目を開けると、懐かしい寺院の前に立っていた。
「やあ、こんばんは」
濡れ縁に座る、自分と同じ姿をしたなにかがこちらに向けて手を振った。
それはいつかの終点駅にいたあの不快ななにかだと気づき、眉根が寄る。
「神様」
「いないよ。ここはキミの夢の中だから」
夢。
眠れたのかと、他人事のように呟く。その言葉に目の前のなにかは、一瞬だけ傷ついた表情をしたように見えた。
「うん。夢を見てくれたから、ようやく会えた。少し話がしたかったんだ」
笑みを浮かべるなにかに、言葉を返す事はせずに辺りを見回す。
忘れられない景色だ。人だった頃に過ごした場所。
小さいながらも綺麗に整えられた寺院。白く整えられた石畳の参道。青々と茂る木々。
左手首を摩れば、今は無いはずの数珠が手に触れた。
ここが夢の世界だとしたら、何て滑稽なのだろうか。
「確認するけど、ここに神様は来ない?」
「来れないと思うな。よほど強く繋がっていない限りは」
「あなたは夢の中での事に影響を受ける?」
「受けた事はないよ。絶対とは言い切れないけれど」
質問の答えに、内心で良かったと安堵する。
少しくらいならば、気を抜いても問題ないようだ。
「後、もう一つ」
何、と首を傾げるなにかを見据え、口元だけで笑みを形作り。
「椿の在り方を歪めようとしたのは、あなた?」
最後の質問と共に、胎に溜め込んでいる呪を押さえる事を止めた。
「っ、なに、これ」
怯えたように後退る。だが本人の言うように、見る限りでは障りはないようだ。
自分と同じ顔が呪に恐怖する様はとても皮肉だと、耐えきれずに嗤う。
改めて辺りを見渡せば、そこに先ほどの面影は何一つなく。
方々が崩れ落ちた破れ寺。ひび割れ黒く染まった石畳。腐り枯れた木々。
暗がりから地面の下から響く、怨嗟の声。
一変した光景に、こちらの方がしっくりくると頷いた。
「アァ、スマナイネ。少シ気ガ緩ンデシマッタヨウダ」
くすくすと嗤い、少しだけ呪を押さえ込む。まだ愉しんでもよかったが、目の前のなにかは話がしたいと言った。聞いてあげるくらいはしてもいいだろう。
目線だけで話を促す。何故か痛ましい眼をするなにかが酷く不愉快だった。
「椿の事はごめんなさい。最初は知らなかったんだ。ただの化生だと思っていたから」
傍から見れば穢れた椿の化生に見えるのだろう。それは仕方がない事だ。椿の在り方を知らぬものには、その身の穢れが自らが生み出したものか、溜めたものかの判別など出来るわけがない。
水を与えなければ椿に殺される。
なにかの広めようとした噂は、件の行方不明となっていた生徒が戻ってきた事で噂でしかなくなった。しばらくすれば立ち消えるだろう。
謝罪をされたという事はこれ以上椿に関わりはしないという事だ。これ以上は掘り返して責める必要はないと、話を切り上げるため声をかける。
「そレで?話ハおしマイ?」
緩く首を振られる。分かってはいたが、と溜息を吐きだした。
相変わらずその眼は哀しみを浮かべ、気分が悪い。
「キミに食べてほしいモノがあるんだ。人間が成ってしまった妖を取り込んでほしい。その妖がいる事で生き難い子がいるんだ」
「狂骨の事?」
驚きに目が見開かれる。僅かに期待をその眼に浮かべるなにかに、けれど駄目だと首を振った。
「狂骨を喰らウ事は出来ル。でモ出来ナイ」
「何それ?意味が分からないよ」
困惑し歪む顔に、自分はこんな顔も出来るのか、と場違いな事を考える。
同じ顔でも中身が違うのだから、実際に自分には出来ないだろうけれども。
「狂骨を喰らエバ彼女も消エる。根が枯レれバ花モ枯れルノと同じヨウに。狂骨と彼女ハ元は一つなノだカラ、切り離ス事は出来ナい」
正確には狂骨の一部が彼女だ。だからたとえ彼女が死んだとして、おそらく狂骨には影響はなく。逆に狂骨が消えれば、一部である彼女も消えてしまう。
「あナタが彼女をどウしたイノか分かラないけレど、彼女を人トして残セる術がナイ限りハ狂骨を喰ラウ事はしなイよ」
それだけは譲れない、と真正面から睨めつける。
「そうだね。彼女が消えてしまっては、望みに応えられなくなってしまうから、それは避けたいな」
ゆるりと首を振り、なにかは苦笑する。
どうやら誰か、人の望みに応えるために動いていたようだ。いつか離れた場所で見た、彼女とその隣にいた少女の姿が思い浮かぶ。
「古くから関わってきた人間の子がいるんだけれどね。その子がさよならを言う前に、一つだけ望まれたんだ。あの子にはそんな気はなかったのだろうけれど、最後に一つくらいは応えてあげたかったんだ」
張り切りすぎて突っ走ってしまったみたい、となにかは恥ずかしそうに少しだけ俯いた。
「ありがとう。どうするべきか分かっただけでも、キミと話せて良かったよ」
微笑んで、なにかの姿がゆらりと揺らめき、幼さの抜けない少女の姿へと変わる。
帰るのかと、それならばそろそろ起きなければと目を閉じて。
「最後に一つ聞いてもいいかな?」
「ナニ」
少女の問いかけに、目を開けた。
「キミは何故、彼女を人として生かそうとするの?」
息を呑む。
答える必要はない。けれど、と躊躇し、結局はどうしてだろう、と嘯いた。
少女の姿がかき消えて、一人きり。
誰もいなくなってようやく、言えなかった理由を誰にでもなく呟いた。
「今度こそサヨウナラを言いたかったから」
たとえ彼女達の中にもう、自分という存在がなかったとしても。
「だから、」
「己を犠牲にする事すら厭わぬと?」
続く言葉は、けれども背後から伸びる手に塞がれて声にはならず。
何故、と疑問ばかりが浮かぶ。ここには来られないのではなかったのかと焦りが生じ。
目の前の光景を、今の自分の姿を見られている事が、ただ怖かった。
「よもやこれほどまでとは思わなんだ。末恐ろしい娘よ」
破れ寺を見据え、浮かべる笑みも紡がれる言葉も酷く凍てついて。
「先が視えぬわけだ。人の身に、この呪や穢れは重すぎる」
口を塞がれたまま、無理矢理に眼を合わせられる。揺らめく金の瞳の中に怯えた顔の自分を認め、目を閉じる事で逃げ出した。
「零《れい》。目が覚めれば同じ日を繰り返す。終わらぬ仮初めの永遠の中で、しばらくはおとなしくしていろ」
それはどういう意味だろうか。
おとなしくなどしていられない事は、分かっているだろうに。
「人として戻せぬのならば、在り方を変える。この俺を謀ったのだから覚悟を決める事だ」
吐き捨てられた言葉を最後に意識が浮上する。
逆らう事は出来ない。意識が浮上するのに合わせて、溜め込んだ呪が押さえられていくのを感じた。
「俺が戻るまで、せいぜいいい子にしている事だな」
最後まで冷たい響きを持つその声に、一筋涙が零れた。
20240821 『さよならを言う前に』
8/21/2024, 2:12:11 PM