鳥のように空を飛べたら。空を飛んで私はどこへ行きたいのだろう。
誰も私を知らない遠くの場所か。見た事もない世界か。
それとも時間さえも飛び越えて、あの日の皆に会いに行きたいのか。
眠いの?
夕餉まではまだ時間もあるし、眠ってしまいなさいな。
優しく頭を撫でられて、さらに意識が遠くなる。
少しだけ眠ってしまおうか、と。思う端から意識が途切れて落ちた。
懐かしい夕暮れ時の夢を見た。
あの子と二人きり。他の皆はすでに戻っているのだろう。
膝を抱えて泣きじゃくる彼女の背中をさすり、落ち着くまでただ待ち続ける。
泣き虫な子だった。臆病で独りを怖がるような。それでいて一度決めた事は何があっても貫き通す強さを持ち、自分自身よりも誰かを優先する心の優しい子。
そうだ。別れを悲しんで、皆が傷つく事に怯えて泣くこの子をいつも慰めていたのは、私だったはずなのに。
「ごめんなさい。ごめんなさいっ」
泣きながら誤り続ける彼女に何を言えばいいのだろう。触れている背中は冷たく、凍えてしまいそうだ。
「隠していてごめんなさい。弱くて悪い子でごめんなさい。置いていかないで。ちゃんといい子にするから。もっと強くなるから。だから置いていかないで」
また怪我をして、それを隠しでもしていたのか。この子はいつもそうだ。隠して、一人傷ついて。
皆の怒りは心配から来るものだという事に、この子はずっと気づけなかった。
怪我の程度を見ようかと、背中から手を離して腕に触れる。やはりとても冷えている、と触れた腕を引き。
ぐにゃり、とした感触に、思わず掴んだ手を離した。
「ごめんなさい」
いつの間にか泣き止んでいた彼女がゆらり、と立ち上がる。逆行のせいか、顔が見えない。
「欠片でも覚えていてくれて、ありがとう。でも忘れていて。誰も思い出さなくていい」
黒い影となって見えないはずの顔が、笑っているように見えた。
「行って。皆の所へ。夕暮れは、ここに全部置いていってね」
何を言っているのだろう。置いていかないでと泣いていたのは、この子の方なのに。
引き留めるために手を伸ばす。けれどもそれを避ける様に、後ろに下がる彼女には届かない。
待って、と言いかけ、続く言葉を無くして怖くなった。
この子の名が思い出せない。
顔が、姿が。聞いていたはずの声ですら、夕暮れに解けて消えていく。
また一人ぼっちにしてしまうのか。
精一杯の強がりで笑う彼女に、どうして、と呟いた。
気づけば夕暮れ時。
オレンジ色に染まる空に惹かれ、ベッドから出て窓に近寄った。
カラスの鳴く声が聞こえる。遠くの空に鳥の飛ぶ姿を見つけ、目を細める。
懐かしい夢を見た気がする。
同じような夕暮れの空の下で。カラスの声を聞きながら、帰らなければと思っていたような。
手を繋いで、一緒に。
それは形代の誰かだったのか。それとも影達なのか。
夢の内容は酷く曖昧だ。
おはよう。よく眠っていたね。
そろそろ夕餉の時間よ。準備をしましょうね。
声に頷いて、窓から離れる。
一度だけ振り返り、見えなくなった鳥の影を探す。
鳥のように空を飛べたのならば、会いに行けるのに。
そうぼんやりと思い、まだ夢うつつにいる事に苦笑した。
20240822 『鳥のように』
目を開けると、懐かしい寺院の前に立っていた。
「やあ、こんばんは」
濡れ縁に座る、自分と同じ姿をしたなにかがこちらに向けて手を振った。
それはいつかの終点駅にいたあの不快ななにかだと気づき、眉根が寄る。
「神様」
「いないよ。ここはキミの夢の中だから」
夢。
眠れたのかと、他人事のように呟く。その言葉に目の前のなにかは、一瞬だけ傷ついた表情をしたように見えた。
「うん。夢を見てくれたから、ようやく会えた。少し話がしたかったんだ」
笑みを浮かべるなにかに、言葉を返す事はせずに辺りを見回す。
