拝啓 あの頃の私
突然ですが、明日私は結婚します。
あなたがまだ知らない、普通の人と。
夢を見るのはやめました。逃げる事もしなくなりました。
今の私は、愛したその地から遠く離れた街で。
自分の足で立ち、現実を生きています。
鏡の中の自分に向けて微笑みかける。
まだ少し表情が硬い。一生の思い出に残るような、そんな素敵な式にしたいと思うほど、緊張で上手く笑顔が作れなくなってしまう。
こんな時はどうすれば良いか。目を閉じて、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。
何かに躓いた時に思い浮かべるのは、いつだって美しい緋色の事だ。常に気怠げで時には辛辣に事実を突きつけ、けれども決して見離さず助言をくれた緋色の妖。退屈凌ぎだと笑い、語ってくれた物語達を今でも覚えている。
緋色の言葉が語られた物語が、そして何より緋色を通じた出逢いの数々が、何度も躓き挫けそうになる自分に手を差し伸べ、導いてくれた。
ふと、昔教えられたおまじないを思い出す。
逢えないものに想いを届ける、それ。子供騙しと笑いながらも、心を落ち着かせるのにはぴったりだと教えてくれた。
立ち上がり、窓へと向かう。そして窓辺に置かれたガーベラの花弁を一枚千切り、窓を開けた。
花弁に口付け、想いを託して。幼い自分に向けて。
あの頃の、夢見る子供だった私へ。
どうか別れの時が来ても、その出逢いを悔やまないで下さい。
現《うつつ》に戻った後の日々を救ってくれたのは、彼らと過ごした時間でした。
臆病な私に寄り添ってたくさんの事を教え、そして最後には背中を押してくれました。
それでも別れを惜しむのならば。独りを恐れてしまうというならば。
その時はどうか、一つだけ望んで下さい。
苦しさも、悲しさも、寂しさもすべて。それがあれば、耐える事ができるから。
『どうか最期の時には褒めてほしい。頑張ったねと頭を撫でて、たくさん褒めてください』
その約束一つで、これからも私は生きていける。
20240525 『あの頃の私へ』
5/25/2024, 2:51:40 PM