空を見上げていた。
昼から夕へと時を移し、蒼から朱へと色を変えていく。そんな空をただ見ていた。
童の笑う声が聞こえた気がして、視線を巡らせる。
遠くに東屋が一つ。そこへ向かい子らが笑いながら、歌いながら駆けていく。東屋で待つ人影が、優しく子らを出迎えていた。
気づけば、黄昏時。
子らは帰るのだろう。出迎えた人影に手を振って、光となり空へと昇っていく。
光を追って空を見上げた。空の朱は色を暗くして、夜を招き始めている。その空を漂い、光は蛍のように淡く、星のように煌めき消えていった。
「迷い子よ」
呼ばれ視線を下せば、先ほど子らを出迎えた男の姿。
己に合わせて身を屈めた男と目が合うと、僅かにその目が見開かれる。
「満理《みつり》。黄《こう》」
男の唇から溢れた名。見ただけで分かるのかと苦笑を漏らした。
居住まいを正し、男の目を見据える。
「感謝を。貴方の存在が二人を生かしている」
民を慈しみ、民のためと命を賭して抗った二人の主。彼の存在が術師を人として生かし、弟を人として繋ぎ留めていた。それはおそらく今も、根底では変わりはしない。
目を逸らさず礼を述べれば、男の目に悲哀が浮かぶ。
「国を滅ぼした痴者には過ぎたる言葉よ。今の我には誹りこそ相応しい」
「その言葉こそ二人を誹るもの。主を今なお誇りと思う二人に対する侮辱でしかない」
男の言葉に眉根が寄る。言葉を返せばそうか、と呟き哀しげに微笑み目を伏せた。
己の成した事に悔いはなくとも、二人に対してはそうではないのだろう。
二人が男を誇りに思うように、男もまた二人を誇らしく思うが故に選択を悔いているように見え、小さく息を吐く。
「二人は貴方に似ている」
特に弟は、神として人のために主であった男の在り方を模倣している。そしてもう一人の術師もまた。
かつての日々を否定し続ける彼の炎を思う。詮無き事と知りながら口を開いた。
「だが貴方は、満理を置いて行くべきではなかった」
そこにどんな理由があろうとも。
真意を問うように、伏せられていた目が合う。それには黙したまま、答える事はせずただその目を見返した。
それでも男には十分であったのだろう。柔らかく笑んで、身を起こした。
「そうだな。満理には酷な事をした。許せとは言わぬ。だが悔いていると伝えてはくれぬか」
男の言葉に頷く。
己が伝えずとも、戻れば目を通して見られるのだろうが、それはあえて伝える事はせず。
「満理がおればと幾度となく思うた。さすれば都を落とす事もできたのであろう…されどあれが最上だと、そう思うておるよ」
東屋へと戻る男を見送り、目を閉じる。
霞む意識の端に、慈しむように頭を撫でる誰かの手を感じていた。
「おや、起きられたのですか」
赤子を抱いて濡縁に座る術師は、視線を向けず手招いた。
歩み寄りながらも、どう話すべきかを悩む。視てきたものを見るために呼び寄せているのだから、結果は変わらない。だが何も知らぬままに見せるのは気が引けた。
側に寄れば、術師の手が胸元の呪符に伸び。
「満理。二人の事は、まだ憎いか?」
手が止まる。見るものすべてを魅了するほどの妖艶な笑みを浮かべ。
刹那、首に走る痛みと共に視界が暗転する。
「満月《みつき》」
目を開き見渡せば、首を失い崩れていく体が見え嘆息する。
相変わらず、余裕のない男だ。痛む首に顔を顰めながら視線を移せば、瞳にどろりとした昏い激情を灯した術師と目が合った。
「暫くは赤子のままでいてくださいまし。次は誤って殺してしまいかねませぬ故に」