忘れられない景色だ。人だった頃に過ごした場所。
小さいながらも綺麗に整えられた寺院。白く整えられた石畳の参道。青々と茂る木々。
左手首を摩れば、今は無いはずの数珠が手に触れた。
ここが夢の世界だとしたら、何て滑稽なのだろうか。
「確認するけど、ここに神様は来ない?」
「来れないと思うな。よほど強く繋がっていない限りは」
「あなたは夢の中での事に影響を受ける?」
「受けた事はないよ。絶対とは言い切れないけれど」
質問の答えに、内心で良かったと安堵する。
少しくらいならば、気を抜いても問題ないようだ。
「後、もう一つ」
何、と首を傾げるなにかを見据え、口元だけで笑みを形作り。
「椿の在り方を歪めようとしたのは、あなた?」
最後の質問と共に、胎に溜め込んでいる呪を押さえる事を止めた。
「っ、なに、これ」
怯えたように後退る。だが本人の言うように、見る限りでは障りはないようだ。
自分と同じ顔が呪に恐怖する様はとても皮肉だと、耐えきれずに嗤う。
改めて辺りを見渡せば、そこに先ほどの面影は何一つなく。
方々が崩れ落ちた破れ寺。ひび割れ黒く染まった石畳。腐り枯れた木々。
暗がりから地面の下から響く、怨嗟の声。
一変した光景に、こちらの方がしっくりくると頷いた。
「アァ、スマナイネ。少シ気ガ緩ンデシマッタヨウダ」
くすくすと嗤い、少しだけ呪を押さえ込む。まだ愉しんでもよかったが、目の前のなにかは話がしたいと言った。聞いてあげるくらいはしてもいいだろう。
目線だけで話を促す。何故か痛ましい眼をするなにかが酷く不愉快だった。
「椿の事はごめんなさい。最初は知らなかったんだ。ただの化生だと思っていたから」
傍から見れば穢れた椿の化生に見えるのだろう。それは仕方がない事だ。椿の在り方を知らぬものには、その身の穢れが自らが生み出したものか、溜めたものかの判別など出来るわけがない。
水を与えなければ椿に殺される。
なにかの広めようとした噂は、件の行方不明となっていた生徒が戻ってきた事で噂でしかなくなった。しばらくすれば立ち消えるだろう。
謝罪をされたという事はこれ以上椿に関わりはしないという事だ。これ以上は掘り返して責める必要はないと、話を切り上げるため声をかける。
「そレで?話ハおしマイ?」
緩く首を振られる。分かってはいたが、と溜息を吐きだした。
相変わらずその眼は哀しみを浮かべ、気分が悪い。
「キミに食べてほしいモノがあるんだ。人間が成ってしまった妖を取り込んでほしい。その妖がいる事で生き難い子がいるんだ」
「狂骨の事?」
驚きに目が見開かれる。僅かに期待をその眼に浮かべるなにかに、けれど駄目だと首を振った。
「狂骨を喰らウ事は出来ル。でモ出来ナイ」
「何それ?意味が分からないよ」
困惑し歪む顔に、自分はこんな顔も出来るのか、と場違いな事を考える。
同じ顔でも中身が違うのだから、実際に自分には出来ないだろうけれども。
「狂骨を喰らエバ彼女も消エる。根が枯レれバ花モ枯れルノと同じヨウに。狂骨と彼女ハ元は一つなノだカラ、切り離ス事は出来ナい」
正確には狂骨の一部が彼女だ。だからたとえ彼女が死んだとして、おそらく狂骨には影響はなく。逆に狂骨が消えれば、一部である彼女も消えてしまう。
「あナタが彼女をどウしたイノか分かラないけレど、彼女を人トして残セる術がナイ限りハ狂骨を喰ラウ事はしなイよ」
それだけは譲れない、と真正面から睨めつける。
「そうだね。彼女が消えてしまっては、望みに応えられなくなってしまうから、それは避けたいな」
ゆるりと首を振り、なにかは苦笑する。
どうやら誰か、人の望みに応えるために動いていたようだ。いつか離れた場所で見た、彼女とその隣にいた少女の姿が思い浮かぶ。
