「おや?ずいぶんと懐かしい。よくあの子らが許したものだね」
奥宮へと続く石段に腰掛け、空を見上げている珍しい子に声をかける。
本当に珍しい。雨に隠されたはずの子が、一人きりで現世に戻っているとは。
「誰?」
「酷いな。藤《私》を忘れてしまうなんて」
確かに最後に会ってから、数多年月が過ぎているが。しかしかつては愛でてくれていたのだから、覚えていないはずはない、と。半ば期待するようにそう告げれば、雨の愛し子は藤《私》を暫く見、納得したように頷き守り藤か、と呟いた。
「雨の愛し子」
「その呼び方は好きじゃない」
「そうか。では娘。こんな所でどうした?迷子か、それとも家出か?」
藤《私》を覚えている事に気分を良くし、問いかける。どちらであっても、少しばかりは力になるつもりだった。
「分かんない。少し考えたくて、気づいたらここにいたんだけど…どうしたらいいか、分からなくなった」
呟いて、膝を抱えて蹲る。
思っていたよりも深刻なその様に、どうするべきかと暫し悩む。
面倒な事は嫌いではあるが、致し方ない。
見上げた空に、遠く成長する白い雲を認め。迎えが来るまでと、雨の愛し子の隣に腰を下ろした。
「何かあった?話したくないなら、無理にとは言わないよ」
「上手く言えないんだけど」
「それでも構わないさ」
苦笑する雨の愛し子に笑みを返し、その頭を撫でれば、顔を上げ僅かに目を見張り泣くような笑みを浮かべる。
意外な反応に思わず手が止まるが、途端に寂しげな顔をされ、それならばと気にする事なく頭を撫で続けた。
「今まで知らなかった、知ろうとさえしなかった事がたくさんあって。どうするのが良かったのか分からなくなって…私のせいで死んでしまった人がいて。私がいたから悲しむ人がいて。それが選択肢を間違えたからだって思っていたのに、本当は生まれた時からどうしようもなかったんだって…色々考えて、何で私なんだろうとか。私が生まれなければって、思って」
知ってしまったのか。
最初から決まっていた結果とその過程で失われたもの。元は人であったこの娘には、それらは重すぎるのだろう。
抱えた膝に顔を埋め、声を殺して泣く姿に憐憫の情が湧く。
「雨の龍が憎い?」
問いかける言葉に返答はない。
だが微かに振られた頭を見て、それ以上は何も言えなくなる。
見上げた空に広がる雷雲は、まだ遠い。
それでも然程時間をかけず、この地に激しい雨と雷を呼ぶのだろう。
雷を纏うとは、よほど怒りが強いのか。その怒りは娘が逃げ出した故の事なのか。逃げ出したその意味を考えてはいないのか。
少しだけ、怒りが湧いた。
「もうすぐ迎えが来るようだね。でもその前に、雨の龍に仕置きをしようと思う」
「…え?」
驚いたように顔を上げた娘の涙を拭い、そのまま抱き上げる。
刹那、雨が降り出し。
雷を伴い激しく降る雨の向こう。人の形を取る雌雄の龍を見て。
「さて、仕置きの時間だよ。童ども」
龍が口を開く前に、大蛇の尾が二匹を打ち据えた。
20240630 『入道雲』
6/30/2024, 3:44:30 PM