白い月が照らす黒い海を見つめていた。
打ち寄せる波の音が鼓膜を揺する。
静かだ。辺りに人影はなく、一人きり。
そろそろ帰らなければと振り返り、疑問に思う。
ここはどこだろうか。何故ここにいるのだろうか。
何一つ分からない事に気づき、そして周囲の異変に息を呑んだ。
気づけば周囲には無数の黒い影。皆一様に海を見つめ、言葉なく佇んでいる。
不意に歌が聞こえた。
聞き覚えのない歌。懐かしいわらべ歌。
不思議な歌に惹かれ、影が動き出す。ゆっくりと、海へと歩き出す。
その影に混じり、海へ歩く誰かの姿。
その誰かを知っている。別れたくないと、失いたくないと願い続けている親友の姿。
彼女の元へと走り出す。
止めなくては。このままでは海に連れて行かれてしまう。水の底へ沈んでしまう。
必死に名を呼び、手を伸ばして。
それでも彼女は振り返る事はなく。
届かない事が悲しくて、声を上げて泣いていた。
目が覚めると、知らない天井が視界に入る。
ここはどこなのか。そんな事を気にしている余裕はなかった。
行かなければ、あの海へ。早くしなければ沈んでしまう。
起き上がり、部屋を出る。出口を求めて歩き出す。
「紺?」
後ろから聞こえた声。その誰かを確かめる事なく、ただ出口を探し。
「紺。止まりなさい。何処へ行かれるのですか」
腕を掴まれ、引き止められる。
その手を振り解こうとしても離す事が出来ずに、焦りが生まれる。
止めないでほしい。早く行かなければならないのに。早く。
「やめて、邪魔しないで。行かないと。沈んじゃう前に止めないと」
「紺」
「沈むのはダメなの。苦しくて、怖くて。手を伸ばしても届かなくて、呼んでも来てくれない。一人ぼっちになってしまう」
水の底は、夜よりも暗くて冷たいのに。あんな場所に一人で行くのは怖いはずだから。
「紺!」
腕を引かれて抱き竦められる。大きな手で目を塞がれて、何も見えない。
「落ち着きなさい。いい子ですから、ワタクシの声だけを聞いてくださいな」
静かな声。温かな熱。
焦る気持ちが次第に落ち着いて、体から力が抜けていく。
「怖い夢でも見たのですね。それでしたら、夢も見ないほど眠れるように呪いをかけましょうか」
夢を見ていたのか。夜の海の夢を。
焦りがなくなったためか、さっきまで覚えていた事が段々と曖昧になっていく。
「行かなくて、いいの?」
「行かないでくださいませ。ワタクシの側を離れないと、話していたではありませんか」
そうだ。約束を、していた。
ずっと昔に、一緒にいると。
でも、
「宮司様。宮司、様」
怖いから。一人は寂しくて、苦しいから。
「紺?」
「………狐さん。助けて」
あの時からずっと繰り返した想いを、願った。
助けて、と一言だけ願い眠りに落ちた少女を抱きかかえ、困惑する。
狐、と呼ばれた。あの日出会った時の呼び名で、この子は呼んだ。
水の底に沈んでいたあの日の少女。助けを求めて手を伸ばしていたのだろうか。
「狐ちゃん」
呼ばれ、振り返る。不愉快な呼び名と、この子を模したその姿は酷く不快であるが、今は気にしている暇はない。
「早く喰ろうてくださいませ。それがアナタ様の役割でございましょう」
「分かってるよ」
常とは異なり険しい顔をした夢が、少女の頭に指を沈め、二つの珠を引き摺り出す。
「大元はただの悪夢。でもソレのせいで思い出しちゃったみたいだね」
手にした珠の一つを飲み込み、もう一つを差し出される。それを受け取り同じように飲み込めば、遠ざかる水面に手を伸ばす少女の姿が見えた。
抗えず水底に沈みながら、霞ゆく意識でただ一人を呼んでいる。声はなく、唇が名を形作る事さえなく。それでも名を呼び、助けを求めていた。
「ずっと忘れていた事だよ。今更思い出す必要なんてない」
「そうですね。今世では必要ないものです」
眠る少女を見つめ、客間へ戻るために踵を返す。暫く目覚める事はないが、少しでも体を休ませたい。
「狐ちゃん。ごめんね」
「何がでしょうか」
ぽつりと溢れた謝罪に、立ち止まる。
「藤ちゃんを怒らせて、一房枯らせちゃった」
「…分かりました。後で向かいます」
話をしてもらえるかは不明であるが。
揶揄い過ぎで避けられてしまっている事を思い出し、思わず顔を顰めた。
「ごめんね」
謝罪の言葉を繰り返し、気配が消える。
去って行った事を確認し、今度こそ客間へと歩き出す。
藤が激怒した理由は、果たして何であったのか。
理由如何で今後を考えなくてはならない。
「まったく、アナタ様もご友人も随分と手のかかる」
知らず、愚痴が溢れる。
藤の嫌う面倒事の中心にいる少女。
だがそれも仕方がないかと、どうしても甘くなる自身に苦笑した。
20240816 『夜の海』
8/16/2024, 11:14:07 PM