つまりはもう話すなという事か。
眼を覆う手を大人しく受け入れる。微かな手の震えに視たものを察している事を悟り、その傷つくだけの行為を哀しく思った。
「なんて度し難き男でございましょうや。今更悔いたとして、それはすべて詮無き事」
嘲るような、哀しむような声音。見終えた後も手は外されず、表情は見えない。
手を伸ばし目を覆う手を掴むも、非力な赤子では外す事も出来ず。名を呼ぶ事すらも出来はしない。
泣いているのだろうか。
おたたさま、と声なく呼んだ。
「満月」
酷く凪いだ声と共に手を外される。
泣いてはいない。少女のような美しい顔を歪め、深縹の瞳に怒りと呆れを浮かべて見下ろされる。
「私を母と呼ぶなと申しましたでしょうに。赤子とはなんと物覚えの悪い生き物か」
どうやら通じてしまったらしい。
しかしその瞳に翳りは見えず。安堵に笑みを溢せば、術師は呆れたように頬を抓った。
手加減はされているが痛む事に変わりなく、その手を外そうと身を捩る。
「満月は真に愚か者でございますね。私が気づいていないと思うておりましたか?」
ぎくり、と身を強張らせ、術師を見上げた。その顔は大分穏やかだ。
謝罪の言葉を口にしかけ、結局は口にせず。強くなる頬の痛みに顔を顰めながらも、強く睨みつけた。
お前が悪い、と声なく告げれば、術師の笑みが深くなる。
「謝罪も出来ぬとは嘆かわしい。致し方ありませぬ。母の役目として、確と躾る事にいたしましょう」
愉しげな術師から視線を逸らし、すなまかった、と一言声なく口にする。それでも頬を抓る手は外れる事はない。
仕方がないかと、幾分か力が抜けた手に手を重ね、目を閉じる。
どうかお手柔らかにと胸中で呟いた。
20240817 『誇らしさ』
白い月が照らす黒い海を見つめていた。
打ち寄せる波の音が鼓膜を揺する。
静かだ。辺りに人影はなく、一人きり。
そろそろ帰らなければと振り返り、疑問に思う。
ここはどこだろうか。何故ここにいるのだろうか。
何一つ分からない事に気づき、そして周囲の異変に息を呑んだ。
気づけば周囲には無数の黒い影。皆一様に海を見つめ、言葉なく佇んでいる。
不意に歌が聞こえた。
聞き覚えのない歌。懐かしいわらべ歌。
不思議な歌に惹かれ、影が動き出す。ゆっくりと、海へと歩き出す。
その影に混じり、海へ歩く誰かの姿。
その誰かを知っている。別れたくないと、失いたくないと願い続けている親友の姿。
彼女の元へと走り出す。
止めなくては。このままでは海に連れて行かれてしまう。水の底へ沈んでしまう。
必死に名を呼び、手を伸ばして。
それでも彼女は振り返る事はなく。
届かない事が悲しくて、声を上げて泣いていた。
目が覚めると、知らない天井が視界に入る。
ここはどこなのか。そんな事を気にしている余裕はなかった。
行かなければ、あの海へ。早くしなければ沈んでしまう。
起き上がり、部屋を出る。出口を求めて歩き出す。
「紺?」
後ろから聞こえた声。その誰かを確かめる事なく、ただ出口を探し。
「紺。止まりなさい。何処へ行かれるのですか」
腕を掴まれ、引き止められる。
その手を振り解こうとしても離す事が出来ずに、焦りが生まれる。
止めないでほしい。早く行かなければならないのに。早く。
「やめて、邪魔しないで。行かないと。沈んじゃう前に止めないと」
「紺」
「沈むのはダメなの。苦しくて、怖くて。手を伸ばしても届かなくて、呼んでも来てくれない。一人ぼっちになってしまう」
水の底は、夜よりも暗くて冷たいのに。あんな場所に一人で行くのは怖いはずだから。
