拝啓 あの頃の私
突然ですが、明日私は結婚します。
あなたがまだ知らない、普通の人と。
夢を見るのはやめました。逃げる事もしなくなりました。
今の私は、愛したその地から遠く離れた街で。
自分の足で立ち、現実を生きています。
鏡の中の自分に向けて微笑みかける。
まだ少し表情が硬い。一生の思い出に残るような、そんな素敵な式にしたいと思うほど、緊張で上手く笑顔が作れなくなってしまう。
こんな時はどうすれば良いか。目を閉じて、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
何かに躓いた時に思い浮かべるのは、いつだって美しい緋色の事だ。常に気怠げで時には辛辣に事実を突きつけ、けれども決して見離さず助言をくれた緋色の妖。退屈凌ぎだと笑い、語ってくれた物語達を今でも覚えている。
緋色の言葉が語られた物語が、そして何より緋色を通じた出逢いの数々が、何度も躓き挫けそうになる自分に手を差し伸べ、導いてくれた。
ふと、昔教えられたおまじないを思い出す。
逢えないものに想いを届ける、それ。子供騙しと笑いながらも、心を落ち着かせるのにはぴったりだと教えてくれた。
立ち上がり、窓へと向かう。そして窓辺に置かれたガーベラの花弁を一枚千切り、窓を開けた。
花弁に口付け、想いを託して。幼い自分に向けて。
あの頃の、夢見る子供だった私へ。
どうか別れの時が来ても、その出逢いを悔やまないで下さい。
現《うつつ》に戻った後の日々を救ってくれたのは、彼らと過ごした時間でした。
臆病な私に寄り添ってたくさんの事を教え、そして最後には背中を押してくれました。
それでも別れを惜しむのならば。独りを恐れてしまうというならば。
その時はどうか、一つだけ望んで下さい。
苦しさも、悲しさも、寂しさもすべて。それがあれば、耐える事ができるから。
『どうか最期の時には褒めてほしい。頑張ったねと頭を撫でて、たくさん褒めてください』
その約束一つで、これからも私は生きていける。
20240525 『あの頃の私へ』
「あら、珍しい。隠居宮司がこんな辺境にまで来るなんて」
「しばらく社に訪れる者などおりませんからね。祭りもまだ先の事ですし」
相変わらず、失礼なモノだ。
豪華絢爛な打掛を羽織り、煙管をふかす姿は退屈さを隠そうとすらしない。
とはいえ、こちらも突然の訪問の負い目くらいはある。胸中で悪態をつきながらも表には出さずに、笑みを貼り付け歩み寄った。
「噂を耳に致しまして。村の者の間でさえ、その噂を話すものですから。これは詳しく聞かねば、と」
「噂、ねぇ。何かしら?」
白々しい。本当に食えないモノである。
「何でも、雨の龍が娘を“隠した”、と」
隠した事に正直、驚きはない。
かつては贄を対価に、望まれ応えてきたはずの存在だ。贄の絶えた現在《いま》、対価として退屈凌ぎに人間を隠す事は今までにも何度かあった。
尤も隠した人間は、すべて常世の瘴気に蝕まれ壊れてしまっていたが。
まあ、問題はそこではない。
「それと風の噂に聞きましたが、今回はどうやら毛色が違うようでございますね。時間をかけて常世の瘴気に慣れさせ、名を与えて“眷属”にしてしまったとか」
「物好きねぇ」
否定はされなかった。つまりはそういう事である。
「珍しい事もあったものです。あの龍が何かに執着を見せるなど」
「そうでもないわ。今回は物事が上手くいっただけのことよ」
「と、言いますと?」
問い掛ければ煙管を燻らせながら、はぁ、と息を吐かれる。
本当に失礼なモノだ。
「執着というよりは、ただ“欲しい”と龍が望んだだけで、それは今までにも何回かあったわ。望まれた人間は応えられなかったけれど。でも今回の人間は龍の望みに応えることができた。ただそれだけよ」
「それは、何とも特異な人間がいたものでございますね」
「元より望むよりも応える方が得意なのよねぇ、あの娘は。とはいえ龍に応えずとも、隠される結果は変わらなかったでしょうけれど」
