寂れた社の屋根の上に寝そべり、空を見る。
このまま晴れ渡るのか、それとも雨が降るのか。
青に混じる雲の白は随分と中途半端だ。
猫には雨を読む事など出来はしない。それは子らの領分であった。離れて久しい二人を想い、目を細める。
一人になっても猫は気の向くまま。好きな所へ行き、好きなものを食べ、好きな事をしていた。
遠く海の見える街で昼寝をし、山奥で化生を追いかけ回した事もあった。
だがいつしか子らと共に訪れた場所を辿るようになり、記憶をなぞるように動いて。
結局は、この地に戻ってきた。
猫とは、自由を愛するモノだ。
それは変わらない。子を持とうと、その本質は変わりようがない。
だが同時に、
猫とは、どうしようもなく寂しがりなモノでもあった。
のそり、と起き上がり、音もなく地に降り立つ。誰もいない社の裏へと歩き出し、その先にある一本の藤の木にすり寄った。
「藤。雨が降るかもしれないよ。恵みの雨となればいいな」
藤は答えない。
村が『死んで』藤が枯れてから、たくさんの季節が過ぎた。常世の藤は再び花を咲かせているのだというが、現世の藤はまだ花が咲く事はない。
「藤。どうやら猫には、オヤは向いてなかったようだ」
藤に体を擦り付け、その場で丸くなる。雨が降るかは分からない。たとえ降ったとしても、その時は社へと走ればいいだろう。
だから今は。少しだけでいいから。
誰かの側にいたかった。
懐かしい、匂いがした。
ざり、とわざと土を踏み締め、二つの気配が近づく。
「猫」
共にいた時には聞く事のなかった、冷たい響きを含んだ声が猫を呼んだ。
それは怒りか、はたまた憎しみか。
猫には感情の機微など分かりはしない。だが分からないなりに考え、不安になった。
猫は蜘蛛の二人のオヤにはなれていなかったのではないか、と。
「猫はちゃんとオヤができていたか?銅藍《どうらん》も瑪瑙《めのう》もイチニンマエになったか?」
猫の問いに蜘蛛は答えない。猫もそれ以上何も言わず、丸くなったまま蜘蛛を見る事はない。
沈黙。誰も動かず。何も言わず。
言うべき言葉を探し、結局は何も思い浮かばずに。
先に口を開いたのは蜘蛛の方だった。
「猫は親だったよ。だからこそ今も妖として在る事が出来る」
「だがそれだけだ。親として在り方を教えはしたが、情を与えてはくれなかった。正しく親は出来ていなかったな」
情とは何だろうか。猫は考える。蜘蛛の求める情を猫は与える事が出来ないのか。
考えて、悩んで。それでも何一つ思いつかず。
それならと考えるのを止めた。
猫は難しい事は分からない。
分からないならば仕方がないと開き直り、猫は頭を上げてようやく蜘蛛を見た。
随分と険しい顔をしているが、それでも二人の姿を認めて嬉しさで目を細める。
なぁ、と知らず甘える声が溢れた。
「猫はたくさん考えたが、銅藍の言う情は分からない。分からないから、猫には与える事が出来ないよ」
「猫」
「猫はやはりオヤには向かないな。子はイチニンマエになったら離れていくのに、子離れをしなくてはならないのに、それがたまらなく寂しいよ。離れたくないんだ。どうしたらいいのだろうな」
体を起こして蜘蛛を見据え、背筋を伸ばして座る。猫から近づく事はない。いつだって手を差し伸べ呼ぶのは、蜘蛛なのだから。
息を呑み、何かに耐えるように唇を噛みしめて。
険しい顔の二人の蜘蛛は、困ったように笑い、疲れたように深く息を吐いた。
「ったく、何だ。何なんだまったく!ここに来てそれとか、ありえねぇだろうが!」
「仕方ないよ。だって猫だもの。今までもそうだったじゃあないか」
それぞれ異なる反応をしているが、先ほどまでの険しい空気はなくなっている。
猫には理由は分からないが以前の二人がいた頃の空気を感じ取り、懐かしさからゆるりと尾が揺れた。
それに気づいて、蜘蛛は柔らかく笑むと猫に向けて手を差し出す。
「猫。おいで」
甘く優しい声。尾を立てて近寄れば、頭を撫で抱き上げられた。それだけで機嫌良く喉が鳴るのを止める事が出来ない。
「猫はもう親にならなくてもいいよ。代わりに僕達に飼われてくれないかい?」
「猫を?飼うのか?」
きょとり、と目を瞬かせ。蜘蛛の言葉を繰り返す。
「そうか。飼われれば一緒にいてもいいのか。その手があったのを忘れていた」
「嫌じゃないんだ。もっと早く言えばよかったね」
まったくだ、と隣で疲れた顔をしている蜘蛛に、猫も同じようにまったくだ、と頷いた。
もっと早く、出来れば別れる前に伝えてくれたのならば、こんな寂しい思いはしなかったというのに。
猫の内心の不満を悟り複雑な顔をする蜘蛛は、けれども何も言わず。猫の察しの悪さは、共にいた頃から変わらないのだ。
「それなら猫の首輪と名前を用意しないといけないぞ。真鍮の鈴と、紐は二人が編んでくれ」
「めんどくせぇな。何でもいいじゃねぇか」
「真鍮でなければ駄目なの?」
蜘蛛の問いに猫は少し考え、頷いた。
「真鍮がいいな。銀も悪くないが、やはり真鍮だ。猫はそうあるべきだ」
その理由は猫ですら分からない。なんとなくというのが、猫の答えである。
「分かった。猫に合う鈴を探しに行こうか」
「しゃあねぇな。ほら、とっとと行くぞ」
蜘蛛に抱かれたまま、猫は満足げに喉を鳴らす。こうして蜘蛛に抱かれ、頭を撫でられながら移動するのも悪くはない。
ふと空を見上げ。変わらず中途半端な空模様に、猫は蜘蛛に問いかけた。
「瑪瑙。雨は降るのか」
「ん?まだ降らないよ。雨は明日だね」
つい、と空を見、雨を読む蜘蛛に、なるほどと猫は感心する。
「さすがだな。猫にはさっぱりだ」
「これくらいはね。出来て当然だから」
苦笑する蜘蛛に、それでもすごいと猫は思う。猫が猫である限り出来ない事だ。猫に出来るのは、二人が知らないものを教える事だけ。だが今はもう何も教えられるものはない。
だからこそ、今度は蜘蛛に飼われる事がとても魅力的だと猫は笑う。
少し不自由になってしまうが、一人きりで寂しい気持ちになる事もなく、こうしてずっと甘やかしてくれるのだから。
「猫。上機嫌だね。しっぽが揺れてる」
「二人がどんな首輪と名をくれるのか、今から楽しみだからな」
くふくふと猫は笑う。尾がゆらゆらと揺れ動く。
喉を鳴らして、もっと撫でろと蜘蛛の手に頭を押しつけた。
20240820 『空模様』
8/20/2024, 1:20:07 PM