「古くから関わってきた人間の子がいるんだけれどね。その子がさよならを言う前に、一つだけ望まれたんだ。あの子にはそんな気はなかったのだろうけれど、最後に一つくらいは応えてあげたかったんだ」
張り切りすぎて突っ走ってしまったみたい、となにかは恥ずかしそうに少しだけ俯いた。
「ありがとう。どうするべきか分かっただけでも、キミと話せて良かったよ」
微笑んで、なにかの姿がゆらりと揺らめき、幼さの抜けない少女の姿へと変わる。
帰るのかと、それならばそろそろ起きなければと目を閉じて。
「最後に一つ聞いてもいいかな?」
「ナニ」
少女の問いかけに、目を開けた。
「キミは何故、彼女を人として生かそうとするの?」
息を呑む。
答える必要はない。けれど、と躊躇し、結局はどうしてだろう、と嘯いた。
少女の姿がかき消えて、一人きり。
誰もいなくなってようやく、言えなかった理由を誰にでもなく呟いた。
「今度こそサヨウナラを言いたかったから」
たとえ彼女達の中にもう、自分という存在がなかったとしても。
「だから、」
「己を犠牲にする事すら厭わぬと?」
続く言葉は、けれども背後から伸びる手に塞がれて声にはならず。
何故、と疑問ばかりが浮かぶ。ここには来られないのではなかったのかと焦りが生じ。
目の前の光景を、今の自分の姿を見られている事が、ただ怖かった。
「よもやこれほどまでとは思わなんだ。末恐ろしい娘よ」
破れ寺を見据え、浮かべる笑みも紡がれる言葉も酷く凍てついて。
「先が視えぬわけだ。人の身に、この呪や穢れは重すぎる」
口を塞がれたまま、無理矢理に眼を合わせられる。揺らめく金の瞳の中に怯えた顔の自分を認め、目を閉じる事で逃げ出した。
「零《れい》。目が覚めれば同じ日を繰り返す。終わらぬ仮初めの永遠の中で、しばらくはおとなしくしていろ」
それはどういう意味だろうか。
おとなしくなどしていられない事は、分かっているだろうに。
「人として戻せぬのならば、在り方を変える。この俺を謀ったのだから覚悟を決める事だ」
吐き捨てられた言葉を最後に意識が浮上する。
逆らう事は出来ない。意識が浮上するのに合わせて、溜め込んだ呪が押さえられていくのを感じた。
「俺が戻るまで、せいぜいいい子にしている事だな」
最後まで冷たい響きを持つその声に、一筋涙が零れた。
20240821 『さよならを言う前に』
寂れた社の屋根の上に寝そべり、空を見る。
このまま晴れ渡るのか、それとも雨が降るのか。
青に混じる雲の白は随分と中途半端だ。
猫には雨を読む事など出来はしない。それは子らの領分であった。離れて久しい二人を想い、目を細める。
一人になっても猫は気の向くまま。好きな所へ行き、好きなものを食べ、好きな事をしていた。
遠く海の見える街で昼寝をし、山奥で化生を追いかけ回した事もあった。
だがいつしか子らと共に訪れた場所を辿るようになり、記憶をなぞるように動いて。
結局は、この地に戻ってきた。
猫とは、自由を愛するモノだ。
それは変わらない。子を持とうと、その本質は変わりようがない。
だが同時に、
猫とは、どうしようもなく寂しがりなモノでもあった。
のそり、と起き上がり、音もなく地に降り立つ。誰もいない社の裏へと歩き出し、その先にある一本の藤の木にすり寄った。
「藤。雨が降るかもしれないよ。恵みの雨となればいいな」
藤は答えない。
村が『死んで』藤が枯れてから、たくさんの季節が過ぎた。常世の藤は再び花を咲かせているのだというが、現世の藤はまだ花が咲く事はない。
「藤。どうやら猫には、オヤは向いてなかったようだ」
藤に体を擦り付け、その場で丸くなる。雨が降るかは分からない。たとえ降ったとしても、その時は社へと走ればいいだろう。
だから今は。少しだけでいいから。
誰かの側にいたかった。
懐かしい、匂いがした。