どこか遠くを見て再び息を吐くその様子は、呆れや哀れみを含んでいるように見える。
確かに気分一つで人間を隠す龍には呆れもするし、隠された人間には同情もする。眷属になる為には相当の苦痛が伴うのだから。
「出会わなければ、人として命を終える事が出来たでしょうに。可哀想な事をするものです」
「それ、出会いも仕組まれていたわよ。何せ娘が産まれ落ちた頃より目をつけられていたからねぇ」
「それはそれは。本当にお可哀想な事です」
結果が変わらないとは、そういうことか。その人間は生まれた時より運がなかったと見える。どう足掻いたとしても、龍からは逃れられないのだから。
「可哀想だなんて、あなたにだけは言われたくないと思うわよ」
じとり、と睨め付けられる。酷いモノだ。
「何故です?ワタクシは人間を隠しても、況してや眷属などしたりはしておりませんよ」
「一つの魂に執着しておいて、よく言えるわねぇ。ここにも常世に行くついでで寄っただけでしょうに」
「おや?バレていましたか」
噂が気になったのも、嘘ではないのだけれども。
「人間としての生を損ねていない分、ワタクシの方がマシだと思うのですがねぇ」
「人間に神と祀られている妖に見初められているのは変わらないわよ。決して逃げられないもの」
三度目の溜息。
まあ、言われてみればそう変わらないのかもしれないが。
「さて、そろそろお暇させて頂きます。今日は退屈凌ぎに付き合って下さり、ありがとうございました」
礼を言えど、もはや興味も失せたのかこちらを見遣る事もない。
それを気にする必要もないかと、それ以上何も言わずに背を向けた。
退屈凌ぎにはなった。後は本来の目的地に行くだけだ。
今は実にもならない魂を想い、笑みが浮かぶ。
次に相見える時を夢想して、裂けた尾がゆらゆらと揺れた。
20240524 『逃れられない』
膝を抱えて蹲る。
今日は一人。この秘密基地の中で一人きり。
風邪をひいたのだと聞いた。
熱が出て、寝込んでしまっているのだと。
だから、このまま待っていても誰もこない。
さて、これから何をしようか。
一人でも出来る事がいい。いつもよりも遠くへ冒険にでも出ようか。それとも、風邪に効く薬草でも探しに行こうか。
いっそ、鬼灯様に会いに行こうか。
ぐるぐると今日の予定を考えながら、それでも体は動かない。
「…うそつき」
仕方がない事。
分かっている。分かってはいるのだけれど。
「やくそく、したのに」
左手の小指を見つめ、唇を噛む。
昨日した約束を思い出す。この場所で、また明日と指切りをした。さようならの前に交わされる、おまじないのような約束。
膝に顔を埋めて目を閉じる。
今日はもう、ここにいよう。この場所で、日が暮れるまで眠る事にしよう。
そうすれば、寂しさを誤魔化せるから。
だから、
「しおん」
待ち焦がれた人の、声。
鼓膜を揺する、優しくて大好きな人の。決してここにいるはずのない。
驚いて顔を上げると、目の前には困ったように笑う待ち人の姿。
いつもと違い、寝巻きの姿。汗だくで、赤い顔で、荒く息をしていて。
気づいてしまえば、込み上げてくる涙を止める事など出来なかった。
「っ、なん、で…!」
「抜け出して、きた。しおん、泣いてる、って、思って。ごめん」
「ばかぁっ!ひさっ、めは、びょうにん、なのにっ。ねて、ないとっ、なのにぃっ!」
「ん。ごめん。だから、帰ろ?」
差し出される右手。その手もまた、熱く。
けれども、手を引く強さも優しさも、いつもと何一つ変わらずに。
「ごめっ、なさぃ。ごめんなさいっ。だからっ、ひさめ、しな、ないでっ。おいてかないでぇっ!」
「死なない。大丈夫。しおん、いい子。泣かないで」
しゃくり上げながら、彼の手を離さないよう必死で握り返していた。
「しおん」
分かれ道の手前。
さようならの前の、約束を交わす小指を差し出して。
