sairo

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「姉ちゃん」

ぽつりと溢れた小さな呟き。途方に暮れた、まるで道に迷った幼子のような響きを含んだその一言に、仕方なしに腕を伸ばす。
小さな赤子の腕。ペちりと腕を叩けば、己を抱く弟は泣きそうに顔を歪めた。
泣くなと叱責しようと思えど、赤子の身ではそれも叶わず。内心で困り果てていれば、柔らかな男の声音が弟の名を呼んだ。

「寒緋《かんひ》」
「兄ちゃん」

泣きそうな、それでいて安心したような表情をして、声の主である兄へと弟は視線を向ける。
助かったと内心で安堵し兄を見れば、優しく微笑んで両の手を伸ばし、弟と共に頭を撫でられた。こそばゆさに思わず声を上げて笑えば、兄も弟も顔を綻ばせる。

「良かった。兄ちゃんが来てくれて」

少しだけ落ち着いたのだろう。先ほどよりは和らいだ表情をする弟に、兄は何も言わず言葉の続きを待つ。

「不安なんだ。姉ちゃんを壊しちまうんじゃないかって。そう思うと何も出来なくなるんだ。姉ちゃんを育てるって言ったのは俺だってのに」

乾いた笑い声を響かせ、指先だけで頬に触れられる。触る事だけで壊れる事はないだろうに、怖ず怖ずとしたその様がもどかしい。

「赤子の抱き方なんぞ、とうに忘れちまった。壊す感覚ならいくらでも覚えてるっつうのに…なぁ、兄ちゃん」

何かを言いかけ、口籠る。
続く言葉が容易に推測でき、頬に触れている指を強く握り睨みつけた。言葉を話せぬ赤子の身でなければ、叱言の一つでも言っていたところだ。

「姉ちゃん」
「寒緋」

僅かに眼を見開く弟の指をさらにきつく握りしめていれば、今まで話を聞いていた兄が彼の名を呼んだ。幼子にするかのように視線を合わせ、穏やかに寒緋、と名を繰り返す。

「寒緋は明月《めいげつ》の体をを探していた時、明月を弱いと思ったか?」

首を振る。

「今まで寒緋が明月を、俺達を傷つけた事があったか?」

再び首を振り、否を示す。
当然だ。この臆病者が兄姉に傷をつけることなど出来るはずもない。
弟の答えに兄は破顔すると、くしゃりと髪を撫でる。

「じゃあ大丈夫だ。怖いなら兄ちゃんが隣で手伝ってやるから、ちゃんと出来るだろう?」

小さく、だがはっきりと頷く。
どうやら完全に落ち着いたらしい。ようやくかと呆れながら手を離した。
まったく手のかかる。これから先が不安ではあるが、任せると言ったのは己自身だ。致し方ない。


体を探し求めて鳥籠へ辿り着いてから、様々が変転した。
己の体を見つけ、記憶の欠落が埋まり。半身の存在を認識し、そして失った。
鳥籠より戻り、己の体について兄弟と話し合い。その時に育てると名乗りでたのが弟だった。
半身を連れ帰れなかった事を気に病んでいたのだろう。常とは異なる表情をして告げる弟に是を返し、仮初の泥人形の体を解き。
その結果が、赤子を抱いて途方に暮れ動けなくなるというのだから見るに堪えない。

己を抱いたままで話し続ける二人を見、これから先を憂う。それにしても腹が減った。

と、と、とっ、と廊下を歩く音が鼓膜を揺すり、視線を向ける。
開いたままの障子から顔を覗かせた妹を見て、思わず笑みが溢れた。
りん、と鈴が鳴る。

「銀?どうした?」

お姉ちゃんがお腹を空かせているから

鈴を鳴らし、手にした籠の中身を見せる。
哺乳瓶に掛布。さすがだ。
背後の姑獲鳥に視線を向ければ、頷いてこちらに近づき有無を言わさず抱き上げられた。取り上げられた弟が複雑な表情を浮かべるものの、何も言えずに押し黙る。

最初は姑獲鳥が教えてくれるからがんばって

りん、と鈴が鳴り、妹が静かに笑う。

「ん。分かった。ありがとな、銀花《ぎんか》」

妹の微笑みに笑みを返し、弟は真剣な面持ちで姑獲鳥と己を見る。
いい顔だ。兄達が来る前の不安定さが、今は影も残さず消えている。

己を育てる事で、永くを人の身で生きて摩耗した弟が少しでも癒えるのであればいいと思う。任せる事に多少の不安と羞恥心はあれど、そこは姉として耐えるしかない。
その対価として、成長した暁には半身を探すために思う存分動いて貰えばいい。
半身の行方は、千里を見通すもう一人の弟さえ視えないという。
己の体を探す時よりも困難である事は明らかだ。

只人よりも成長の早い身。こうして世話を焼かれるのも僅かだと言い聞かせ。
腹を満たす己の顔を笑みを浮かべて覗き込み、頬を突く弟を邪魔をするなと睨みつけた。



20240814 『心の健康』

8/14/2024, 10:50:31 PM