ざり、とわざと土を踏み締め、二つの気配が近づく。
「猫」
共にいた時には聞く事のなかった、冷たい響きを含んだ声が猫を呼んだ。
それは怒りか、はたまた憎しみか。
猫には感情の機微など分かりはしない。だが分からないなりに考え、不安になった。
猫は蜘蛛の二人のオヤにはなれていなかったのではないか、と。
「猫はちゃんとオヤができていたか?銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》もイチニンマエになったか?」
猫の問いに蜘蛛は答えない。猫もそれ以上何も言わず、丸くなったまま蜘蛛を見る事はない。
沈黙。誰も動かず。何も言わず。
言うべき言葉を探し、結局は何も思い浮かばずに。
先に口を開いたのは蜘蛛の方だった。
「猫は親だったよ。だからこそ今も妖として在る事が出来る」
「だがそれだけだ。親として在り方を教えはしたが、情を与えてはくれなかった。正しく親は出来ていなかったな」
情とは何だろうか。猫は考える。蜘蛛の求める情を猫は与える事が出来ないのか。
考えて、悩んで。それでも何一つ思いつかず。
それならと考えるのを止めた。
猫は難しい事は分からない。
分からないならば仕方がないと開き直り、猫は頭を上げてようやく蜘蛛を見た。
随分と険しい顔をしているが、それでも二人の姿を認めて嬉しさで目を細める。
なぁ、と知らず甘える声が溢れた。
「猫はたくさん考えたが、銅藍の言う情は分からない。分からないから、猫には与える事が出来ないよ」
「猫」
「猫はやはりオヤには向かないな。子はイチニンマエになったら離れていくのに、子離れをしなくてはならないのに、それがたまらなく寂しいよ。離れたくないんだ。どうしたらいいのだろうな」
体を起こして蜘蛛を見据え、背筋を伸ばして座る。猫から近づく事はない。いつだって手を差し伸べ呼ぶのは、蜘蛛なのだから。
息を呑み、何かに耐えるように唇を噛みしめて。
険しい顔の二人の蜘蛛は、困ったように笑い、疲れたように深く息を吐いた。
「ったく、何だ。何なんだまったく!ここに来てそれとか、ありえねぇだろうが!」
「仕方ないよ。だって猫だもの。今までもそうだったじゃあないか」
それぞれ異なる反応をしているが、先ほどまでの険しい空気はなくなっている。
猫には理由は分からないが以前の二人がいた頃の空気を感じ取り、懐かしさからゆるりと尾が揺れた。
それに気づいて、蜘蛛は柔らかく笑むと猫に向けて手を差し出す。
「猫。おいで」
甘く優しい声。尾を立てて近寄れば、頭を撫で抱き上げられた。それだけで機嫌良く喉が鳴るのを止める事が出来ない。
「猫はもう親にならなくてもいいよ。代わりに僕達に飼われてくれないかい?」
「猫を?飼うのか?」
きょとり、と目を瞬かせ。蜘蛛の言葉を繰り返す。
「そうか。飼われれば一緒にいてもいいのか。その手があったのを忘れていた」
「嫌じゃないんだ。もっと早く言えばよかったね」
まったくだ、と隣で疲れた顔をしている蜘蛛に、猫も同じようにまったくだ、と頷いた。
もっと早く、出来れば別れる前に伝えてくれたのならば、こんな寂しい思いはしなかったというのに。
猫の内心の不満を悟り複雑な顔をする蜘蛛は、けれども何も言わず。猫の察しの悪さは、共にいた頃から変わらないのだ。
「それなら猫の首輪と名前を用意しないといけないぞ。真鍮の鈴と、紐は二人が編んでくれ」
「めんどくせぇな。何でもいいじゃねぇか」
「真鍮でなければ駄目なの?」
蜘蛛の問いに猫は少し考え、頷いた。
「真鍮がいいな。銀も悪くないが、やはり真鍮だ。猫はそうあるべきだ」
その理由は猫ですら分からない。なんとなくというのが、猫の答えである。
「分かった。猫に合う鈴を探しに行こうか」