「今日は、ごめん。ちゃんと、治すから。だから、また明日」
「っ!うん!また、あした。やくそく」
互いに絡めた小指。交わされた約束に、泣きながらも笑う。
また明日。
まるで魔法のように、未来を約束するこの言葉が、今はただ嬉しかった。
20240523 『また明日』
青い空。風に揺れる木々。人の絶えた家。
水晶越しに景色を眺める。
赫い空。朽ちた枯木。人の形をしたナニカ。
眼下に広がる真実をただ眺めていた。
「世界とは、実に不思議なもので」
朗々と語る男を意に介さず、茶を啜る。
それを男が気にする様子はなく。元より一度話し出すと止まらない男の事だ、気づいてさえいないのかもしれないが。
「透明な鉱石《いし》一つを通し見るだけで、本当の姿を垣間見る事が出来るのですよ」
しかし、このままでは埒が明かぬ。聞きたい事があると訪ねて来たのは男の方だ。だというのに、この調子では夕刻まで本題に入る事がないかもしれない。
さてどうするかと、思案する視界の隅に水晶が映る。そういえば渡されたままであったと、徐にそれを掴むと男に向けて放り投げた。
「なっ!?ちょっ…!」
慌てて水晶を掴む男を眺めつつ茶菓子を摘めば、どこか恨めしげな視線が重なった。
「貴重なものなんですから。もっと丁寧に扱ってください!」
「おや、これは失礼しました。それで、ご用件は何でしょうか?」
貼り付けた笑みで返せば、何かを言いかけた男は結局何も言えずに口を閉ざす。当初の目的を思い出したのだろう。
「聞きたい事があるのです」
ことり、と机に置いたのは、先程の水晶。そして別のもう一つ。
「同じ水晶でありながら『視える』『視えない』の違いとは何でしょうか?それに、」
逡巡し、言い淀む。何を言うべきか、どう話すかを悩み、言葉にならない呻きが漏れた。
「…先日、隣村があった場所に行きました。流行病で人が絶え、廃村になったと聞きましたが、綺麗なものでしたよ。誰もいない事を除けば、ここと然程変わらない…変わらなかった。はずでした」
本題はこちらか。
視えるか否かはおそらく問題ではなく、視えてしまったモノが問題なのだろう。
もはや現世ではなくなった場所で、視えるモノなど碌なモノではない。
「あんな…」
「まずは、こちらの水晶に関してお答えいたしましょう」
男の続く言葉を遮り、水晶を手に取る。一目見れば分かりそうなものだろうに、とは思うがおくびにも出さない。
「簡単な事ですよ。純度が高く、澄んだもの程視えやすいというだけです。こちらのように混じり物が多いと、まず視えません」
混じり物により燻んだそれを手渡し、告げる。
正確には、他にも必要な要素があるのだが。こちらの話を疑う事なく聞き入る様子に、まあいいかと開き直った。
「そして、アナタ様が視たモノですが」
「あれが、世界の本当の姿なのでしょうか?」
恐る恐る問う内容に、吹き出しそうになるのを寸前で堪える。
揶揄いたくもなるが、それは次の機会でいいだろう。
「いいえ。あの村は常世と近くなってしまったのです。故に、表向きは変わらずともこうして透かし視るだけで、視えるモノが変わってしまう」
「常世、ですか。流行病で人が死に絶えたから死者の国が近づいてしまったのでしょうかね」
違う。
そも、あの村では流行病など起きてはいない。誰かが常世の門である雨龍の泉の堰を破り、水が現世の村まで流れてしまったからだ。常世の瘴気を孕んだ水に触れたがために、皆身が腐り死に絶えた。
違うのだが、訂正するのは煩わしい。故に、肯定も否定もせずに笑みを貼り付けた。
「あそこへは、もう近寄らない方が身のためですよ」
「そうですね。まだ、あちら側へ行く予定はないですから」
これ以上境界が曖昧にならぬよう、表向きはその身を案じて忠告すれば、男は神妙に頷く。
本当に単純な男である。その単純さに助かってはいるが。
「ありがとうございます。さすがは宮司様だ。何でも知り得ていらっしゃる」
