昔一度だけ、父にあった事がある。
暗い赤の瞳にたくさんの感情を乗せて、ただ私を見ていた。
怒り。悲しみ。迷い。
そんな父が呟いた言葉を、今も覚えている。
「どうした?」
「何でもない。少しだけ、お父さんの事、思い出してた」
ゆるりと首を振ると、触れているだけだった手をそっと握られた。
優しい人だ。そして、とても強い人。
自分の中の想いに押し潰されない、強くて優しい人。
父〈あのひと〉とは違う。
「あの、さ」
「なあに?」
「多分だけど、寂しかったんだと思う。好きで、誰よりも大切にしたかった人がいなくなって、寂しくて、会いたくて」
「うん」
きっと、それは正しい。
父は弱い人だった。
ずっと母だけを求めていた。それ以外は見えなくなってしまっていた。
自分の中の想いに潰されて、食べられて。
そうして、残ったものが変わっていってしまったのだ。
「俺はまだ子どもだから、まだ全部は分かんねぇけど、大切な人がいなくなるのはきっとダメだ。もう一度会えるなら、それしかないなら、俺も同じになると思う」
そう言っても、同じ事にはならないのだろう。もしその時が来たとしても、彼は絶対に道を間違えたりはしない。
知っている。
彼は、彼自身よりも他を選ぶような、そんな優しい人だ。
「だから、さ…あの人は、シロを憎んではいなかったよ。寂しくて、間違っただけなんだ」
彼なりの不器用な慰めが、背中合わせの温もりが何だかとても心地良かった。
「…会えたかな」
「何?」
「お父さん。お母さんに、会えたのかな」
人の身で常世に渡った父を思う。
常世の瘴気は、現世に生きる人を腐らせてしまうといっていた。
体も、魂も。全てを腐らせ、土に還すのだと。
「会えたさ。どんな形でも。会いたいって望んだんだから」
「そっか…ありがとう」
彼の言葉に、目を閉じる。
「あのね。ちゃんと、知っていたよ」
繋いだ手は、まだ離れない。
「知っていたよ。お父さん、不器用なんだって」
一度だけ会った、父の言葉を今も覚えている。
『シオンがいたら、ちゃんと愛せたのかな…ごめんな』
瞳にたくさんの感情を乗せて。
触れようと伸ばした手を、伸ばせずに握りしめて。
『ごめん』
まるで泣いているみたいな表情〈かお〉をした父を。
きっとこの先も忘れる事なんてできない。
「だから、」
「ツキシロ」
夜みたいに静かな声音で、彼が呼ぶ。
「ん、なあに?」
「ツキシロ」
もう一度、彼に呼ばれて、背中の温もりが離れていく。
それでも、手は繋いだまま。
その手を引かれて振り返ると、そのまま優しく抱きしめられた。
繋いでいない片手が、背中を宥めるように撫でていく。
「がんばったな。いい子いい子」
「っ、子ども扱い、しないでよ」
「まだ子どもだろ、俺達」
「バカ、クロノの大バカ、悪い子、バカ」
「だからバカ多いって」
背中を撫でる手は、どこまでも優しい。
その優しさが、触れる温もりが何故か苦しくて。
痛くて。寂しくて。怖くて。
彼の腕の中で、只々声を上げて泣いていた。
20240510 『忘れられない、いつまでも。』
あと、一年。
あれから何回も指折り数えた。
彼女達にとっては特別な、私にとっては終わりの日を。
後悔のないようにと。そう思っていた。
はずだった。
最初に感じたのは、強い痛み。
身体の中にある何かを無理やり引き千切るような、そんな無慈悲な痛み。
ただ、名前を呼ばれただけ。彼女達には伝えなかったはずの名前を、目を合わせながら呼ばれた。
『これはもう必要ないわね』
痛みに滲む視界。その隅で、彼女が握り潰した何かを見た。
次に感じたのは、熱。
千切れて痛むその場所に入り込む、何かが発したものか。それとも、その何かを身体が拒んでいるからなのか。
痛みにのたうち回る私を引き寄せ、彼女がもう一度視線を合わせ囁いた言葉。その知らない名前に、生じた熱と共に酷く眩暈がした。
「…っぐ…ぅ…」
少しでもこの苦痛から逃れたくて、背中を丸めて蹲る。
痛い。熱い。苦しい。
入り込んだ何かが心臓を喰い破り、そこから血に混じって身体中を巡っているようだ。
そうして、私という存在を人から人でないモノに変えてしまう。