「しゃあねぇな。ほら、とっとと行くぞ」
蜘蛛に抱かれたまま、猫は満足げに喉を鳴らす。こうして蜘蛛に抱かれ、頭を撫でられながら移動するのも悪くはない。
ふと空を見上げ。変わらず中途半端な空模様に、猫は蜘蛛に問いかけた。
「瑪瑙。雨は降るのか」
「ん?まだ降らないよ。雨は明日だね」
つい、と空を見、雨を読む蜘蛛に、なるほどと猫は感心する。
「さすがだな。猫にはさっぱりだ」
「これくらいはね。出来て当然だから」
苦笑する蜘蛛に、それでもすごいと猫は思う。猫が猫である限り出来ない事だ。猫に出来るのは、二人が知らないものを教える事だけ。だが今はもう何も教えられるものはない。
だからこそ、今度は蜘蛛に飼われる事がとても魅力的だと猫は笑う。
少し不自由になってしまうが、一人きりで寂しい気持ちになる事もなく、こうしてずっと甘やかしてくれるのだから。
「猫。上機嫌だね。しっぽが揺れてる」
「二人がどんな首輪と名をくれるのか、今から楽しみだからな」
くふくふと猫は笑う。尾がゆらゆらと揺れ動く。
喉を鳴らして、もっと撫でろと蜘蛛の手に頭を押しつけた。
20240820 『空模様』
※ホラー
薄暗い屋敷の中を、奥へ奥へと歩いていく。
誰もいない。一人きり。
ここには入ってはだめよ、と母から忠告されていた事を思い出す。
理由は言われなかった。たくさんの大人や子供が集まるこの時期でも風を通す様子がない事から、客間として使用されるわけでもないだろう。
理由など関係はない。どんな理由であれ、好奇心に駆られた少年の足を止める事はないのだから。
足取り軽く、奥へと進み。気づけば突き当たり。
とん、と足が止まる。
左右の障子戸を見る。戸を開けるか、引き返すか。
今戻ったとして、広間ではまだ大人達が赤い顔をしながら大声で話し合っているのだろう。他の子は外へと遊びに出てしまっている。
今まで遊んでくれていた年上の従兄弟は、事故にあったらしく帰っては来なかった。
しばらく考えて、右の障子戸に手を伸ばす。
その視線がつい、と上を向き。
少年よりも高く、大人と同じ目線の場所に、指で開けられたような穴に気づいた。
目を凝らす。穴の向こう側に何かを垣間見て、背伸びをした。
暗い穴の先。それが障子と同じ、白になり。
それが白濁した人の眼だと知る。
見下ろされている。戸の向こう側の誰かに。声もなく、ただ静かに。どろりとした濁った眼が、逸らす事なく少年を見ていた。
かたん、と戸が小さく音を立てる。
開けられる。開けられてしまう。
白い眼から視線を逸らし、引き返そうと廊下を見遣れば。
その先で黒い何かが蠢いているのを見た。
かたん、と再び戸が音を立てる。
開いている。先程まではなかった僅かな隙間が開いていた。
声にならない呻きが少年の口から溢れ落ちる。後ずさりながらも、視線は戸の隙間に向けられたまま。
その足が背後の戸にあたり、止まる。
かり、かり、と何かを引っ掻く音がして。
隙間から、細く白い、指が。
「ぅわああぁぁ!」
叫んで、反射のように背後の戸を開け中に入る。
急ぎ戸を閉め、距離を取った。
戸が開けられる様子はない。
荒い呼吸を繰り返し、戸を気にしながらも部屋の様子を伺った。
四畳半の狭い和室。その中央にある三面鏡以外の調度品はない。押入れらしき襖は固く閉ざされて、中に何が入っているかは分からない。
戸が開く様子はない。
幾分か落ち着きを取り戻した少年の内に、また好奇心が湧き上がる。三面鏡に近づき、恐る恐る鏡を開く。
薄暗がりでも分かる、それぞれの鏡に映った姿に驚き、驚いた自身の姿を見て笑った。
鏡から視線を逸らす。鏡台の上には何も置かれてはいない。二段ある引き出しの上の方を開けるも、やはり何もなく。少しばかり落胆しながら、下の引き出しに手をかける。
