※ホラー
夏が来れば、お父様が帰ってくる。
約束をした。良い子でいると。素敵なレディになるために、日々努力をすると。
お父様は優しく微笑まれて、次に逢う時を楽しみにしていると、そうお話されたのだから。
だから誰よりも美しくなければ。勉学に励み。交友を深め。礼節を学び。
お父様の自慢の娘であるために。
窓の外を見る。あの道の先で、お父様は大切なお仕事をされている。
夏になれば、あの道を通ってお父様が帰って来て下さる。
それが救いだった。それこそが私の生きる導だった。
けれど、いくら待てども夏が来ない。
柔らかな日差し。一人きりの教室。
同じ時間を繰り返す。
私がまだ弱いから。
机の下。影のようにこびりつく黒に手を伸ばす。
ぐちゃり、と泥を掴むような気持ちの悪い感触。眉を顰めながらも、掴んだものを口にする。
無味。何も感じない。
それでも僅かに、出来る事が増えた。そう感じた。
椅子から立ち上がる。立ち上がれた。歩く事はまだ出来ない。
隣の机の上。黒に手を伸ばし、口にする。
少しだけ、歩けるようになった。
机の上。教卓の下。教室の隅。掃除用具の中。
教室にあるすべての黒を口にする。出来る事が増えていく。
けれど、足りない。
教室から出るにはまだ足りない。
足りない。出られない。足りない。欲しい。
もっと確かなものが、ホシイ。
繰り返しの中。現れたのは、楽しげな様子で校舎を踏み荒らす男女。
肝試しに来たのだと言う。見慣れない機械を、明かりを持ち、歩き回る。笑い、怖がり、ふざけて、教室に入り込む。
礼儀を知らない者に、返す礼はない。
二人に近づき、手を伸ばす。
痙攣し崩れる男。恐怖で泣き叫び、それでも動けない女。
恐怖、悲鳴、絶望。それらすべてが心地良かった。
女の魂も食らった後、残った体を見下ろす。
少し悩んでから、以前に食べた黒を吐き出し、空になった体に押し込んだ。
指が動き、腕が上がり、目を開け、立ち上がる。
机を指差すと、ゆっくりと歩き出し椅子に腰掛けた。
よかった。これで授業が進む。
それから時折現れる『肝試し』に来た人達を喰らい、その体を使って『生徒』を増やした。
教室からも出られ、昇降口まで自由に動けるようになった。
それでも、夏は来ない。
変わらない日差し。変わらない教室。
同じ台詞を繰り返す、人。
ナツがクレバ。あのミチ、ノ、サキ、カ、ラ。
繰り返す。日常を。
『肝試し』に来るニンゲンが少なくなっても。待ち続ける。
「… ?」
サイゴに、聞こえたコトバ。
オモウサマ、おもうさま……御父様。
お父様。
思い出す。
夏を待つのは。道の先から来るのは。
けれど、いくら思っても。
スベテはもう、灰の中。
20240704 『この道の先に』
柔らかな朝の光に目を覚ます。
また今日が始まった。
同じ空。同じ場所。同じ人。
いつもと同じように動き、話す。
「おはよう」
にこりと笑みを浮かべる彼女は、今日も同じようにきらきらしている。
教室の隅。手元の本に視線を落としながら、意識は彼女達へと向けて。
同じやり取り。同じ笑顔。
変わらない日常。
他愛のない話に花を咲かせ。きゃらきゃらとした笑い声があがる。
一つ、欠伸を噛み殺し。
白紙の頁を一枚めくった。
柔らかな朝の日差しに目が醒める。
今日をまた繰り返す。
同じ空。同じ場所。同じ人。
何一つ変わらず、同じ時間を繰り返し。
けれど、
「あ。叔父様」
教室にいつもの人はなく。きらきらとした彼女だったものは、黒い男の足元に転がり溶けていく。
「その呼び方は止めろと言ったはずだ」
首を傾げ。暫し考える。
呪の元。同じ力。
「…御父様?」
眉間の皺が濃くなった。どうやらこれも違うらしい。
まあいいか、と視線を外し。崩れていく教室を見遣る。
どんなに手間をかけたとて、終わるのは一瞬だ。
「行くぞ」
視線を戻せば、すでに彼は背を向け歩き出して。
一度ゆるりと頭を振って、その背を追いかけ駆け出した。
教室を出て、階段を降り、昇降口を抜けて。
ぐにゃり、と視線が歪み、世界が反転する。
蝉時雨。刺すような強い日差し。
太陽はどこまでも遠く。留まらず、繰り返す事なく時が流れていく。
追いついて、空いていた右手を握る。振り解かれない事に、小さく笑みが浮かぶ。
「次からは溜め込まず、すぐに持ち帰る事だな」
呟かれた言葉に、頷きを一つ。
肚に溜め込んだ魂魄が音を立てた、気がした。
手を繋ぎ、歩き出す。
彼の左手を横目で見る。澱んで腐った、彼女の成れの果て。迷い子を吸収して大きくなって、呑み込めなかった魂魄。
空を見上げる。澄んだ青と刺すような日差し。
