「貴様は一体何をしているんだ」
背後から聞こえた懐かしい声に振り返る。
珍しい。常世に住まう彼が現世まで出てくるとは。
「花を愛でている」
「阿呆が。藤が他の花《紫陽花》を愛でてどうする」
眉間の皺を濃くし溜息を吐く夜に、心外だと肩を竦めてみせる。
「別にいいじゃないか。藤の花《私》はもう咲き終わってしまったのだから」
咲き誇る藤《私》を愛でてもらいたいのは当然であるが、今は芒種も過ぎている。常世と違い、とっくに藤の花《私達》は咲き終わっているのだ。枝垂れる葉を愛でても良いが、華やかさを求めるには矢張り花が必要になる。
「華やかなのはいい事だろう?人の子の心を癒してくれる」
青。紫。薄桃。
各々好きに咲いた装飾花に触れる。
少しずつ挿し木をし手入れをしてきたものが、こうしてようやく見られるようになったのだ。手をかけた甲斐があったというもの。
宮司や巫女等も喜んでいたというのに。
「貴様には藤としての誇りはないのか」
呆れたような溜息。音一つ立てずこちらに歩み寄り、同じように花に触れた。
「これから皆焼け落ちるだろうに。無駄な事をするものだ」
その眼は村の外。薄く煙の立ち上る遠くを見て。
納得する。彼がわざわざここに来た理由を。
そしてそれが無駄足になる事に、申し訳なくなった。
「魂の回収か…悪いけど、無駄足になってしまったね」
素直にそう伝えれば、遠くを見ていた眼が訝しげにこちらを見る。
「何故だ?ここの人間に争い勝つ術も力もないだろうに」
「何故って…藤《私》がいるからに決まっている」
至極当然の事。害あるものがこの地を侵すなど、出来るはずがない。
それが化生、邪魅であれ、外の人間であれ同じ事。
「珍しいな。あれだけ面倒事を嫌っていただろうに」
「面倒ではないだろう?敵か、味方か。守るものか、排除するものか…実に単純だ」
社に視線を向け、笑みを浮かべる。絶えず聞こえる宮司の祝詞に耳を傾ける。
守るものは何か。退けるものは何か。
雨にではなく、藤《私》に対して奏上された祝詞を通して望まれる。
実に分かりやすい。
「さて。そろそろこちらも動くとしようか。すぐ終わらせるけれど、夜はもう戻るかい?」
「何を言っている。これから成すべき事があるのに戻る訳がないだろう。阿呆が」
呆れたように告げられる。
藤《私》だけでは守れぬとでも思っているのか。少しだけ気分を害して眉根を寄せれば、どこか馬鹿にしたように嗤われた。
「貴様は本当に頭が弱いな。魂魄とは敵も味方と関係ないだろう」
正論に何も言葉を返せず。
気恥ずかしさから、半ば逃げるように無言で駆け出した。
「さっさと終わらせてこい。戦、天下など、都の人間どもの都合にこの地を巻き込ませるな」
「分かっている!敵は全て刈り取るから。少し待ってて!」
振り向かず言葉を返し、速度を上げる。
どこぞの国の武士らが、この村に足を踏み入れるより早く。
敵陣に降り立ち、そのまま大蛇に成った蔓を解き放つ。
さあ、早く終わらせなければ。
20240614 『紫陽花』
喧嘩をした。
きっかけは本当に些細な事だった。約束の時間に間に合わなかった。ほんの数分だけ。ただそれだけ。
それでも幼馴染にとっては、その数分間がとても恐ろしい事だったようで。
「もういい!ひさめなんか、き、きら……すきじゃないっ!」
涙を湛えた琥珀色の瞳で睨みながら、言い捨て走り去っていった幼馴染を思う。
嫌い、とは言われなかった。言いかけて、結局曖昧な言葉に変換された。
好き、は簡単に言葉にできるのに。
普段の幼馴染を思い出す。
嬉しい時。上機嫌な時。何気のない日常の一コマに。
「ありがとう」と「好き」をよく口にしていた。感謝と好意は同列だった。
嫌い、はたとえ嘘でも言葉に出来ないんだ。
今までは意識していなかった「好き」の重さ。例えるならば挨拶のようなものだと、あまり気にもとめていなかった。
けれど「好き」とは反対の「嫌い」は決して言葉に出来ないのならば、それはがらりと色を変える。「好き」はきっとホンモノ、だ。その時々の何かに対してではなく、自分という個人に対しての。親愛の意味を含んだ言葉。
気づいてしまった。
思考が停止する。途端に顔に熱が集まり赤くなる。