「紺!」
腕を引かれて抱き竦められる。大きな手で目を塞がれて、何も見えない。
「落ち着きなさい。いい子ですから、ワタクシの声だけを聞いてくださいな」
静かな声。温かな熱。
焦る気持ちが次第に落ち着いて、体から力が抜けていく。
「怖い夢でも見たのですね。それでしたら、夢も見ないほど眠れるように呪いをかけましょうか」
夢を見ていたのか。夜の海の夢を。
焦りがなくなったためか、さっきまで覚えていた事が段々と曖昧になっていく。
「行かなくて、いいの?」
「行かないでくださいませ。ワタクシの側を離れないと、話していたではありませんか」
そうだ。約束を、していた。
ずっと昔に、一緒にいると。
でも、
「宮司様。宮司、様」
怖いから。一人は寂しくて、苦しいから。
「紺?」
「………狐さん。助けて」
あの時からずっと繰り返した想いを、願った。
助けて、と一言だけ願い眠りに落ちた少女を抱きかかえ、困惑する。
狐、と呼ばれた。あの日出会った時の呼び名で、この子は呼んだ。
水の底に沈んでいたあの日の少女。助けを求めて手を伸ばしていたのだろうか。
「狐ちゃん」
呼ばれ、振り返る。不愉快な呼び名と、この子を模したその姿は酷く不快であるが、今は気にしている暇はない。
「早く喰ろうてくださいませ。それがアナタ様の役割でございましょう」
「分かってるよ」
常とは異なり険しい顔をした夢が、少女の頭に指を沈め、二つの珠を引き摺り出す。
「大元はただの悪夢。でもソレのせいで思い出しちゃったみたいだね」
手にした珠の一つを飲み込み、もう一つを差し出される。それを受け取り同じように飲み込めば、遠ざかる水面に手を伸ばす少女の姿が見えた。
抗えず水底に沈みながら、霞ゆく意識でただ一人を呼んでいる。声はなく、唇が名を形作る事さえなく。それでも名を呼び、助けを求めていた。
「ずっと忘れていた事だよ。今更思い出す必要なんてない」
「そうですね。今世では必要ないものです」
眠る少女を見つめ、客間へ戻るために踵を返す。暫く目覚める事はないが、少しでも体を休ませたい。
「狐ちゃん。ごめんね」
「何がでしょうか」
ぽつりと溢れた謝罪に、立ち止まる。
「藤ちゃんを怒らせて、一房枯らせちゃった」
「…分かりました。後で向かいます」
話をしてもらえるかは不明であるが。
揶揄い過ぎで避けられてしまっている事を思い出し、思わず顔を顰めた。
「ごめんね」
謝罪の言葉を繰り返し、気配が消える。
去って行った事を確認し、今度こそ客間へと歩き出す。
藤が激怒した理由は、果たして何であったのか。
理由如何で今後を考えなくてはならない。
「まったく、アナタ様もご友人も随分と手のかかる」
知らず、愚痴が溢れる。
藤の嫌う面倒事の中心にいる少女。
だがそれも仕方がないかと、どうしても甘くなる自身に苦笑した。
20240816 『夜の海』
「お願い!一緒に来て」
やや強引なその頼みを断り切れず彼女と共に訪れたのは、田畑が広がるのどかな田舎の地だった。
どうやら彼女の親戚が困っているらしい。電車内で話すとは言っていたものの、疲れからかすぐに眠ってしまい、詳細は聞けず。実際に訪れれば何か分かるかと、あまり深刻に考えずにいたのがそもそもの間違いであった。
「何これ」
「え、自転車。知らない?」
困惑気味にそれの名前を告げられるが、聞きたいのはそうではない。
「明らかに事故ってる自転車を、どうしろと?」
歪んだ車輪。ひしゃげたハンドル。