片手では開けられぬ重みに、両手で力を込めて引き。ゆっくりと開けられていくその隙間から覗く中身に、少年の目が丸くなる。
隙間なく収まっていたのは、文字の書かれた符。字の読めぬ少年では、それが何かは分からない。数枚手に取れど、薄暗がりの中では違いに気づく事も出来ず。小さな溜息と共に符を元に戻し、引き出しを閉めた。
鏡面の探索を終え、少年は途方に暮れる。好奇心はすでに鳴りを潜め、あるのは不安だけだ。
ここから出れるのだろうか、戻れるのだろうか。
戸を開ければいるかもしれない何かに怯え、唇を噛む。
閉じるのを忘れていた鏡が、そんな少年の泣きそうな顔を映していた。
頭を振って鏡に手を伸ばす。鏡を閉じようとする手は、しかし閉じる前にその動きを止めた。
鏡に映った背後、押入れの襖が少し開いているのが見えた。
表情が強張る。
入った時には閉まっていたはずだ。開いているはずはない。
見間違えだと、鏡から目を逸らす。暗いから見間違えたのだ、気になるならば直接確認すればいい、と。
鏡を閉じようと手だけを動かして。
その手が、何かに掴まれる。
慌てて手を見れば、鏡から出た細い腕が少年の手を掴み。次々と現れる腕が少年の手を、腕を掴んで鏡の中へと連れ込もうとする。
「やだっ、いや、いやだぁ!」
泣きながら抵抗する少年の姿を、正面の鏡は映す。だが左右の鏡は少年の姿を映しながらも、その表情は明らかに異なっていた。
笑っている。嬉しそうに、楽しそうに。
右の鏡は口元に笑みを浮かべ、左の鏡は声を上げて笑っている。
早くおいで、と手招かれる。
ありがとう、と誰かが喜んでいる。
変わりは誰が、とたくさんの声がした。
鏡の中に引き込まれる間際。
映った襖の隙間から、あの白い眼が少年を見つめているのが見えた。
「もうどこ行っていたの。勝手にいなくなっちゃだめじゃない」
「ごめんなさい」
母に叱られ素直に謝る少年を、離れた場所で二人は見ていた。
同じ光景を見ながらも、浮かべている表情は対照的だ。一人は安堵に笑みを浮かべ、もう一人は無表情ながらもその瞳は冷たく鋭い。
「見つかって良かった」
心からそう思っているのだろう。にこにこと満面の笑みを浮かべる少女を横目に、僅かに表情を険しくする。
周りには見えていないのだろう。叱られ俯く少年の唇が弧を描いて歪んでいる事を。
「どうしたの?何かあった?」
「別に、何も」
心配する少女に気にするなと笑って見せ。部屋に戻ると一言告げて、歩き出す。
着いてこようとする少女に大丈夫だと手を振って、昨夜泊まった部屋へ向かった。
「中身が違う。でも」
しばらくすれば、入れ替わった中身は馴染んでしまうのだろう。
馴染んでいない今ですら、違和感に気づく者は誰もいなかった。母親ですら気づけなかった。
気づかないのであれば、それは入れ替わっておらず最初からそれであったのと同じ事。
過ぎる思いに、頭を振って否定する。
認めてはいけない。屋敷の奥から聞こえる泣き声は、絶えず聞こえているのだから。
「神様」
「ならぬ。取り戻したとて元に戻す術はない。諦めよ」
唇を噛み俯く。
左手首に触れるも、そこにあるものは何もなく。
「己が領分をわきまえよ。すべて背負うなぞ傲慢と知れ」
縋るものがなく迷う手を、縄に繋がれた強い手が窘めるように掴み引いた。
20240819 『鏡』
「娘。それは何だ?」
左手につけた数珠を認めて神は問う。
今までつける事などなかったから、気になったのだろう。
「数珠。どこにでもある、ただの数珠」
事実ではあるが、その答えはお気に召さなかったらしい。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、数珠に触れた。
「随分と大事にしておるようだが。何故今この地で身につける?」
