「おや、また来たの?」
こちらを一瞥し、読んでいた本を閉じる。
艶やかな緋色を纏うその妖は、いつもと変わらず気怠げだ。
「あなたも好きよねぇ。今日は何のお話を聞きに来たのかしら?」
心踊る大冒険の話。何処かの国の英雄の話。不思議な世界の不思議な話。
妖の話す物語は、いつもわくわくするものばかりだ。
けれども今日は、いつもとは違う話を聞きたかった。
例えば、
「恋物語」
「恋ぃ?」
よほど意外だったのか。信じられないものを見るように目を見張り、次いでにたりと弧を描いた。
「あの、野山を駆け回って、傷ばかり、作るような、じゃじゃ馬娘が、恋っ!…っく、ふふ」
心底おかしくて堪らないと口元を歪め、妖は笑う。
そんなにおかしいだろうか。
確かに今までは、外で色々な知らないものを見るのが好きだった自覚はある。けれど、まったく興味がないわけではないのに。ただ、少し外の世界への興味が強いだけで。
「少しは大人になったというわけかねぇ…あぁ、ほら。そんなに臍を曲げてないで、こっちへおいでなさい」
段々と気分が下降している事に気づいたらしい妖が、笑みを浮かべたまま手招きをする。
少しだけ反抗する気持ちはあるが、結局はその手に引かれて側に寄った。
「さぁて。恋といっても色々あるけど、何がいいかしらねぇ」
「…そんなにあるの?」
「えぇ、そうよ。初恋、恋愛、悲恋、失恋、色恋…はまだ早いけど、言葉だけでも数多ある。どれがお望み?」
抱き上げられて、妖の膝の上。
どれかと問われて悩むも、今日はいつもと違うものを。いつもは見向きもしないようなお話を。
「じゃあ、悲しい恋物語で」
「あらまぁ、今日は本当に可笑しいのねぇ」
「今日はいつもと違う話を聞きたいの」
「そうかしら?まるで恋でもしているみたい…それも、とびきり叶わないような恋を、ねぇ?」
腰を引き寄せられ、顎を掬われて視線が合わさる。逃げる事を許さない、強い鈍色に見透かされるようでとても落ち着かない。
「大事に箱にしまって鍵をかけて、閉じ込めて。ずうっと秘めたままでいるの。叶わないって決めつけて、可哀想に」
額に唇を触れさせて、妖は嗤う。愉しくて仕方がないというように。
「そんな可哀想な仔には、特別のお話をあげましょうか。遠い昔の、或いは未来の。人間と妖の哀れで滑稽な恋物語」
そうして、妖は語り出す。
手を繋ぐ二人の冒険譚を。
出会いと別れの中、紡がれる恋物語を。
20240519 『恋物語』
遠くで神楽笛の音が聞こえる。
明日の祭りのために、大人達が準備を進めているのだろう。
あれからどれくらい時間が過ぎたのか。一向に訪れる事がない眠気に、段々に不安が募る。
明日は、大事な日なのに。
「ねむれないの?」
もぞもぞと何度目かの寝返りを打てば、隣の布団から声がかかる。
布団から顔だけを出し視線を向けると、同じように顔だけを出した幼馴染と目があった。どこか不安そうな表情が一瞬で笑顔になり、いそいそとこちらの布団に潜り込んでくる。
「私も一緒。明日の事、考えてた」
にこにこと笑みを浮かべながらも、その手は微かに震えていて。落ち着かせるようにその手を取り、引き寄せた。
「何で私達なんだろうね。何でいつも通りじゃ駄目なんだろう。何で、」
「大丈夫。今年もいつもと同じ。お祭りも、神楽舞も。今年選ばれたのが、たまたま俺達だっただけ」
だから大丈夫なのだと、自分自身にも言い聞かせるように。
怖がりな幼馴染の頭を撫でながら、大丈夫と繰り返せば、少しずつ落ち着いてきたようだった。
「ありがとう。うん、大丈夫だよね。大丈夫…ちゃんと踊れるようにもう寝ないと、ね」
「そうだね。怒られないようにしっかり寝ないと。おやすみ」
「うん。おやすみなさい」
おやすみと言いながらも、幼馴染は自分の布団に戻る気配はない。仕方がないと、彼女の頭の下に腕を差し入れた。伝わる体温が不安を溶かしていくようで、ほぅと息が漏れる。
そのまま目を閉じていれば、幼馴染も同じように眠りについたらしい。微かに聞こえる寝息に、閉じていた目を開けた。
「大丈夫。いつもと同じ。ただ、神楽を舞うのが俺達になっただけ。祭りを仕切るのが父さんになっただけ」
囁いて、眠る幼馴染の額に口付け、祈る。
不安なのはきっと、彼女よりも自分の方だった。
村が少しずつ変わっていく。
一年前に、妹が雨を降らせるようになってから。