彼女が辿り着きたかったもの。焦がれて恋がれて、創り上げようとしていたもの。
夏が、来ていた。
20240703 『日差し』
両の手で、窓を作って覗き込み。
「何をなさっているのです?」
「やっべぇ色になってんなぁ。まんま化生じゃねぇか」
『窓』越しにこちらを見、呵呵と笑う酔漢に、貼り付けた笑みが引くついた。
社務所内の一室。畳に転がる一升瓶と充満する酒気に苛立ちが募る。
「ご用件をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
用がなければ疾く帰れ。用があったとしても帰ってもらいたいものだが。
胸中の悪態を出さぬよう必死で笑みを貼り付けるが、それすらも見通すかのように。琥珀の瞳がにたり、と弧を描く。
「神様《兄貴》に会いに来たんだが、出てきてくれなくてなぁ。しばらく待たせてもらってんぜ?」
言外に気にするなと言う事なのだろうが、それならば浴びる程に酒を飲まないでもらいたい。それといい加減にその『窓』を解け。失礼だろうが。
鬱々とした気持ちが伝わったか、それとも興が醒めたのか。酔漢は『窓』を解くと、傍らに置いた瓶を手に取り残っていた中身を一気に煽った。
まだ飲むのか。いい加減にしてもらいたい。
「丸くなったなぁ。前は最初の段階で飛び掛かって来たってのによぉ」
「何十年前の話をしているんです?到頭耄碌なさって下さいましたか。そのままおくたばりあそばせて下さいな」
「ひっでぇなぁ。兄貴もよくこんな口の悪い駄狐を宮司にしてるもんだ」
口が悪いのはお互い様である。
ふと気になって『窓』を作り、覗き込む。
やはり変わらない酔漢の姿。
「化生のものか魔性のものか正体をあらわせ」
呪を唱えても、変化はなく。
狩衣姿の一升瓶を抱えた大男が、そこにいた。
「何やってんだ?馬鹿か?呆けたか?」
「ほぼ人間なのに、百年以上変わらないのは何でです?それこそ化生の類いじゃあないですか」
納得がいかない。
ここの祭神ですら、生前それなりに歳を取っていたというのに。この酔漢は何なのだろう。
「あ?そりゃあ人間の血が濃いとは言え、お袋《妖》の血のせいじゃねぇの?それか一番上《兄貴》が何かしてるかか」
残った酒を煽り適当を言われる。だいぶ酒が回ったらしい。空の瓶を転がし、横になった。
「寝る」
やめろ。部屋に転がった酒瓶を全て片付けてから寝てくれ。酒臭くてたまらない。
いびきをかいて眠る酔漢に、耐えきれず溜息が漏れる。
いっそ寝首でも掻いてやろうか。
出来はしない事を思いつつ。仕方なしに酒瓶を片付け始めた。
20240702 『窓越しに見えるのは』
猫は困っていた。
先ず、普段のように俊敏に動く事が出来なくなった。
動けないというのはとても困る。狩も出来ないし、有事の際に子らを守る事も出来やしない。
次いで、食の好みが変わった。
以前は獣を見ても人間を見ても、腹がなっていたというのに。今は何も感じず、子らと同じ穀物を食すようになった。
とは言え猫は妖であるからして、食べずとも在ることは出来るのだが。
最後に、永く子らと離れていると落ち着かなくなった。
オヤとしての意識があるからか。子らの傍に常にあり、望みに応えたくなってしまう。
自由を愛する猫は、行動が制限される事をとても嫌う。
好きな事をして、好きな物を食べ、好きな所へ行く。これが猫が猫として在るべき姿だ。
それなのに、である。
猫は、本当に困っていた。
「すごいですね。ぐるぐるまきです」
「蜘蛛だからかな?すっごい色だねぇ」
きゃらきゃらと笑う鋏と夢は、どうやら猫には見えないものが見えているらしい。
蜘蛛の糸。そう二人は呼んだ。
猫にはやはり見えなかった。
「きってもきっても、おわらない。ぐるぐるぐるぐる、いとをまく」
ぱちん、と鋏が虚空を切る。
「ほら、青色だよ。これは寂しいの感情だね」
切られた何かを夢が掴むと、可視化されたそれは確かに糸、だった。
青、赤、黒、赤、赤、赤。
「随分と赤が多い」
「この赤色は執着だよ。ほら、どろどろしてるでしょ?」
「いったい、どれだけあまやかせば、こんなどろどろができるんですか?」
糸、を切る手は止めず、不思議そうに首を傾げる鋏に、猫もつられて首を傾げた。
特に何かをしたという記憶は、ない。
「猫は普通にオヤをしてた。狩を教えて、添い寝もしたぞ。うなされていたからな」
「大事にしてるねぇ。人であっても妖であっても土蜘蛛はしつこいのに。なんで面倒見てるの?」
「ついてきたから。子はオヤの後をついてくるものだろう?」
猫は仔を産んだ事はないが、それくらいは知っている。