何かに強くぶつかった痕跡を強く残すこの自転車を、彼女はどうして見せてきたのか。まったく真意が分からない。
だが彼女を見れば、どこか泣きそうな表情で。決してふざけているわけではない事に、ますます訳が分からなくなってくる。
「一から順に説明して」
「うん。分かった。あのね。おじさんから聞いた話なんだけど…」
彼女の話を聞き終わり、思わず重苦しい溜息が零れ落ちた。
十日ほど前の事。
自転車に乗って駅に向かおうとしていた従兄弟が、駅の手前にある坂で事故に合ったという。
幸い命に別状はなかったものの、全治三か月の大怪我を負い、現在も入院を余儀なくされているのだとか。
そこまではただの事故で終わったのだろうが、意識が戻った従兄弟は「女の幽霊を見た」と繰り返し話しているのだという。
だから、ね。と彼女は言葉を濁し締めくくったものの、やはり何一つ分からない。
「で?」
「一緒に『ころも様』をしてくれないかなって」
思わずまた溜息を吐いてしまう。
ころも様。
最近密かに流行っている占い。狐狗狸さんのようなものであり、遊び半分に行うには危険すぎる代物である。
ころも様を行ったクラスメイトが、倒れた事を忘れた訳ではないだろうに。無謀なのか、それほどまでに追い詰められているのか。
「やらない。でも事故現場には一緒に行ってあげる」
仕方がない、と苦笑して、手を差し出した。
結果として、その場で形として得られたものはなく。
何しろ何日も前の話だ。何かを見間違えたとしても、それが残っている可能性はとても低い。
「それにしても、随分きつい坂だねぇ」
急勾配であるだけでなく、坂の終わりは緩やかに蛇行している。これでは常から事故が起こりそうなものではあるが、と親戚らしき人に呼ばれて坂を上って行く彼女の背を見送り、視線を移す。
坂の終わり。その脇に立つ石標。
そこに記された坂の名前。
おそらくは昔、荷を運ぶ家畜がこの坂を上る際の様子から名付けられたのだろう。
ーーー獸唸坂《しゅてんざか》。
「獣、か。牛とか馬とかだったらまだマシだったのに」
「狐の気配がするな。大方化かされでもしたのであろうよ」
呆れを含んだ背後の声に、やはりかと嘆息する。
獸唸坂。獣が唸りをあげる坂。
力がありあまる狐や狸が何をするかは、お察しというやつだ。彼女の従兄弟は運が悪かった。
駅を出た時から感じていたが、ここはどことなく場が悪い。
「神様。ここ、あんまり好きになれそうにない」
「娘。間違ってもあの愚かな呪いはするではないぞ」
「する訳ない。絶対にしない」
声の忠告に、想像するだけでも嫌だと首を振る。
彼女には悪いが、早々に帰らせてもらおうかと彼女を追って坂を上り。
数歩歩いて、足が止まる。
「神様」
「ただの脅かしよ。我がおる故、あれらは手が出せぬであろう」
坂の両脇。木々の合間から、低い獣の声がした。横目で様子を伺うも、声の姿は捉えられず。
「娘。気にせず進め」
背後の声に促され、足を進める。
「やっぱり、ここ嫌いだ。すごくざわざわする」
呟いて、足を速め。彼女を追って坂を上る。
視界の隅で、あの赤く染まった自転車がちらつき舌打ちする。
幽霊を見たという彼女の従兄弟。普段の彼女らしくない、不安げな様子。獣の唸り声が満ちた坂。
酷く気分が悪かった。
20240815 『自転車に乗って』
「姉ちゃん」
ぽつりと溢れた小さな呟き。途方に暮れた、まるで道に迷った幼子のような響きを含んだその一言に、仕方なしに腕を伸ばす。
小さな赤子の腕。ペちりと腕を叩けば、己を抱く弟は泣きそうに顔を歪めた。