そんな気がして、只々怖かった。
「少し急ぎすぎだ。壊してしまったらどうする」
低く落ち着いた声音。
「長く苦しめるよりはいいじゃない」
「痛みが増すのは可哀想だ」
抱き起こされて、彼の腕の中。そのままゆるりと背中を撫でられれば、ほんの僅か痛みが消えた気がした。
「いい子。怖くないから、ちゃんと受け入れて」
囁かれる言葉。背中から感じる、手のひらの熱。未だ身体を蝕む痛みと熱に混じり合って、少しずつ波が引いていく。
「翠雨」
名前を、呼ばれた。知らない名前。
「…ゃ……かえ、て…っ…かえ、して……」
うわ言のように、かえして、と繰り返す。
昨日までの私をなかったようにされているようで、苦しかった。
戻れなくなりそうで、怖かった。
「駄目。拒んでも、苦しむ時間が長くなるだけだ。ほら」
「ーーーっ!?」
背中を撫でていた彼の手が離れる。瞬間、全身に走る激痛に、声にならない叫びを上げた。
先程とは比べ物にならない程の、痛みと熱。けれど、その苦しさに喘ぐその背中に再び彼の手が触れれば、痛みも熱も静かに引いていく。
「結局、五月雨も泣かせているじゃない」
「こうした方が分かりやすいだろう」
「残酷ね」
不意に聞こえた彼女の声。次いで伸ばされた腕に抱き寄せられる。
彼の手が離れた事でまたあの痛みを覚悟し身を竦めるが、不思議と痛みも熱も訪れる事はなかった。
「大丈夫よ、ほら。ちゃんと抑えてあげるから」
「…ぁ」
「ねぇ、翠雨」
顎を掬われ、背後の彼女と視線が合わさる。蛇のような深紅の瞳が、ゆるりと弧を描いた。
「わたし達が今まで与えたものを覚えている?そして、それを全て受け入れたのも、ね」
もがいた事で乱れた髪から簪を引き抜き、口付け笑う。
忘れてはいない。その鼈甲の簪も、黒の着物も、櫛も紅も何もかも。
全て、彼女達から与えられたものだ。
「それがどこから持ち込まれたのか、気づいているでしょう?何を食べ、身に纏っているのか」
「ぁ…や、だ……やめ、て…」
「『黄泉竈食ひ』、知っているでしょう?」
聞きたくなかった言葉。
常世の竈門で煮炊きした物を口にすると、現世には二度と戻れないという。
けれど、何故。
「少量なら、身につけた常世のものの気配で誤魔化せるの。ずっと身につけてくれていたものね」
「そうだな。だからこうして馴染んで、今狂いも壊れもしていない。苦しいのも、受け入れればそれでおしまい」
「分かった?翠雨はもう戻れないの。それに、これが翠雨の望みに応えた結果よ。」
くすりと笑う声。楽し気に弾んだ声音が告げる。
「ここにはわたしも五月雨もいるわ。別れを悲しむ必要はない。ただ、在る場所が現世から狭間に変わっただけ。何を拒む必要があるの?」
「っ…な、に…?」
「今の幸せが続けばと、望んだでしょう?」
「……!」
それは、二人には最後まで伝えなかった言葉。
人の身では過ぎる望みだと知っていたから。だから、口を閉ざし続けた唯一の想いだった。
「わたし達は望みに応えた。ならば、今度は翠雨が応えなさい。大人しく受け入れて」
一年前、優しい神様達との逢瀬の終わりの日を知った。
後悔のないように、笑って別れられるようにと必死で気持ちを隠した。
けれども今日、二人から贈られた黒の着物を着付けられ、簪を挿し、連れられた山奥の古びた鳥居を潜った瞬間に気づいた。
終わってしまったのは、現世で生きた時間。特別に新しく与えられたのは、神様と共に在る永久だと。
どこで間違えてしまったのだろう。
鳥居を潜った時か。二人から与えられるものを受け入れた時か。
幸せが続くように望んでしまった時か。
それとも、あの雨の日に彼女の姿に魅入ってしまった時か。
「……うん」
小さく頷いて、瞳を閉じる。
もう、何もかもが分からなかった。
20240509 『一年後』
「はい、これ」
手渡されたのは、鼈甲の簪。
その意味を考え、記憶を辿る。
誕生日ではない。欲しいと強請った事もない。
あとは、
「何よ、嬉しくないわけ?」
「そんな事、ないよ。ありがとう。えっと」
段々に不機嫌になって行く彼女に、内心で焦る。
今日は何の日だった?何があった?