「気休めだよ。落ち着かないし、煩くて仕方ないから」
苦笑して隣の布団で眠る少女を見る。こんな状況でよく眠れるものだと、少しだけ呆れてしまう。
疲れる一日だった。それに何かと思い通りにならない一日でもあった。
この街の事。隣で眠る彼女の事。幽霊の話。
ーーー坂の唸り声。
あの煩い坂を上り彼女に帰る旨を告げたところ、強く引き止められて何故か泊まる事になってしまった。
深く息を吐き、時計を見る。時刻はすでに一時を過ぎていた。
「煩いなぁ」
深夜。日付が変わった頃から聞こえる音は、ずっと止む事なく続いている。
とんとん、とんとん、と。
こんこん、こんこん、と。
扉や窓を叩き続けている。
開けてくださいまし。後生ですのでここを開け、中に招き入れてくださいまし。
開けて。入れて。開けて。中に入ラセテ。
「本当に煩い。こんなに煩いのに、なんで皆起きないんだろう」
「夜は寝るものだ。起きているからこそ引き寄せるのであろうよ」
普段よりも幾分か冷たい響きを含んだその言葉に、肩を竦めて数珠を撫でる。さらに機嫌が悪くなる神におや、と首を傾げ。触れていた数珠を見、神を見て、あぁと納得した。
「ただの数珠だってば」
「娘の呪と同じ気配がするな。人としての生を歪めた下臈《げろう》のものを持ち続けるとは、酔狂な事よ」
「これしか縋るものがなかったからね」
言ってから、しまったと口を閉ざす。
「どういう意味だ?答えよ、娘」
「……別に。そのままの意味だよ」
視線を逸らし、呟いた。
それしかなかったから。それ以上でもなく、それ以下でもない。単純な理由。
けれどその答えに納得がいかないのか、険しい表情を浮かべ詳細を促された。
「時々分からなくなるから。自分が何であるのか、形を正しく認識出来なくなる。そんな時には昔に縋りたくなるんだ…人だった頃の記憶に」
笑って言えたつもりではあったが、神の表情は険しいままだ。憐れまれるよりはいいが、気まずい事には変わらない。
さてどうするか、と視線を扉へと向ける。
音はまだ止まない。声は途切れず、中に入れろと繰り返している。
「零《れい》」
名を呼ばれた。
体が重い。息が苦しくなる。
まるで神を繋ぎ留めている縄に括られ、絞められているようだ。
音もなく近づいた神が、数珠を掴み。
ぱちん、と乾いた音を立て、数珠が飛び散った。
「か、みさま?」
「捨てぬ理由がそれだけであるならば、必要なかろう。我がおるのだ。その存在が揺らぐ事なぞあるまいに」
煌めく金の瞳が、咎めるように睨みつける。
「過去に縋るな。現在《いま》を見ろ。それでも不安だと怯えるならば、俺が新しい名をくれてやる」
息を呑む。
名は駄目だ。施された呪が歪んでしまう。
何も出来ていない今はまだ、変えられるわけにはいかなかった。
「いらない。必要、ない」
手を握りしめ、俯き告げる。
神は何も言わない。ただ静かに側を離れていく気配がした。
「娘。暫し眠れ。休む事を覚えよ」
「こんなに煩いのにどう…あれ?」
気づけば扉や窓を叩く音はなく、声も聞こえない。
静まり返った部屋に困惑し神を見ると、いつの間にかその手には飛び散ったはずの数珠の珠が握られていた。
「捨てるだけのものだ。祓として使う事に問題はあるまい」
手にした珠を窓に向けて放る。綺麗な放物線を描く珠は、けれども溶けるように姿を消して。代わりに窓の外で何かが潰れる醜い音がした。
「神様」
「眠れと言うておる。それとも添寝が必要か?」
「いらない。おやすみ」
これ以上機嫌を損ねる前にと、慌てて布団に潜り込む。
眠れはしないと思いながら、大人しく目を閉じた。
左手首を摩る。そこにはもう数珠はない。
落ち着かない気持ちに、あれで良かったのだと言い聞かせた。
20240818 『いつまでも捨てられないもの』