泣くなと叱責しようと思えど、赤子の身ではそれも叶わず。内心で困り果てていれば、柔らかな男の声音が弟の名を呼んだ。
「寒緋《かんひ》」
「兄ちゃん」
泣きそうな、それでいて安心したような表情をして、声の主である兄へと弟は視線を向ける。
助かったと内心で安堵し兄を見れば、優しく微笑んで両の手を伸ばし、弟と共に頭を撫でられた。こそばゆさに思わず声を上げて笑えば、兄も弟も顔を綻ばせる。
「良かった。兄ちゃんが来てくれて」
少しだけ落ち着いたのだろう。先ほどよりは和らいだ表情をする弟に、兄は何も言わず言葉の続きを待つ。
「不安なんだ。姉ちゃんを壊しちまうんじゃないかって。そう思うと何も出来なくなるんだ。姉ちゃんを育てるって言ったのは俺だってのに」
乾いた笑い声を響かせ、指先だけで頬に触れられる。触る事だけで壊れる事はないだろうに、怖ず怖ずとしたその様がもどかしい。
「赤子の抱き方なんぞ、とうに忘れちまった。壊す感覚ならいくらでも覚えてるっつうのに…なぁ、兄ちゃん」
何かを言いかけ、口籠る。
続く言葉が容易に推測でき、頬に触れている指を強く握り睨みつけた。言葉を話せぬ赤子の身でなければ、叱言の一つでも言っていたところだ。
「姉ちゃん」
「寒緋」
僅かに眼を見開く弟の指をさらにきつく握りしめていれば、今まで話を聞いていた兄が彼の名を呼んだ。幼子にするかのように視線を合わせ、穏やかに寒緋、と名を繰り返す。
「寒緋は明月《めいげつ》の体をを探していた時、明月を弱いと思ったか?」
首を振る。
「今まで寒緋が明月を、俺達を傷つけた事があったか?」
再び首を振り、否を示す。
当然だ。この臆病者が兄姉に傷をつけることなど出来るはずもない。
弟の答えに兄は破顔すると、くしゃりと髪を撫でる。
「じゃあ大丈夫だ。怖いなら兄ちゃんが隣で手伝ってやるから、ちゃんと出来るだろう?」
小さく、だがはっきりと頷く。
どうやら完全に落ち着いたらしい。ようやくかと呆れながら手を離した。
まったく手のかかる。これから先が不安ではあるが、任せると言ったのは己自身だ。致し方ない。
体を探し求めて鳥籠へ辿り着いてから、様々が変転した。
己の体を見つけ、記憶の欠落が埋まり。半身の存在を認識し、そして失った。
鳥籠より戻り、己の体について兄弟と話し合い。その時に育てると名乗りでたのが弟だった。
半身を連れ帰れなかった事を気に病んでいたのだろう。常とは異なる表情をして告げる弟に是を返し、仮初の泥人形の体を解き。
その結果が、赤子を抱いて途方に暮れ動けなくなるというのだから見るに堪えない。
己を抱いたままで話し続ける二人を見、これから先を憂う。それにしても腹が減った。
と、と、とっ、と廊下を歩く音が鼓膜を揺すり、視線を向ける。
開いたままの障子から顔を覗かせた妹を見て、思わず笑みが溢れた。
りん、と鈴が鳴る。
「銀?どうした?」
お姉ちゃんがお腹を空かせているから
鈴を鳴らし、手にした籠の中身を見せる。
哺乳瓶に掛布。さすがだ。
背後の姑獲鳥に視線を向ければ、頷いてこちらに近づき有無を言わさず抱き上げられた。取り上げられた弟が複雑な表情を浮かべるものの、何も言えずに押し黙る。
最初は姑獲鳥が教えてくれるからがんばって
りん、と鈴が鳴り、妹が静かに笑う。
「ん。分かった。ありがとな、銀花《ぎんか》」
妹の微笑みに笑みを返し、弟は真剣な面持ちで姑獲鳥と己を見る。
いい顔だ。兄達が来る前の不安定さが、今は影も残さず消えている。