焦りのせいで纏まらない思考に、思い出せない記憶に泣きそうになっていると、呆れたような溜息が聞こえた。
「今日は、わたし達が出逢った日!あんたがわたしを見初めた記念日でしょうが!」
「あっ…」
はっとして彼女を見ると、不機嫌な様子はそのままに両頬を引き伸ばされた。
「人間って本当に分かんない!すぐ忘れるくせに記念の日を大事にするとか、意味不明なんだけど!」
痛みのない程度の力加減で、頬を捏ねくり回される。
相変わらず、彼女は人よりも人らしい。いや、人らしいというよりは、人を真似ているというべきか。上辺だけの行動のなぞりは意味を伴わず、その為にこうして叫ぶ彼女の姿を見るのはよくある事だ。
「あんたはもっと意味不明。こうして与えれば受け取るのに、何も望まないなんて」
頬から手が離れ、今度は髪を乱雑に撫で回される。
「人間なら人間らしく、欲望を口になさい。このわたしが応えてあげると言っているのだから」
「何もないよ。今で十分幸せ」
「易い幸せね」
呆れたと笑う彼女には、分からない事なのかもしれない。
人ではない彼女は、見返りを求めない。望まれれば応え、代わりに一度機嫌を損ねたら全てを奪い去っていく。
神様はそんな怖い存在なのだと。寝物語によく聞かされた。
そんな目の前の怖いほどに美しい神様にとって、この幸せは些細なものなのだろう。
「今が幸せ。これ以上はいらない」
独りではない安堵。見返りなく与えられる優しさ。
彼女にとっては些細な幸せが、どんなに尊いものか。
きっと、それ以上を望んではいけない。
望んだならば、戻れなくなってしまうだろうから。
「まぁいいわ。今はそれで。その代わり今日は好きにさせてもらうわよ」
「いいよ。惚れた弱みともいうし、どうぞご自由に?」
「なら、まずは髪結いからね。さっさと背を向けて座りなさい。簪と櫛も渡して」
「はいはい」
くすりと笑い、彼女に背を向け手頃な岩に腰かける。
簪と共に手渡した櫛も、以前誕生日の祝いとして貰ったものだ。
他にも、些細な何かしらの記念日を理由に、彼女や今ここにはいない彼から多くを与えてもらった。
「相変わらず、綺麗な髪ね」
けれど、今上機嫌で髪を梳いている彼女の名を、私は知らない。
知っているのは、彼女達が人ではないという事。そして、この幸せには終わりが近い事。
「もうすぐあいつも来れるだろうから、来たらお茶にしましょ」
「忙しいの?」
「別に。無駄にこだわっているだけよ。今日の茶菓子の用意も、新しい棲家の事も」
新しい棲家、と聞いて思わず眉根を寄せる。
手慣れた手つきで髪をまとめ、簪を挿す彼女の様子に変わりはない。けれども、その声音はどこか楽し気で。
「もうすぐだし、特別なのは分かるけど。こだわり過ぎるのは気持ち悪いだけね」
結い上げた髪にそっと触れ、彼女が笑う。
「次は、黒の着物にしましょ。特別だもの」
「特別…?」
「それとも、別の日がいいかしら?わたしはあんたに見初められたこの日がいいのだけれど。あんたが生まれた日でも悪くはないわ」
彼女の言葉の意味が分からない。
特別な日が、終わりの日なのだろうけれど。
彼女達は、本当に分からない事ばかりだ。
「名前はもう決めてあるの。楽しみでしょう?」
腰に手を回され、抱き寄せられる。
くすくすと、背後から聞こえる笑い声が鼓膜を揺する。
「その日まで、望みがあれば口になさい。応えてあげるから」
あの日から、繰り返される言葉。
望みはないと何度返しても、繰り返される。
もし、もしも。
今が続けばいい、と口にしたならば、何か変わるのだろうか。
彼女達の特別も、なかった事になるのだろうか。
そんな事を思いながらも、結局は臆病に口を閉ざし首を振るのだ。
今が幸せ。これ以上はいらない、と。
20240508 『初恋の日』
明日世界が終わったらどうする?