いつの間にか父は村長よりも立場が上になり、妹の言葉が絶対になった。祭りは一族が執り行うようになり、代々受け継がれていたはずの神楽舞も、明日は巫女ではなく自分達が舞う事になった。
まるで、村全体が毒に侵されているようだ。ゆっくりと蝕み、気づいた時には戻れない。皆変わってしまった。父も母も、以前はあんな傲慢ではなかったはずなのに。
妹はもはや、何を考えているのかすら分からない。何を思い、自分達に神楽を舞わせるのか。そして何故、
幼馴染との婚約を、祭りの最後に行うようにと告げたのか。
分からない。何一つ。
けれど、
「明日、何があっても絶対に俺が守るから」
これはただの見栄だ。
幼馴染に対して自尊心ばかり高くなってしまった自分の、精一杯の悪足掻き。
穏やかに眠る幼馴染は知らない。
変わってしまった家族の事。明日の事。自分達の事。
何一つ、伝える事が出来なかった。
本当は泣き叫び、縋りたいと思っているなんて。逃げ出したいなんて。
助けて、だなんて。
手を引かれてあどけなく微笑う幼馴染には、言えるはずなんてないのだ。
神楽笛の音はまだ止まない。
夜闇は益々色を濃くして、村を静かに沈めていく。
朝はまだ来ない。
20240518 『真夜中』
「あ…」
この場所で、初めて自分以外の人を見た。
「あぁ、こんにちは」
穏やかに微笑む青年。
右手に持つ淡く灯る鬼灯が、彼が導の鬼灯様に関わる人だと告げている。
「あら、導の。鬼灯なんか持って、花の真似事?」
「そんなところです」
背後の彼女の不躾な疑問にも、導と呼ばれた青年の笑みは変わらない。彼の金に近い琥珀色の瞳は、優しさや愛おしさを詰めて揺らめいている。
「あの方の負担が少しでも軽くなれば、と」
「相変わらず、花は愛されてるのねぇ」
「身重の妻の支える特別に浮かれているだけですよ」
「やだ。惚気?」
揶揄い混じりの彼女の言葉に、青年は少し恥ずかし気に首を振った。
そのまま軽く俯いてしまった彼の耳が赤に染まっている。
「まぁ、導は縁を結ばない花に辿り着くくらい一途だったものね。愛があれば何でもって事かしら?」
楽し気に笑い、彼女は続ける。
流石にこれ以上はと、声をかけるより早く、顔を上げた青年が笑って否定した。
「何でも、は難しいです。僕に出来る事はほんの僅かですから。そのほんの僅かからおにさまにしてあげたい事をしているだけ」
揺らめく金を濃くした琥珀色が、真っ直ぐにこちらを射抜いて。
「ただ、望まれるのならば僕の出来るすべてを以って応えるつもりでいます」
「…やっぱり、惚気だわ」
告げた決意の言葉に、背後の彼女が息を呑んだのを感じた。呆れたような声音とは裏腹に、腰に絡みつく腕に力が籠る。
そんな彼女の様子に、青年は不思議そうに小首を傾げた。
「雨さまも同じでしょう?望まれるならば応えたい。違いますか?」
「違わないけど、」
望まれない、と。肩越しの微かな呟きが鼓膜を揺する。
どこか幼さを滲ませたそれに、何故だか気恥ずかしさを覚えて目を閉じた。
「…っ」
思わず、名前を呼びそうになり唇を噛み締める。
まだ、最初の恐怖を覚えている。
「どうしたの?翠雨」
「何でもない。そろそろ戻らないと」
「…そうね。五月雨がうるさくなるわ」
彼女の優しさに胸中でありがとうと呟いて、青年に会釈をした。
「僕も戻ります。また、機会があればお話してください」
「機会があれば」
最後まで穏やかだった青年の背を見送って、踵を返す。
彼女は背中に張り付いたまま。
不貞腐れているのか、落ち込んでいるのか。表情の見えないこちらからでは知る事はできない。
「ねぇ、翠雨」
「何?」
擦り寄られる肩口に吐息がかかり、くすぐったさに身を捩る。
「望みなさいよ。応えてあげるから」
繰り返される言葉。
何もないと口にし続けてきたそれ。
一つ息を吐いて、口を開く。
「怖いのも、痛いのも嫌だ」
臆病な自分には、これが精一杯だった。
20240517 『愛があれば何でもできる?』
風車が回る。
からからと音を奏でて。
微睡の先にみる明日を願い。
呵々と魂が謡う。
ひとつ。ふたつ。
成った実を収穫する。
元は別の色をしていたそれらは、成ってしまえば等しく色を失っている。
みっつ。よっつ。
実を川に流せば、流れに逆らわず下っていく。
行き着く先は、現世。
在るべき場所へ還るために。再び生まれ出るために。
「長」
呼ばれ、振り返る。
「何用だ。雨の片割れ」
「これもお願いしたいと思って、ね」
