「はい、これ」
手渡されたのは、鼈甲の簪。
その意味を考え、記憶を辿る。
誕生日ではない。欲しいと強請った事もない。
あとは、
「何よ、嬉しくないわけ?」
「そんな事、ないよ。ありがとう。えっと」
段々に不機嫌になって行く彼女に、内心で焦る。
今日は何の日だった?何があった?
焦りのせいで纏まらない思考に、思い出せない記憶に泣きそうになっていると、呆れたような溜息が聞こえた。
「今日は、わたし達が出逢った日!あんたがわたしを見初めた記念日でしょうが!」
「あっ…」
はっとして彼女を見ると、不機嫌な様子はそのままに両頬を引き伸ばされた。
「人間って本当に分かんない!すぐ忘れるくせに記念の日を大事にするとか、意味不明なんだけど!」
痛みのない程度の力加減で、頬を捏ねくり回される。
相変わらず、彼女は人よりも人らしい。いや、人らしいというよりは、人を真似ているというべきか。上辺だけの行動のなぞりは意味を伴わず、その為にこうして叫ぶ彼女の姿を見るのはよくある事だ。
「あんたはもっと意味不明。こうして与えれば受け取るのに、何も望まないなんて」
頬から手が離れ、今度は髪を乱雑に撫で回される。
「人間なら人間らしく、欲望を口になさい。このわたしが応えてあげると言っているのだから」
「何もないよ。今で十分幸せ」
「易い幸せね」
呆れたと笑う彼女には、分からない事なのかもしれない。
人ではない彼女は、見返りを求めない。望まれれば応え、代わりに一度機嫌を損ねたら全てを奪い去っていく。
神様はそんな怖い存在なのだと。寝物語によく聞かされた。
そんな目の前の怖いほどに美しい神様にとって、この幸せは些細なものなのだろう。
「今が幸せ。これ以上はいらない」
独りではない安堵。見返りなく与えられる優しさ。
彼女にとっては些細な幸せが、どんなに尊いものか。
きっと、それ以上を望んではいけない。
望んだならば、戻れなくなってしまうだろうから。
「まぁいいわ。今はそれで。その代わり今日は好きにさせてもらうわよ」
「いいよ。惚れた弱みともいうし、どうぞご自由に?」
「なら、まずは髪結いからね。さっさと背を向けて座りなさい。簪と櫛も渡して」
「はいはい」
くすりと笑い、彼女に背を向け手頃な岩に腰かける。
簪と共に手渡した櫛も、以前誕生日の祝いとして貰ったものだ。
他にも、些細な何かしらの記念日を理由に、彼女や今ここにはいない彼から多くを与えてもらった。
「相変わらず、綺麗な髪ね」
けれど、今上機嫌で髪を梳いている彼女の名を、私は知らない。
知っているのは、彼女達が人ではないという事。そして、この幸せには終わりが近い事。
「もうすぐあいつも来れるだろうから、来たらお茶にしましょ」
「忙しいの?」
「別に。無駄にこだわっているだけよ。今日の茶菓子の用意も、新しい棲家の事も」
新しい棲家、と聞いて思わず眉根を寄せる。
手慣れた手つきで髪をまとめ、簪を挿す彼女の様子に変わりはない。けれども、その声音はどこか楽し気で。
「もうすぐだし、特別なのは分かるけど。こだわり過ぎるのは気持ち悪いだけね」
結い上げた髪にそっと触れ、彼女が笑う。
「次は、黒の着物にしましょ。特別だもの」
「特別…?」
「それとも、別の日がいいかしら?わたしはあんたに見初められたこの日がいいのだけれど。あんたが生まれた日でも悪くはないわ」
彼女の言葉の意味が分からない。
特別な日が、終わりの日なのだろうけれど。
彼女達は、本当に分からない事ばかりだ。
「名前はもう決めてあるの。楽しみでしょう?」
腰に手を回され、抱き寄せられる。
くすくすと、背後から聞こえる笑い声が鼓膜を揺する。
「その日まで、望みがあれば口になさい。応えてあげるから」
あの日から、繰り返される言葉。
望みはないと何度返しても、繰り返される。
もし、もしも。
今が続けばいい、と口にしたならば、何か変わるのだろうか。
彼女達の特別も、なかった事になるのだろうか。
そんな事を思いながらも、結局は臆病に口を閉ざし首を振るのだ。
今が幸せ。これ以上はいらない、と。
20240508 『初恋の日』
5/8/2024, 2:31:31 PM