sairo

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「例えばの話ですけれど」

私の髪を梳きながら、背後の妖は詠《うた》うように言葉を紡ぐ。

「貴女様が妖に成ったとして。それは貴女様の個にどれ程の影響をもたらすのでしょう?」

妖の言う個の意味が分からず、内心で首を傾げた。
個。一つの物。一人の人。個性。
妖は人の望みに応えるモノだと、以前緋色は言っていた。ならばほとんどが変わってしまうのではないだろうか。

「個とは、貴女様が今まで築き上げてきたもの。まだ見ぬ世界に対する憧れ。相反する誰かの理想を否定しきれぬ優しさ。未知なるモノを恐れぬ強さ。言葉を紡ぐ事の恐れ。他者に対する遠慮」

次々と紡がれる、私を暴く言葉に息を呑む。
何で、と問いかけようとして口から溢れたのは意味を持たない呻く声。
助けを求めて緋色を見るも、その視線は本に向けられ交わる事はなく。溺れているような息苦しさに、耐えきれず目を閉じた。

「貴女様が妖と成ったとして、その個は果たして変容するのでしょうか?」
「荷《はす》。それくらいになさい」

不意に感じた浮遊感。思わず目を開けると、目の前には緋色の妖。

「このじゃじゃ馬娘には、端的に言わないと理解が出来ないわよ。それに初対面でそこまで深く紡ぐものではないわ」
「す、すみませんっ!わたくし、少々浮かれてしまっていました」

恥ずかしげに。申し訳なさそうに。謝罪を紡ぐ妖に大丈夫だと首を振って答える。
初対面だからこそ動揺したものの、見透かされるのは慣れてしまっていた。

「あのですね。どんなに他に憧れようと、貴女様は貴女様にしかなれません。わたくしがどんなに風に憧れようと、外へ飛び出す事がないように。どんなに炎に憧れようと、誰かに物語を紡ぐ事がないように」
「あら、憧れてたの?」
「例えです…ですので、貴女様はもっと貴女様がやりたい事を行うべきだと。わたくしは思うのです」

ふわりと微笑い紡がれる言葉。

「やりたい、事…?」

よく分からない。
自分が何をやりたいのか。何をやりたくないのか。
自分らしく、はいつだって苦手だ。

「好んでいるか、でも構いません。わたくしは炎の紡ぐ物語を書き留める事を好んでいますし。炎がこうして煌びやかな打掛を羽織るのも、彼が好んでいるからです。難しい事ではないでしょう?」

好きか、好きでないか。
まだ全部は分からない。
けれど、今したい事は。好きだと思う事は。

「何か、楽しいお話が聞きたい。かな」

緋色に凭れ掛かりながらそう溢すと、妖は嬉しそうにこちらに近づき手を握る。
蓮の花が描かれた空色の着物がふわりと揺れて、その可憐な姿に目を奪われた。

「わたくしもそれがよいと思います。炎のお話はとても素敵ですもの。やはり貴女様とは仲良くなれますね。よろしければ今度、」
「荷。落ち着きなさい。それかさっさと戻りなさい。五月蝿いから」
「酷いですね。炎は」

頬を膨らませ、拗ねた態度をとりながらも妖にが戻る気配はなく。手も繋いだままで、呆れたように溜息を吐かれた。

「仕方ないわね。本当に」

もう一度息を吐きながら。
緋色の妖は語る。ここではない、どこかの世界の物語を。



20240611 『やりたいこと』

6/11/2024, 3:28:47 PM