「娘。それは何だ?」
左手につけた数珠を認めて神は問う。
今までつける事などなかったから、気になったのだろう。
「数珠。どこにでもある、ただの数珠」
事実ではあるが、その答えはお気に召さなかったらしい。不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、数珠に触れた。
「随分と大事にしておるようだが。何故今この地で身につける?」
「気休めだよ。落ち着かないし、煩くて仕方ないから」
苦笑して隣の布団で眠る少女を見る。こんな状況でよく眠れるものだと、少しだけ呆れてしまう。
疲れる一日だった。それに何かと思い通りにならない一日でもあった。
この街の事。隣で眠る彼女の事。幽霊の話。
ーーー坂の唸り声。
あの煩い坂を上り彼女に帰る旨を告げたところ、強く引き止められて何故か泊まる事になってしまった。
深く息を吐き、時計を見る。時刻はすでに一時を過ぎていた。
「煩いなぁ」
深夜。日付が変わった頃から聞こえる音は、ずっと止む事なく続いている。
とんとん、とんとん、と。
こんこん、こんこん、と。
扉や窓を叩き続けている。
開けてくださいまし。後生ですのでここを開け、中に招き入れてくださいまし。
開けて。入れて。開けて。中に入ラセテ。
「本当に煩い。こんなに煩いのに、なんで皆起きないんだろう」
「夜は寝るものだ。起きているからこそ引き寄せるのであろうよ」
普段よりも幾分か冷たい響きを含んだその言葉に、肩を竦めて数珠を撫でる。さらに機嫌が悪くなる神におや、と首を傾げ。触れていた数珠を見、神を見て、あぁと納得した。
「ただの数珠だってば」
「娘の呪と同じ気配がするな。人としての生を歪めた下臈《げろう》のものを持ち続けるとは、酔狂な事よ」
「これしか縋るものがなかったからね」
言ってから、しまったと口を閉ざす。
「どういう意味だ?答えよ、娘」
「……別に。そのままの意味だよ」
視線を逸らし、呟いた。
それしかなかったから。それ以上でもなく、それ以下でもない。単純な理由。
けれどその答えに納得がいかないのか、険しい表情を浮かべ詳細を促された。
「時々分からなくなるから。自分が何であるのか、形を正しく認識出来なくなる。そんな時には昔に縋りたくなるんだ…人だった頃の記憶に」
笑って言えたつもりではあったが、神の表情は険しいままだ。憐れまれるよりはいいが、気まずい事には変わらない。
さてどうするか、と視線を扉へと向ける。
音はまだ止まない。声は途切れず、中に入れろと繰り返している。
「零《れい》」
名を呼ばれた。
体が重い。息が苦しくなる。
まるで神を繋ぎ留めている縄に括られ、絞められているようだ。
音もなく近づいた神が、数珠を掴み。
ぱちん、と乾いた音を立て、数珠が飛び散った。
「か、みさま?」
「捨てぬ理由がそれだけであるならば、必要なかろう。我がおるのだ。その存在が揺らぐ事なぞあるまいに」
煌めく金の瞳が、咎めるように睨みつける。
「過去に縋るな。現在《いま》を見ろ。それでも不安だと怯えるならば、俺が新しい名をくれてやる」
息を呑む。
名は駄目だ。施された呪が歪んでしまう。
何も出来ていない今はまだ、変えられるわけにはいかなかった。
「いらない。必要、ない」
手を握りしめ、俯き告げる。
神は何も言わない。ただ静かに側を離れていく気配がした。
「娘。暫し眠れ。休む事を覚えよ」
「こんなに煩いのにどう…あれ?」
気づけば扉や窓を叩く音はなく、声も聞こえない。
静まり返った部屋に困惑し神を見ると、いつの間にかその手には飛び散ったはずの数珠の珠が握られていた。
「捨てるだけのものだ。祓として使う事に問題はあるまい」
手にした珠を窓に向けて放る。綺麗な放物線を描く珠は、けれども溶けるように姿を消して。代わりに窓の外で何かが潰れる醜い音がした。
「神様」
「眠れと言うておる。それとも添寝が必要か?」
「いらない。おやすみ」
これ以上機嫌を損ねる前にと、慌てて布団に潜り込む。
眠れはしないと思いながら、大人しく目を閉じた。
左手首を摩る。そこにはもう数珠はない。
落ち着かない気持ちに、あれで良かったのだと言い聞かせた。
20240818 『いつまでも捨てられないもの』
8/19/2024, 1:23:21 AM