なにそれ?へんなのー。
それってさ、どの世界?うつしよ?とこよ?
やっぱり現世のことじゃない?
お仕事大変になるのはいやだよ。
たしかにー!
「…変わりないか」
声を掛ければ、目の前の座り込む人の子は緩々と顔をあげる。
「変わらないです。僕も、花曇も」
虚いだ瞳で、傍の楡の神樹に頬を寄せた。
壊れながらも待ち続ける事の出来る強さは、驚嘆に値するものだ。
そう思い子の頭を優しく撫でると、懐より取り出した真白の風車を差し出した。
「長さま、ありがとうございます」
どこか緩慢な動作で。
小さく笑んで風車を手に取ると、そのまま楡に突き刺した。
「…」
「やはり、気休めにしか成らぬか」
花木が水を吸い上げ花開くように、黒に染まりながら朽ちていく風車。
その様を見、子は何を想うているのか。
想いを乗せぬ凪いだ瞳は、ただ楡を見つめていた。
ふと、先刻の子らの話を思い出す。
この壊れた人の子は、どのような答えを返すだろうか。
「人の子よ。一つ尋ねたい事がある」
「何でしょう。長さま」
「明日世界が終わるならば、汝は何を想い願うのか」
虚な瞳がこちらを見上げ、ゆるりと瞬く。
「珍しいですね」
「戯れ言よ。屋敷の子らが話していたものでな」
子らを思い、くつりと喉がなる。
あれらは世界の終わりを、現世の終わりと認識した。
なれば、現世に生きた子はそれを何と認識するのか。
「申し訳ありません、長さま。その問いには答えられません」
「それは何故か」
また一つ瞬く虚。
されど、その虚な黄金は瞬く度にどこか輝きを増しているかのように。
強い意志を持って言葉を紡ぐ。
「僕の世界は終わっていますから」
そうして楡に触れるその手の優しさが、答えの全てだった。
「花曇は幸せ者よな。斯様に想い、待ち続ける者があるのだから」
「待つのは嫌いではありません。大丈夫ですよ」
「否。誇れ、人の子。そうして記憶し、待てる者は稀有な存在ぞ。我らのような悠久たるモノにとっては特に、な」
人はその儚さ故に、永きを待てず記憶を留める事も不得手だ。
それを可とし厭わぬとあらば、想われるモノにとってそれはどんなに幸福な事であるのか。
「よく、わかりません。けれど、花曇が喜んでくれるのならば嬉しいです」
「汝があるからこそ、花曇もまた在れるのであろうよ」
「そっか…あぁ、そうだ」
楡を見つめていたその瞳が、不意に何かを思い、瞬く。
「長さま。もしもの話ですが」
どこか遠くを想う子の、その表情は慈しみを抱き。
「もしも、世界が明日終わるのだとしても、僕は最後の時まで抗います。誰かに祈り願うよりも、微かな可能性を求めて足掻いていたい。明日のその先を諦めたくはない」
その声音は、どこまでも真っ直ぐな強さを纏っていた。
「また来よう」
暇を告げると、ゆるりと頷くその瞳は再び虚を宿している。
「楡が咲き実る時まで、何度でも」
その虚を覗き約束を告げれば、微かに表情が和らいだ。
「お待ちしています」
約束の応えに満足し、頭を少しばかり強く撫でると、子から離れ屋敷に向かい歩き出す。
とても、気分が良かった。
楡はまだ咲かない。
楡に内包された澱みは未だ、風車を朽ちさせる程に強く。
その強すぎる澱みが、楡を留めているからだ。
花が咲かねば、実は成らず。
実が成らねば、産まれるモノもない。
「さて、どれほどの時を要するやら」
とはいえど、今はとても気分が良い。