己を育てる事で、永くを人の身で生きて摩耗した弟が少しでも癒えるのであればいいと思う。任せる事に多少の不安と羞恥心はあれど、そこは姉として耐えるしかない。
その対価として、成長した暁には半身を探すために思う存分動いて貰えばいい。
半身の行方は、千里を見通すもう一人の弟さえ視えないという。
己の体を探す時よりも困難である事は明らかだ。
只人よりも成長の早い身。こうして世話を焼かれるのも僅かだと言い聞かせ。
腹を満たす己の顔を笑みを浮かべて覗き込み、頬を突く弟を邪魔をするなと睨みつけた。
20240814 『心の健康』
歌声が聞こえる。静かで優しく、それでいて物悲しい旋律。
その声に聞き覚えがあった。大切な名付け子の、声。
普段の愛し子の紡ぐ歌とは異なるそれに、不思議に思い地に降りた。
歌が止む。
夜空に煌々と輝く麦刈星のような金の瞳がことり、と瞬く。瞳に此《これ》を移して、愛し子は花が綻ぶように笑った。
「東風《こち》。どうしたの?」
「歌が聞こえたからな」
駆け寄る愛し子にそう告げれば、不思議そうに首を傾げ。
「私、歌ってた?」
「歌ッてた。知らない歌」
どうやら知らぬ内に口遊んでいたらしい旋律を真似れば、記憶を辿るかのようについ、と金が空を見上げ揺らめいた。
「覚えてないけれど、たぶん誰かの歌かな。過去に生きていた人達の、祈りの歌」
「銀花。あまり視るな」
抱き留めて、眼を塞ぐ。
愛し子の意思に因らず過去を見せる眼は、徒に心身を摩耗させる。視ぬようにと言葉を重ねるも、もはや意味をなしてはいない。
「大丈夫だよ。東風」
心配ないと微笑む愛し子は、滔々と流れる涙に気づく事はない。細い頸に絡みつく指の痕が見えはしない。
壊れていく。掬った手の中の砂が零れ落ちるように、静かにゆっくりと。
いずれ訪れるであろう別れに、密かに唇を噛み締めた。
人の血が混ざらなければ、視た過去に引き摺られ壊れていく事はないだろうに。だが人の血が混じるからこそ、愛し子は煌めく星の如く此を強く惹きつける。小さな手で只管に此を求めて、笑い泣いた初めて出会った時から変わらずに。
「どうしたの?」
「何でもない」
優しく髪を撫ぜれば擦り寄る温もりに、伝わる柔らかでありながらも確かな鼓動に、ただ愛しさを感じ眼を伏せた。
大切で愛しい名付け子。鬼と人を両親に持つ妖混じり。
妖として永久に在る事も出来ず、けれど人として刹那を生きる事も許されぬ、哀しい娘。
「東風。大好き」
好意を告げる澄んだ声。何よりも大切でありながらも、それに応える事が出来ない。
愛し子からの思慕は、妖には重すぎる。受け入れ認めてしまえば、この先の結末を見届け、訪れる別離を受け入れる事に耐えられない。
それを弱く愚かな事だと自嘲し。応える代わりに、愛し子を抱き上げ空を舞う。
「銀花、歌ッて。此のために」
「いいよ」
紡がれる旋律。どこまでも優しく、愛おしく。此のためだけの歌。
歌声に聴き入りながら、もしもを夢想する。
愛し子を壊す眼を抉れば。傷つかぬよう、好きな花で満たした鳥籠に入れて閉じてしまえば。
これ以上壊れる事もなく、傷つく事もなく。それこそ永久に、此を想い歌ってくれるだろうか。
馬鹿馬鹿しい、と一蹴する。
それで満たされるのは此だけだ。親である鬼の夫婦も、愛し子もそんな事望みはしないだろうに。
ふるり、と頭を振り。微かな困惑を瞳に浮かべた愛し子に、何もないと笑いかけ。
響く歌声を供に、暮れる空を駆け抜けた。
20240813 『君の奏でる音楽』