sairo

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逃げなければ。
縺れる足を必死で動かし、迷路のような裏路地を走り抜ける。息が切れ、喉にまとわりつく血の味に吐き気を覚えるが足を止める事は出来ない。ただ今はあてもなく走り続ける事しか出来なかった。

逃げなければ。捕まってしまう前に。
背後の黒い影は一定の距離を保ち、耳障りなナニカを呟きながら着いてくる。影が何かは分からない。けれど決して良くないものである事だけは確かだった。

離れない。着いてくる。どこまでも。どこまでも。追いかけてくる。
耳障りな呟き。繰り返し。何度も。繰り返えされる。ずっと。

……逃げられない。


「……ぁ…」

気がつけば、行き止まり。袋小路。

「ひっ…ぁ、ぁ…」

終わった。終わってしまった。
後を振り返る事は出来ない。その姿を見たら、認識してしまったなら、きっと正気を保てない。
行き止まりの壁を見る。心臓の音がうるさい。息が苦しい。

「…セ……ォコ、ハ…ノ……」

影の近づく気配がする。耳障りな呟きが、唄が大きくなる。

嫌だ。終わりたくない。終わりたくなかった。
まだ帰れていない。退屈だと逃げ出した村に。家族のもとに。
本当に嫌になったわけではなかった。ただあの村には何もなかった。この街のような賑やかさも、煌びやかさも。何一つ。
毎日が変わり映えのない生活は酷く退屈で、常に息苦しさを感じていた。刺激が欲しかった。だからこうして誰にも言わずに村を出て、働きながら学校に通う生活を選んだ。
苦労しながら得た新しい世界《日常》は確かに刺激があり、色鮮やかで。村にはなかったもので溢れかえる街は、夜を知らずに常に輝いていた。
けれど、

「…トォ…セ……ハ、ドォ…ノ、ホ…ミチ…ャ…」

例えば、教室の隅。階段の裏。裏路地の暗がり。
ソレは常にいた。
誰かへの妬みや、恨み。嘲り。侮蔑。嫌悪に、憎悪。
黒くてどろどろとしたソレが吐き出す言葉は、段々に精神を蝕んで。ソレに気づき気づかれて、連れて行かれた人を何人も見た。気の抜けない毎日は苦痛でしかなかった。

「ぁ、く、るな…くる、な。くるなっ…!」

気配が近い。息が苦しい。痛い。苦しい。痛い。
逃げられない。背後に、ソレがいる。耳障りな唄。ひび割れた笑い声。
黒い腕のようなぐちゃぐちゃとしたものが、顔の横に差し出され。
そのまま。顔、を。


「残念でしたっ!未来永劫にサヨウナラ」

誰かの、声。この場には似合わない、明るい声音。
目の前の黒が動きを止め、そのまま溶けて消えていく。

「…ぇ、ぁ」

何が起こったのか分からない。背後にソレの気配はなく。
ざり、と地面を擦り、誰かが近づく。動けない。立っていることすら今は苦しい。

「あぁ、なんか懐かしいと思ったら。お前、ノダナガの所の子かぁ」

ノダナガ。逃げ出した村の名前。帰りたい家のある場所。
その名前に、思わず振り返る。
自分の故郷を知っている誰か。背が高く、古めかしい和服を着た男。白の短髪。金の瞳。
そして、

「…!ひっ…!」

右手に握られた、抜き身の刀。
男の背後に佇む、異形のモノ。半裸で腕には手の代わりに翼がある女のような姿。赤く染まった下衣から見える脚は人のものではなく、鳥のそれ。
逃げるように後ずされば、それに気づいた男は背後の異形に振り返る。

「姑獲鳥。少し離れてろ。話ができねぇ」

持っていた刀を渡しながら異形に告げれば、刀を抱いたまま夜の暗闇に消えていく。
異形の姿が消えた事で詰めていた息を吐き出せば、目の前の男は小さく笑ったようだった。

「さて、何でこんなトコで鬼事なんかやってんだお前」

男が近づく。

「迷子…っつうにはここの縁はしっかりしてっし。あそこを出たっつうには未練がひでぇし…どっちつかずだな、お前」

顔を覗き込まれながら呟かれた言葉に、何も言えずに俯いた。
どっちつかず。そんな事、自分がよく分かっている。

「お前、どうしたいよ?そこんトコはっきりしな」

帰りたくない。いや、本当は帰りたい。帰るのが怖い。帰るのが惜しい。
帰れば両親に怒られるだろうか。妹は帰りを待っていてくれるだろうか。
帰ってしまえば、ここにいる友人達との縁が切れてしまうだろうか。二度と会えなくなってしまうだろうか。
帰りたい、帰りたくないを何度も繰り返し、繰り返す。
それでも、結局は。

「ーーー帰りたい」

呟いた言葉。くつりと笑う声がして、男が背後を振り返る。

「だそうだ。銀。兄ちゃんが守ってやっから、一度あっちへ戻れっか?」

りん、と鈴の音。
顔を上げれば、いつの間にか男の隣に少女の姿。男と同じ白の髪と金の瞳。左眼と首に包帯を巻いている。
右手には淡く光る鬼灯を持ち、けれど左の腕のある場所には何もなく、和服の袖が風に揺れていた。
りん、と鈴が、少女の髪紐に付いた鈴が鳴る。

「銀は優しいイイコだなぁ。うん。兄ちゃん頑張って、銀をいじめる奴らから守っからな」

にこにこと嬉しそうに男が笑い、少女の頭を優しく撫でる。

「さっさと行くぞ。ぼけっとすんな」

行くと言われても、意味が分からない。
今日は分からない事ばかりだ。

「どこに…?」
「帰りてぇんだろ?送ってやる」

半ば無理やり腕を引かれ、歩き出す。
あの村へ帰れるのだろうか。送ると言われたが、あの場所はここから遥か遠い。

りん、と鈴が鳴る。鬼灯が灯りが強くなる。
辺りを白く染めるような強い光に耐え切れず、目を閉じる。

「藤に礼を言っておけよ」

引かれた腕が離れ、白く視界を焼いていた光が収まり目を開ければ。


目の前は、帰りたいと望んでいた村だった。




20240612 『街』

6/12/2024, 3:57:11 PM