そも、約束が成されたのだから、何を思った所で詮無き事だ。
一つ頭を振り、意識を切り替えると。
屋敷へと駆け出した。
20240507 『明日世界が終わるなら』
初めて逢った日を覚えている。
母親の腰にしがみつき、不安気にこちらを見つめていた小さな女の子。
臆病で泣き虫な年下の幼馴染。
手を差し出せば、戸惑うように手のひらと母親を交互に見、恐る恐る手を取った。
きっとその時から、手を取る瞬間の微笑みを見た時から、自分の世界は始まったのだろう。
「本当に、いいの?」
「何が?」
「本当に、後悔しない?」
何度目かの確認の言葉に、彼女は小さくため息をついた。
「ごめん」
咄嗟に謝るが、それすらも彼女を不快にさせたのではと不安になる。
ぐるぐると渦巻く感情。
それにどうすれば良いか分からず俯くと、両頬に彼女の手が添えられ目を合わせられた。
「…いっそ、なかったことにする?」
「っ、駄目だ!」
「じゃあ、ちゃんと覚悟を決めて」
どこまでも真っ直ぐな彼女の瞳。
彼女の言葉に怯えるよりも強いそれに、身体が硬直する。
どうにか視線だけでも逸らそうと足掻くも、それすら彼女は許さない。
「前にも言ったけれど、貴方の世界は広がった。今更、私の手を引く必要はないの」
自分の世界がまだ、自分と彼女とほんの僅かな周囲の人だけだった頃。
泣く彼女の手を引くのが、自分にとって大切な事だった。
あの時感じていた庇護欲と。
それに内包された、ほんの僅かな優越感と支配欲を満たすために。
「それでも、こうして手を引く理由はなに?」
どこか冷たささえ感じる声音。
鋭く射抜く琥珀色の瞳。
理由なんて、一つしかない。
「シオンが欲しい」
最初から、ずっと。
欲しいと願ったから、傍にいた。
求めて欲しくて、手を引き続けた。
もはや、理由にすらならない単純な衝動。
「…っ」
「逃げないで」
視線が逸れ自由になった手で、彼女の手を引き抱きしめる。
「他には何もいらない。シオンだけが欲しい」
顎を掬い、今度は逆にこちらから視線を合わせると、迷うように琥珀色が揺れた。
「出逢ってから、ずっとそれは変わらない。だから欲しくて、耐えられなくて、酷い事もたくさんした…そんな男に、覚悟なんて問わないで。覚悟が必要なのは俺じゃない」
「…私だって、必要ない」
瞳は迷いを灯しながらも、言葉に迷いは一切なく。
無理やりに視線を外すと、腕を振り解いて距離を取られた。
「あの時全部言わされたのに、何で今更」
「ごめん」
「くどい!」
不満気にこちらを睨み付け、背を向ける。
それだけで、全て否定された気がして。
思わず手を伸ばせば、振り向きざまに手を取られ指に噛みつかれた。
左の『約束』がはまるはずの場所に。
「…っ!」
「これ以上、謝罪は許さないから。それでもと言うなら、全部なかったことにできるように噛みちぎってあげる」
噛んだ指に口付けながら笑う彼女に、泣き虫だった頃の面影はない。
あの日よりも、彼女は強くなった。
一人で立ち上がり、歩いて行けるほどに。
それでも、枷をはめて世界に留まる優しさはあの頃のまま。
「なかった事にしないで。俺と、ちゃんと結婚して」
「なら、何回も何回も確認取らないで」
呆れる彼女を、もう一度抱き寄せる。
その華奢な温もりと優しさに、泣きたくなりながら。
彼女の左手を取り、薬指に口付けた。
20240506 『君と出逢って』