気づいてしまった事実を、まだ受け入れきれない。それほどまでに衝撃的だったから。
けれども今優先すべきは、走り去ってしまった幼馴染を追いかける事。泣き虫で寂しがりやな彼女を一人にはしておけるわけがない。
頭を軽く振り意識を切り替えて、幼馴染の背を追う為駆け出した。
喧嘩をした。
きっかけは本当に些細な事だった。約束の時間に間に合わなかった。ほんの数分だけ。ただそれだけ。
それでもたった数分の一人は、不安で、寂しくて、怖かった。
膝を抱え、ため息を一つ。
嫌われてしまっただろうか。好きではないなんて、心にもない事を言ってしまったから。
「嫌い」の言葉は、言えなかった。それだけ幼馴染が「好き」だから。
たとえ嘘でも、思っていなくても言葉にするのは怖かった。
「しおんっ!」
聞こえた幼馴染の声に、はっとして顔を上げる。
息を切らせながらこちらに走ってくる姿を認識して、涙が溢れ出した。
「しおん。ごめん。ごめんね」
何故謝るのだろう。幼馴染は悪くないのに。
たった数分間を待てなかったのが悪いのに。酷い事を言ってしまったのに。
「ちがっ…ごめっ、なさい。ひさめ。ごめんなさいっ!」
涙が止まらない。
「すき、じゃな…うそ、いって。うそっ、なの、に。いった、の」
「うん。大丈夫、大丈夫だから」
優しく頭を撫でてくれる。
いつだってそうだ。幼馴染はいつでも優しい。優しくて、強くて、かっこいい。自慢の幼馴染。
「ほんと、は、すき。だいすき、だからっ。ごめん、なさい!ひさめっ、すき。きらいっ、ならないでっ!」
「しおんっ。落ち着こう。嫌わないから。ねっ?とにかく、まず、落ち着こう?」
どこか焦っているような、幼馴染の珍しい様子を気に留めず。
嫌われたくないと必死で彼にしがみつき、ただ泣いていた。
20240613 『好き嫌い』
逃げなければ。
縺れる足を必死で動かし、迷路のような裏路地を走り抜ける。息が切れ、喉にまとわりつく血の味に吐き気を覚えるが足を止める事は出来ない。ただ今はあてもなく走り続ける事しか出来なかった。
逃げなければ。捕まってしまう前に。
背後の黒い影は一定の距離を保ち、耳障りなナニカを呟きながら着いてくる。影が何かは分からない。けれど決して良くないものである事だけは確かだった。
離れない。着いてくる。どこまでも。どこまでも。追いかけてくる。
耳障りな呟き。繰り返し。何度も。繰り返えされる。ずっと。
……逃げられない。
「……ぁ…」
気がつけば、行き止まり。袋小路。
「ひっ…ぁ、ぁ…」
終わった。終わってしまった。
後を振り返る事は出来ない。その姿を見たら、認識してしまったなら、きっと正気を保てない。
行き止まりの壁を見る。心臓の音がうるさい。息が苦しい。
「…セ……ォコ、ハ…ノ……」
影の近づく気配がする。耳障りな呟きが、唄が大きくなる。
嫌だ。終わりたくない。終わりたくなかった。
まだ帰れていない。退屈だと逃げ出した村に。家族のもとに。
本当に嫌になったわけではなかった。ただあの村には何もなかった。この街のような賑やかさも、煌びやかさも。何一つ。
毎日が変わり映えのない生活は酷く退屈で、常に息苦しさを感じていた。刺激が欲しかった。だからこうして誰にも言わずに村を出て、働きながら学校に通う生活を選んだ。
苦労しながら得た新しい世界《日常》は確かに刺激があり、色鮮やかで。村にはなかったもので溢れかえる街は、夜を知らずに常に輝いていた。
けれど、
「…トォ…セ……ハ、ドォ…ノ、ホ…ミチ…ャ…」
例えば、教室の隅。階段の裏。裏路地の暗がり。
ソレは常にいた。
誰かへの妬みや、恨み。嘲り。侮蔑。嫌悪に、憎悪。
黒くてどろどろとしたソレが吐き出す言葉は、段々に精神を蝕んで。ソレに気づき気づかれて、連れて行かれた人を何人も見た。気の抜けない毎日は苦痛でしかなかった。
「ぁ、く、るな…くる、な。くるなっ…!」
気配が近い。息が苦しい。痛い。苦しい。痛い。
逃げられない。背後に、ソレがいる。耳障りな唄。ひび割れた笑い声。
黒い腕のようなぐちゃぐちゃとしたものが、顔の横に差し出され。
そのまま。顔、を。
「残念でしたっ!未来永劫にサヨウナラ」
誰かの、声。この場には似合わない、明るい声音。