妖に成ったばかりの蜘蛛が、猫の後をついてきたのだ。つまりは猫がオヤという事なのだろう。
「それは、とりのはなしです」
「刷り込み、だねぇ。動物に起こる現象だけど、妖にはまずないものだねぇ」
猫は難しい事は分からない。
「はい。これでさいごですよ」
「うわっ。すっごい、真っ赤っか」
ぱちん、と虚空が切られ。
可視化されたそれは、暗く染まった赤。
朱殷《しゅあん》の太い糸。
「完全に飼い慣らそうとしてたね」
「ねこなんて、かってもめんどうなのに。ものずきですね」
伸びをする。
身体が軽い。いつもの猫になった。
「礼を言う。猫はやはり自由でないと」
「くもはどうするのですか?いっしょにいれば、おなじになりますよ?」
「え?子らとはもう一緒にはいないぞ?」
首を傾げる。
何を不思議そうにしているのだろうか。当たり前の事であるのに。
「子らを育てて、半年過ぎた。もう独り立ちの時期だからな」
半年経てば、子らは立派な大人だ。独り立ちを促すのはオヤとして当然である。
「そこは、ねこなのですね」
「無理だと思うな。最後の糸は、もう呪いだよ?」
もう一度、伸びをする。
さて、これから何処へ行こうか。遠出をするのもいいかもしれない。それならいっそ海に行こう。
「ねこ。かわれるでしょうね」
「だろうね。猫は単純だから飼い慣らすの、結構簡単だろうね」
鋏と夢が何か話している気もするが。猫に声をかけないのならば、特に問題ないだろう。
それよりも今は、海に行きたい。
ゆるりと尾を振って、走り出す。
今日は一日いい日になりそうだ。
20240701 『赤い糸』
「おや?ずいぶんと懐かしい。よくあの子らが許したものだね」
奥宮へと続く石段に腰掛け、空を見上げている珍しい子に声をかける。
本当に珍しい。雨に隠されたはずの子が、一人きりで現世に戻っているとは。
「誰?」
「酷いな。藤《私》を忘れてしまうなんて」
確かに最後に会ってから、数多年月が過ぎているが。しかしかつては愛でてくれていたのだから、覚えていないはずはない、と。半ば期待するようにそう告げれば、雨の愛し子は藤《私》を暫く見、納得したように頷き守り藤か、と呟いた。
「雨の愛し子」
「その呼び方は好きじゃない」
「そうか。では娘。こんな所でどうした?迷子か、それとも家出か?」
藤《私》を覚えている事に気分を良くし、問いかける。どちらであっても、少しばかりは力になるつもりだった。
「分かんない。少し考えたくて、気づいたらここにいたんだけど…どうしたらいいか、分からなくなった」
呟いて、膝を抱えて蹲る。
思っていたよりも深刻なその様に、どうするべきかと暫し悩む。
面倒な事は嫌いではあるが、致し方ない。
見上げた空に、遠く成長する白い雲を認め。迎えが来るまでと、雨の愛し子の隣に腰を下ろした。
「何かあった?話したくないなら、無理にとは言わないよ」
「上手く言えないんだけど」
「それでも構わないさ」
苦笑する雨の愛し子に笑みを返し、その頭を撫でれば、顔を上げ僅かに目を見張り泣くような笑みを浮かべる。
意外な反応に思わず手が止まるが、途端に寂しげな顔をされ、それならばと気にする事なく頭を撫で続けた。
「今まで知らなかった、知ろうとさえしなかった事がたくさんあって。どうするのが良かったのか分からなくなって…私のせいで死んでしまった人がいて。私がいたから悲しむ人がいて。それが選択肢を間違えたからだって思っていたのに、本当は生まれた時からどうしようもなかったんだって…色々考えて、何で私なんだろうとか。私が生まれなければって、思って」
知ってしまったのか。
最初から決まっていた結果とその過程で失われたもの。元は人であったこの娘には、それらは重すぎるのだろう。
抱えた膝に顔を埋め、声を殺して泣く姿に憐憫の情が湧く。
「雨の龍が憎い?」
問いかける言葉に返答はない。
だが微かに振られた頭を見て、それ以上は何も言えなくなる。
見上げた空に広がる雷雲は、まだ遠い。
それでも然程時間をかけず、この地に激しい雨と雷を呼ぶのだろう。
雷を纏うとは、よほど怒りが強いのか。その怒りは娘が逃げ出した故の事なのか。逃げ出したその意味を考えてはいないのか。
少しだけ、怒りが湧いた。
「もうすぐ迎えが来るようだね。でもその前に、雨の龍に仕置きをしようと思う」
「…え?」
驚いたように顔を上げた娘の涙を拭い、そのまま抱き上げる。
刹那、雨が降り出し。
雷を伴い激しく降る雨の向こう。人の形を取る雌雄の龍を見て。
「さて、仕置きの時間だよ。童ども」
龍が口を開く前に、大蛇の尾が二匹を打ち据えた。
20240630 『入道雲』