そう言って、黒い龍より手渡されたのは玻璃の小箱。中を満たす石が透かし見え、知らず眉根が寄った。
「やっぱり、わたし達の血は駄目ね。いくら薄めても人間には持て余してしまうもの」
殆どが黒く濁った石を睨め付け、龍は息を吐く。
「血が濃過ぎたり、当てられたりしたのは摘果して、ようやく定着してきたのに。『先祖返り』のせいで台無しよ!」
怒りに任せて叫ぶ龍は、普段よりも幾分饒舌だ。思い通りの成果が得られないが故か、それとも微かに漂う血の臭いにあてられたのか。
「故に全て刈り取ったと」
「いいえ。ひとつは残しておいたわ。血の影響が一番少ないし、近くにあの花の血を感じられたから」
「鬼の子か」
「そう。導くモノの血族なら、悪いようにはならないでしょう?」
どうやら機嫌を直したらしい龍は、今度はくすくすと笑い始める。
この龍はその名が示すように、降らせる雨も感情すら長くは続かない。くるくると変化する機嫌と話は、まるで通り雨の如く。
「ただ、気質が悪い方でわたし達に似ているのが気になるのよね。やっぱり刈り取ればよかったかしら…でも、勿体ないし」
今度は1人悩み始めた龍に、苦笑が漏れる。
「珍しいものだな。汝が斯様に悩むとは」
「そりゃあ、ね。これがあって刈り取る事になったのだもの。少しは慎重になるわよ」
これ、と。小箱から器用に取り出されたのは、澄んだ水浅葱の小さな石。
『先祖返り』と呼ばれた者の魂の成れの果て。
「まだ雨を降らすぐらいではあったけれど。人間に過ぎたる力は腐敗の元になるもの…勿体なくはあったけれど」
「そも、何故そうまでして現世に産み子を流す」
「さあ?たぶん、羨ましかったのかもね」
誰、とは言わずとも。
穏やかに微笑み合う、鬼と人の子の姿が浮かぶ。
「後悔しているのか」
ふと思う事を尋ねれば、虚を突かれた顔をされた。
「何に?子を現世に流した事?血族を刈り取る事?ひとつ残した事?」
「ただの戯れ言よ」
「人間みたいね。悔いるなんて、意味のない事。欲しいと思ったから手に入れる。したいと思ったから行動する。それだけでしょう。後は、その結果に責任を持って対処するだけよ」
淡々とした声音で、龍は告げる。
「長はどうなの?手間をかけて流した魂が、こうして澱んで還ってくる事を後悔する?流さなければと思う事ある?」
「ないな。それが我の役目故」
「でしょう?」
龍の刈り取る魂の成れの果てから風車を作り、橘に挿して実り待つ。そうして成った実を川に流す事に惑いはない。
無垢にして流したものが穢れて還って来たとしても。
「さて、そろそろ戻るわ。これ以上は夜に怒られかねないものね」
くすりと笑い、空を舞う。
宵闇に溶けるようなその漆黒の姿を見送って、残されたものを見、息を吐いた。
「詮無き事を聞いたな」
自嘲し、踵を返す。
己が役目を果たす為に。
20240516 『後悔』
花片を一枚〈ひとひら〉風に流す。
ひらひらと風の赴くまま、舞う白を見上げて。
どうか想いが届くようにと願った。
「何それ?」
「おまじない」
月見草の花片を千切る。花片に願いを込めて口付けて、そのまま風に流せば、隣に座った彼は不思議そうに首を傾げた。
「願い事?」
「うん。逢えない人に、気持ちが届きますようにって」
「そっか」
優しく笑う彼の左手に、そっと右手を重ねてみる。
明日も一緒に生きていけますようにと、密かに願いを込めて。
「届くかな」
「届くよ」
「そうかな。そうだといいな」
もう一枚、花片を千切る。
二度と届かない相手に、伝えたい想いを乗せて。
「ありがとうって、伝わればいいな」
たくさんの、ありがとうを。
私を生んでくれた事。育ててくれた事。見守ってくれた事。
今ここで明日を待てるのは、あなた達がいてくれたからなのだと。
祈りを込めて、白を空へと解き放った。
「届くよ。シロはずっといい子だから」
重ねていただけの手が繋がれる。
「寂しくても、悲しくても、泣かないで前を向けるツキシロを、きっとみんな見てる。だから、大丈夫」
そう言って微笑む彼は、いつだって私が望む言葉を与えてくれるのだ。
もし。もしも。
花片と一緒に、この空を風の赴くままに身を任せて飛べたなら。そうしたら、届かない人達に逢う事ができるのか。
「ほら、そろそろ帰るよ。それともまた抱えてく?」
「っいらない!バカ」
繋いだ手は離れない。
だからきっと、明日も空に憧れながら、彼と共に地に足をつけて生きていくのだろう。
20240515 『風に身をまかせ』