目の前の黒が動きを止め、そのまま溶けて消えていく。
「…ぇ、ぁ」
何が起こったのか分からない。背後にソレの気配はなく。
ざり、と地面を擦り、誰かが近づく。動けない。立っていることすら今は苦しい。
「あぁ、なんか懐かしいと思ったら。お前、ノダナガの所の子かぁ」
ノダナガ。逃げ出した村の名前。帰りたい家のある場所。
その名前に、思わず振り返る。
自分の故郷を知っている誰か。背が高く、古めかしい和服を着た男。白の短髪。金の瞳。
そして、
「…!ひっ…!」
右手に握られた、抜き身の刀。
男の背後に佇む、異形のモノ。半裸で腕には手の代わりに翼がある女のような姿。赤く染まった下衣から見える脚は人のものではなく、鳥のそれ。
逃げるように後ずされば、それに気づいた男は背後の異形に振り返る。
「姑獲鳥。少し離れてろ。話ができねぇ」
持っていた刀を渡しながら異形に告げれば、刀を抱いたまま夜の暗闇に消えていく。
異形の姿が消えた事で詰めていた息を吐き出せば、目の前の男は小さく笑ったようだった。
「さて、何でこんなトコで鬼事なんかやってんだお前」
男が近づく。
「迷子…っつうにはここの縁はしっかりしてっし。あそこを出たっつうには未練がひでぇし…どっちつかずだな、お前」
顔を覗き込まれながら呟かれた言葉に、何も言えずに俯いた。
どっちつかず。そんな事、自分がよく分かっている。
「お前、どうしたいよ?そこんトコはっきりしな」
帰りたくない。いや、本当は帰りたい。帰るのが怖い。帰るのが惜しい。
帰れば両親に怒られるだろうか。妹は帰りを待っていてくれるだろうか。
帰ってしまえば、ここにいる友人達との縁が切れてしまうだろうか。二度と会えなくなってしまうだろうか。
帰りたい、帰りたくないを何度も繰り返し、繰り返す。
それでも、結局は。
「ーーー帰りたい」
呟いた言葉。くつりと笑う声がして、男が背後を振り返る。
「だそうだ。銀。兄ちゃんが守ってやっから、一度あっちへ戻れっか?」
りん、と鈴の音。
顔を上げれば、いつの間にか男の隣に少女の姿。男と同じ白の髪と金の瞳。左眼と首に包帯を巻いている。
右手には淡く光る鬼灯を持ち、けれど左の腕のある場所には何もなく、和服の袖が風に揺れていた。
りん、と鈴が、少女の髪紐に付いた鈴が鳴る。
「銀は優しいイイコだなぁ。うん。兄ちゃん頑張って、銀をいじめる奴らから守っからな」
にこにこと嬉しそうに男が笑い、少女の頭を優しく撫でる。
「さっさと行くぞ。ぼけっとすんな」
行くと言われても、意味が分からない。
今日は分からない事ばかりだ。
「どこに…?」
「帰りてぇんだろ?送ってやる」
半ば無理やり腕を引かれ、歩き出す。
あの村へ帰れるのだろうか。送ると言われたが、あの場所はここから遥か遠い。
りん、と鈴が鳴る。鬼灯が灯りが強くなる。
辺りを白く染めるような強い光に耐え切れず、目を閉じる。
「藤に礼を言っておけよ」
引かれた腕が離れ、白く視界を焼いていた光が収まり目を開ければ。
目の前は、帰りたいと望んでいた村だった。
20240612 『街』
「例えばの話ですけれど」
私の髪を梳きながら、背後の妖は詠《うた》うように言葉を紡ぐ。
「貴女様が妖に成ったとして。それは貴女様の個にどれ程の影響をもたらすのでしょう?」
妖の言う個の意味が分からず、内心で首を傾げた。
個。一つの物。一人の人。個性。
妖は人の望みに応えるモノだと、以前緋色は言っていた。ならばほとんどが変わってしまうのではないだろうか。
「個とは、貴女様が今まで築き上げてきたもの。まだ見ぬ世界に対する憧れ。相反する誰かの理想を否定しきれぬ優しさ。未知なるモノを恐れぬ強さ。言葉を紡ぐ事の恐れ。他者に対する遠慮」
次々と紡がれる、私を暴く言葉に息を呑む。
何で、と問いかけようとして口から溢れたのは意味を持たない呻く声。
助けを求めて緋色を見るも、その視線は本に向けられ交わる事はなく。溺れているような息苦しさに、耐えきれず目を閉じた。
「貴女様が妖と成ったとして、その個は果たして変容するのでしょうか?」
「荷《はす》。それくらいになさい」
不意に感じた浮遊感。思わず目を開けると、目の前には緋色の妖。