得心が行ったように晴れやかな笑みを浮かべる男に、水晶を手渡す。
ふと、この単純な男を揶揄いたくなってしまった。次の機会で、とは思ったが少しくらいは良いだろう。
「そういえば、何故水晶が真実を視れるかご存じですか?」
「いいえ。何故ですか」
案の定、食いついてきた男に笑みが浮かぶ。
「透明だからですよ。何色にも染まらない純粋さで、すべてを透かすからです。それは時として、隠しておきたいモノですら暴いてしまう」
「隠しておきたい、もの」
「ところで、隣村が常世と近くなってしまった事で境界が曖昧になってしまっていましてね。最近は魑魅魍魎が辺りを跋扈しているのですよ。そのせいで、何人か妖に成り代わられてしまっているようで…さて、今その鉱石《いし》でワタクシを視ましたら、果たして本当に人の姿をしているのでしょうかね?」
固まってしまった男と視線を合わせ、妖艶に微笑む。
ごとり、と音を立て、イシが落ちた。
20240522 『透明』
ひらり、ひらりと。
風に乗り、花弁が舞い踊る。
届かぬ想いを、望みを託され。行き場のない感情を乗せながら。
風の赴くまま、流れていく。
「郵便でェす」
誰にでもなく声をかけ、地に降りる。
カランコロンと一本歯下駄を鳴らしつつ、お目当ての場所へ。
「相変わらず、凄いねィ」
無数の風車が刺さる橘の巨木を見上げ、ほぅと息が漏れる。数を減らす事のない其れ等は、ある意味壮観ですらあるようで。
「また来たのか。閑人め」
「長サマの許可は取ってますよゥ。そんなに邪険にしなくてもいいじャあ、ありませんか」
背後の声を気にする事なく、取り出した巾着の口を開く。起こした風に中身を流せば、視界が極彩色に染まった。
「雑な仕事だ。これでは届くものも届かぬだろうに」
「大丈夫ですよゥ。子供騙しの呪いに縋るほど、焦がれた想いですからねェ。届けたい相手を間違う事はありません」
「そも、こんな無意味な労苦を行う意味がわからんな」
舞い上がる無数の花弁。誘われるように風車に触れ解けていく其れ等を見、此《コレ》を見下ろす声の主は無感情なままに呟いた。
これを無意味と断ずるとは常世に在るモノと現世に生きる者はやはり違うと、しみじみ思う。否、この男が特段に堅物なのかもしれないが。
「イヤですねェ。無意味と断じないでくださいな。其れ等はみィんな、“サヨナラ”と“逢いたい”の想いなんですから。風にも乗らない戯言も拾うほど此も節操なしじャあないですよゥ」
空になった巾着を弄びながら、くつくつ笑う。
「突然いつも通りが崩れて、お別れも出来なかった。この先をどうやって生きればいいのかわからない。苦しい。悲しい。寂しい。逢いたい。せめてさよならだけでも伝えたい…可愛い可愛い綺羅星達の望み。応えてあげないと」
返事は返せないけれど、さよならくらいは伝えてあげてもいいではないか。突然の死に別れに嘆く、数多の綺羅星達のせめてもの慰めになればいい。
ただでさえ刹那の生を燃やして駆け抜けているのだ。その輝きが少しでも曇らないよう、望みに応えるのが此の存在意義でもあるのだから。
「酔狂な事だ」
「綺羅星を娶るような、愚行を犯すモノと一緒にしないでほしいですねェ」
綺羅星は綺羅星だけで生きてほしい。その理を踏み越えた先にあるのは、破滅でしかないだろうに。
理を超えたモノ等を思い浮かべて、げんなりしながら戻りの準備をする。
見ればもう、片手で数え切れるほどにまで花片が解けてしまっていた。
「そろそろ戻りますねィ。それではご達者で」
最後の花片が解けたのを見届けて、男に背を向け翔び上がる。
風に乗れば常世は遥か下に。現世はすぐそこに。
「さァて、早く戻らないと」
何せ、綺羅星はすぐに消えてしまうのだから。しかも、ある日突然に消えてしまう綺羅星の何と多いことか。
一つ息を吐いて。
今この時も、想いを託され風に舞う花弁を拾い集めるために。まだ暗い空を駆け抜けた。
20240520 『突然の別れ』