sairo

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※ホラー


薄暗い屋敷の中を、奥へ奥へと歩いていく。
誰もいない。一人きり。

ここには入ってはだめよ、と母から忠告されていた事を思い出す。
理由は言われなかった。たくさんの大人や子供が集まるこの時期でも風を通す様子がない事から、客間として使用されるわけでもないだろう。

理由など関係はない。どんな理由であれ、好奇心に駆られた少年の足を止める事はないのだから。

足取り軽く、奥へと進み。気づけば突き当たり。
とん、と足が止まる。
左右の障子戸を見る。戸を開けるか、引き返すか。

今戻ったとして、広間ではまだ大人達が赤い顔をしながら大声で話し合っているのだろう。他の子は外へと遊びに出てしまっている。
今まで遊んでくれていた年上の従兄弟は、事故にあったらしく帰っては来なかった。

しばらく考えて、右の障子戸に手を伸ばす。
その視線がつい、と上を向き。
少年よりも高く、大人と同じ目線の場所に、指で開けられたような穴に気づいた。
目を凝らす。穴の向こう側に何かを垣間見て、背伸びをした。
暗い穴の先。それが障子と同じ、白になり。

それが白濁した人の眼だと知る。
見下ろされている。戸の向こう側の誰かに。声もなく、ただ静かに。どろりとした濁った眼が、逸らす事なく少年を見ていた。

かたん、と戸が小さく音を立てる。

開けられる。開けられてしまう。
白い眼から視線を逸らし、引き返そうと廊下を見遣れば。
その先で黒い何かが蠢いているのを見た。

かたん、と再び戸が音を立てる。

開いている。先程まではなかった僅かな隙間が開いていた。
声にならない呻きが少年の口から溢れ落ちる。後ずさりながらも、視線は戸の隙間に向けられたまま。
その足が背後の戸にあたり、止まる。

かり、かり、と何かを引っ掻く音がして。
隙間から、細く白い、指が。


「ぅわああぁぁ!」

叫んで、反射のように背後の戸を開け中に入る。
急ぎ戸を閉め、距離を取った。
戸が開けられる様子はない。
荒い呼吸を繰り返し、戸を気にしながらも部屋の様子を伺った。

四畳半の狭い和室。その中央にある三面鏡以外の調度品はない。押入れらしき襖は固く閉ざされて、中に何が入っているかは分からない。

戸が開く様子はない。
幾分か落ち着きを取り戻した少年の内に、また好奇心が湧き上がる。三面鏡に近づき、恐る恐る鏡を開く。
薄暗がりでも分かる、それぞれの鏡に映った姿に驚き、驚いた自身の姿を見て笑った。
鏡から視線を逸らす。鏡台の上には何も置かれてはいない。二段ある引き出しの上の方を開けるも、やはり何もなく。少しばかり落胆しながら、下の引き出しに手をかける。
片手では開けられぬ重みに、両手で力を込めて引き。ゆっくりと開けられていくその隙間から覗く中身に、少年の目が丸くなる。
隙間なく収まっていたのは、文字の書かれた符。字の読めぬ少年では、それが何かは分からない。数枚手に取れど、薄暗がりの中では違いに気づく事も出来ず。小さな溜息と共に符を元に戻し、引き出しを閉めた。

鏡面の探索を終え、少年は途方に暮れる。好奇心はすでに鳴りを潜め、あるのは不安だけだ。
ここから出れるのだろうか、戻れるのだろうか。
戸を開ければいるかもしれない何かに怯え、唇を噛む。
閉じるのを忘れていた鏡が、そんな少年の泣きそうな顔を映していた。
頭を振って鏡に手を伸ばす。鏡を閉じようとする手は、しかし閉じる前にその動きを止めた。

鏡に映った背後、押入れの襖が少し開いているのが見えた。

表情が強張る。
入った時には閉まっていたはずだ。開いているはずはない。
見間違えだと、鏡から目を逸らす。暗いから見間違えたのだ、気になるならば直接確認すればいい、と。
鏡を閉じようと手だけを動かして。


その手が、何かに掴まれる。

慌てて手を見れば、鏡から出た細い腕が少年の手を掴み。次々と現れる腕が少年の手を、腕を掴んで鏡の中へと連れ込もうとする。

「やだっ、いや、いやだぁ!」

泣きながら抵抗する少年の姿を、正面の鏡は映す。だが左右の鏡は少年の姿を映しながらも、その表情は明らかに異なっていた。

笑っている。嬉しそうに、楽しそうに。
右の鏡は口元に笑みを浮かべ、左の鏡は声を上げて笑っている。

早くおいで、と手招かれる。
ありがとう、と誰かが喜んでいる。
変わりは誰が、とたくさんの声がした。


鏡の中に引き込まれる間際。
映った襖の隙間から、あの白い眼が少年を見つめているのが見えた。





「もうどこ行っていたの。勝手にいなくなっちゃだめじゃない」
「ごめんなさい」

母に叱られ素直に謝る少年を、離れた場所で二人は見ていた。
同じ光景を見ながらも、浮かべている表情は対照的だ。一人は安堵に笑みを浮かべ、もう一人は無表情ながらもその瞳は冷たく鋭い。

「見つかって良かった」

心からそう思っているのだろう。にこにこと満面の笑みを浮かべる少女を横目に、僅かに表情を険しくする。
周りには見えていないのだろう。叱られ俯く少年の唇が弧を描いて歪んでいる事を。

「どうしたの?何かあった?」
「別に、何も」

心配する少女に気にするなと笑って見せ。部屋に戻ると一言告げて、歩き出す。
着いてこようとする少女に大丈夫だと手を振って、昨夜泊まった部屋へ向かった。



「中身が違う。でも」

しばらくすれば、入れ替わった中身は馴染んでしまうのだろう。
馴染んでいない今ですら、違和感に気づく者は誰もいなかった。母親ですら気づけなかった。

気づかないのであれば、それは入れ替わっておらず最初からそれであったのと同じ事。

過ぎる思いに、頭を振って否定する。
認めてはいけない。屋敷の奥から聞こえる泣き声は、絶えず聞こえているのだから。

「神様」
「ならぬ。取り戻したとて元に戻す術はない。諦めよ」

唇を噛み俯く。
左手首に触れるも、そこにあるものは何もなく。

「己が領分をわきまえよ。すべて背負うなぞ傲慢と知れ」

縋るものがなく迷う手を、縄に繋がれた強い手が窘めるように掴み引いた。



20240819 『鏡』

8/19/2024, 3:06:16 PM