「このじゃじゃ馬娘には、端的に言わないと理解が出来ないわよ。それに初対面でそこまで深く紡ぐものではないわ」
「す、すみませんっ!わたくし、少々浮かれてしまっていました」
恥ずかしげに。申し訳なさそうに。謝罪を紡ぐ妖に大丈夫だと首を振って答える。
初対面だからこそ動揺したものの、見透かされるのは慣れてしまっていた。
「あのですね。どんなに他に憧れようと、貴女様は貴女様にしかなれません。わたくしがどんなに風に憧れようと、外へ飛び出す事がないように。どんなに炎に憧れようと、誰かに物語を紡ぐ事がないように」
「あら、憧れてたの?」
「例えです…ですので、貴女様はもっと貴女様がやりたい事を行うべきだと。わたくしは思うのです」
ふわりと微笑い紡がれる言葉。
「やりたい、事…?」
よく分からない。
自分が何をやりたいのか。何をやりたくないのか。
自分らしく、はいつだって苦手だ。
「好んでいるか、でも構いません。わたくしは炎の紡ぐ物語を書き留める事を好んでいますし。炎がこうして煌びやかな打掛を羽織るのも、彼が好んでいるからです。難しい事ではないでしょう?」
好きか、好きでないか。
まだ全部は分からない。
けれど、今したい事は。好きだと思う事は。
「何か、楽しいお話が聞きたい。かな」
緋色に凭れ掛かりながらそう溢すと、妖は嬉しそうにこちらに近づき手を握る。
蓮の花が描かれた空色の着物がふわりと揺れて、その可憐な姿に目を奪われた。
「わたくしもそれがよいと思います。炎のお話はとても素敵ですもの。やはり貴女様とは仲良くなれますね。よろしければ今度、」
「荷。落ち着きなさい。それかさっさと戻りなさい。五月蝿いから」
「酷いですね。炎は」
頬を膨らませ、拗ねた態度をとりながらも妖にが戻る気配はなく。手も繋いだままで、呆れたように溜息を吐かれた。
「仕方ないわね。本当に」
もう一度息を吐きながら。
緋色の妖は語る。ここではない、どこかの世界の物語を。
20240611 『やりたいこと』
窓を開けて、空を眺める。
暁闇。夜が終わりを迎える時間。
紺から紫へ。紫から赤へ。変わる空のこの色が今はとても綺麗だと、そう思えた。
「そろそろ夜明けだ。もうおしまい」
背後から伸びる手が窓を閉める。
「もう少し。もう少しだけ」
「駄目。ほら、部屋に戻るよ」
もう少しだけ空を見たくて窓に手を伸ばす。けれどその手は背後の彼の手に繋がれて届かない。
意地悪だ。
そう思うものの、手を引かれればそれ以上わがままを言えず。大人しく彼に連れられて部屋へと向かった。
「まだ大丈夫だったのに」
ベッドに腰掛けながら、溢れた言葉。まだ物足りないと愚痴れば、手を引かれ袖を捲られた。
「大丈夫って。これが?」
露わになった腕に巻かれた包帯に触れ、彼は静かに問いかける。
「この前より、まだ早かった」
「ツキシロ」
低く名前を呼ばれれば、それ以上は何も言えなくなる。
繋がれていた手が離れ、腕の包帯が外されていく。隙間から見える爛れた皮膚。朝日の熱で燃えた跡。
「これから先、夜は短くなっていくんだから。もっと気をつけないと」
晒された跡に薬を塗り、幼い子を嗜めるような声音で彼は告げる。
「もうあんな思いは、嫌だ」
微かな呟き。
あの時の銀色の炎を、熱さを思い出して痛む胸に目を伏せる。
あの泣きそうな彼の表情《かお》を、声を、まだ覚えている。
「ごめん、なさい」
微かな謝罪の言葉に、彼は何も答えずに。
ただ薬を塗り、元のように包帯を巻いていく。
「クロノ。ごめんなさい」
「…いいよ。もう」
巻き終わった包帯を確かめるように一度撫で、そのままもう一度手を繋がれる。
痛みを伴う日の熱とは違う。穏やかな温もり。
「こうやって手を引いてれば、シロはいい子でついてくるし。最悪、抱えていけばいいもんな」
「っ、意地悪」
くすりと笑われ、手が離れる。
消えていく温もりに名残惜しさを感じながら。誤魔化すようにそっぽを向いた。
「そろそろ俺は帰るから…おやすみ、シロ」
最後にくしゃりと頭を撫でて、彼は扉へと向かう。
その背を見送りながら、繋いでいた手に唇を触れ。
この身を焼く事しか出来ない太陽よりも、彼がそうであるならばと。くだらない事を夢想して、一人苦笑した。
20240610 『朝日の温もり』